市民活動総合情報誌『ウォロ』(2013年度までブログ掲載)

ボランティア・NPOをもう一歩深く! 大阪ボランティア協会が発行する市民活動総合情報誌です。

2009年6月号(通巻446号):この人に

2009-06-01 12:51:44 | ├ この人に
「怒りは神様が返してくれる」。
平和へのキーワードは、
この感性にあるんじゃないのかな。

記録映画作家
 柴田昌平さん

13年間にわたって記録した証言は22人、約100時間。やさしい目線で回されるカメラ。荒崎の海岸(注1)で、そしてアブチラガマ(注2)で、まるで幼子が親の話を聞くように、ひたすら受け手となり、“言葉のシャワー”を浴びながら、じっと、じっと、聴き入った日々。そうして世に問うた映像は、60余年の歳月を飛び越え、今を生きる人びとに、いのちの輝きをやさしく語りかけた。『ひめゆり』……決して平坦ではなかった道程の先に射した、温かな光だ。

■沖縄の土を初めて踏んだのは、NHKへ入られてからだとお聞きしました。なぜ沖縄に?

 人が暮らしていく実質、みたいなのを知りたかったんです。学生時代から、人間の営みの原点になってる土地を訪ねるチャンスを探してて、NHKに入るとき、東北、九州、沖縄など、都市生活から離れられるような地域に配属してほしいと希望を出したんです。それと、文化人類学やってた影響で、大学3年のころから民映研(民族文化映像研究所)(注3)のアチック・フォーラム(注4)にもずっと参加してました。すごい好きで毎週通って。姫田忠義さん(注5)に憧れて、作品もほとんど観尽くしました。でも、アチック・フォーラムでは、上映が終わったあと製作者と観客とがディスカッションをするのですが、意見を求められるのがイヤで、いつも隅っこのほうにいて姫田さんと視線が合わないようにしてたんです(笑)。自分に自信がなかったんですね。

■入社当時から、沖縄戦をテーマにした番組をつくられたんですか?

 いや、避けてたんです、最初は。沖縄に配属されたのは希望通りだったけど、右も左もわからない土地でしょ。ここですごいことがあった、という知識はもちろんありました。でも手強ごわくて、果たして僕なんかが受けとめられるテーマなのか。やはりちょっと大きすぎる、こわい、ずっとそういう思いがしてて。もうひとつは、今までいろんな方々が戦争関係のドキュメンタリーを作られてましたが、僕の心に響く作品にはなかなか出会えていなかった。でも、じゃあ自分が作るとしたらどうやるんだ、ということも皆目見当がつかない。ちゃんと向き合う自信がない。そんな何とも情けない自分だったんですね。

■では、とうとう機会はなかったんですか?

 作ったんですよ、結局。ディレクター3年生のときです。それで大失敗。 当時、沖縄戦をテーマにした番組を制作するのが、3年目の新人の“通過儀礼”でした。NHK沖縄局では90年代初め、市民のみなさんにスタジオを開いていこうと、毎週木曜日の夜8時に「ゆんたく(注6)テレビ」という生放送のトーク番組をやってたんですね。その枠でたしか6月23日に、沖縄戦を特集した90分の特番を組んで、僕が担当したんです。ちょうどベルリンの壁が崩れ、冷戦構造がなくなる一方で、嘉手納基地(注7)が世界の地域紛争への出撃拠点となるなど、沖縄の基地の役割はより大きくなろうとしていました。そこで僕は、今起こってる戦争が沖縄とどう関係してるのか、自由に語ってもらう場を企画したんです。沖縄戦だけで終わらせず、次世代に続く広がりを求めようと。
 番組では、沖縄出身の写真家や歴史学者をゲストに、戦跡めぐりに参加した高校生、沖縄戦の研究をしている大学生など、若い世代にも集まってもらいました。ところが、沖縄戦だけ研究する、考える、ってのはどうなんだろう、戦争は沖縄戦だけじゃないんだから……みたいな状態で議論が尻切れトンボになり、時間切れでそのまま番組が終わってしまったんです。沖縄戦のことを大事に勉強してきた人たちにとっては侮辱的な印象を残してしまいました。 ディレクターとして、事前に番組の議論の流れをシミュレーションをする力が足りなかったと思います。収録したものを後で編集できたら良かったのですが、このときは生放送でした。視聴者からのクレームもものすごかったし、出演した皆さんからも非常に強く批判されました。おそらくこれまでNHKがつくった沖縄戦の番組では、とりわけひどいものになったと思います。
 入社3年目、まだまだナイーブなころです。ひとつひとつの取材がこわくてこわくて、人と向き合うってこわいじゃないですか。いきなり重要な番組を任され、そのあげくの大失敗。もうすごいショックでした。その後NHKをやめることになるんですが、このトラウマから立ち直れなかったというのが理由のひとつです。

■それで民映研へ?

 中途半端な取材は絶対やっちゃいけない、ひとたび世に出してしまえばもう取り返しがつかない。失敗を通して学んだことです。自分の能力に限界を感じながら、「やめる」という選択もこわく、その後ずるずる1年。実はこの頃に一度辞表書いたんだけれど慰留され、東京の報道局というところへ異動しました。でも全然ついていけなくって。もうこれは挽回するチャンスも来ない、と、自分から見切りをつけてしまったんです。
 で、この先どうしょうどうしょう、と考えあぐねた末、やはり人と出会って人と学ぶ、ってことはやりたかったんで、一から映像の勉強をし直そう、と姫田さんに頼み込みました。「民映研に入れてください。給料タダでいいので」「NHKだろう、やめないほうがいい」「もう辞表出してきたんです」「じゃあしょうがない」(笑)。
 3年いましたが、本当に勉強になりました。「映像で記録していく」という、ごく当たり前のことをごく普通にやる。「犬も歩けば棒に当たる、当たった出会いを大事にしろ。見下しもしないかわりに“ヨイショ”もしない。同じ目線に立て」。姫田さんによく言われましたね。カメラワークひとつにしても、こういう付き合い方って意外と難しいんですよ。姫田さんがずっとそれをやってるのを、横で見て覚える毎日でした。

■『ひめゆり』を撮るきっかけ、出会いにもなったんですね。

 94年頃、自分たちの記録がないので、短編のビデオ作品を作れないか、あるひめゆりの方からNHK沖縄局に相談があったんですね。それでフリーになっていた僕が紹介されたんです。
 独り善がりでNHKを離れてしまった僕を見放すことなく気に掛けてくれてた、かつての同僚や先輩。彼らからの心遣いのおかげでした。話をいただいたとき、かつての大失敗の記憶が頭をよぎり、ややためらいましたが、民映研で学んできた、伝えたいけれど受けてくれる場のない庶民たちの語りをしっかりと受けとめ、映像で記録していく仕事。僕にもできるかも、と思い始めてた時期でもあり、ぜひやってみたいとお請けしました。そして全力投球し、ひめゆりの方々10人が戦争体験を語る25分のドキュメンタリー、『平和への祈り―ひめゆり学徒の証言』を、その年のうちに完成させたんです。みなさんとても喜んでくださいました。その後も撮影を続けたのは、僕自身の思いとして、この人たちはどういう生い立ちで、どうして戦争に巻き込まれて、そしてどんな戦後を歩んだんだ、ということをもっと聞きたい。そんな気持ちがだんだん強くなってきたからです。ひめゆりのみなさん一人ひとりが実に個性的で、また人間的魅力にあふれた人たちだったことに突き動かされたんですね。

■ひめゆりのみなさんに対する柴田さんの温かな思いが、2時間10分の証言映像に投影されていますね。

 みなさんの心のなかには、今でも戦場で亡くなった16、7歳のお友達がいて、彼女たちといつも話をしながら、長い戦後を過ごしてこられたんだろう。だからみなさんの証言は、実際戦場になった場所、昔のお友達に会える場所で聞こう。カメラを担当してくれることになった澤幡さん(注8)と、そう話をしました。また、澤幡さんからの「テープは何本ですか」との問いに、50本だと答えると、彼は「ひめゆりのみなさんが、もうこれ以上語ることはないと思うまで、とことんカメラを回し続けたい。そのために、テープは100本(注9)用意してほしい」と言ってきたんですね。姫田さんとともに数々の作品を生み出してきた、この民映研のベテランカメラマンは、僕に「記録することの性根」を据えつけてくれたように思います。
 100本のテープを用意し、撮影が始まりました。「生き残ってすまなかった……」。数十年の間、封じ込めてきた記憶の箱を開ける瞬間。私たちが語り、伝えるしかない、と重く閉ざしていた心を開いてくれたみなさんから発せられた、ほとばしるような語り。「まるで“言葉のシャワー”を浴びてるようだった……」。傍らでヘッドホンをつけ、マイクを向ける音声の吉野さん(注10)からの印象深い一言です。その後も少しずつ撮り足し、足かけ13年。映画のもとになった証言映像は100時間に及びます。プロデューサーには、民映研を事務局長として支えてきた小泉修吉さんも加わってくださいました。
 「ひめゆりの方たちに元気をもらった」「一人ひとり立つ姿に勇気づけられた」「いのちの輝きを感じる」。映画を観ていただいた方からの感想にこんな言葉があるのも、語られた証言が「怨み節」になってないからです。「怒りは神様が返してくれる」。沖縄古来の信仰にもとづいた思いの深さ、大切さ。ひめゆりのみなさんは僕たちにそれを教えてくれます。そして、平和へのキーワードも、この感性にあるんじゃないのかな。今、ふりかえってみて、そう思うんです。

インタビュー・執筆 編集委員 村岡 正司

●プロフィール●
1963年生まれ。東京大学で文化人類学を専攻。卒業後、NHK(沖縄放送局ディレクター、報道局特報部)、民族文化映像研究所を経てプロダクション・エイシアを設立。 沖縄やアジアに目を向けた映像作品 を制作し続ける。主な監督作品に『1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦』(教育映画祭優秀賞)、NHK『風の橋~中国雲南・大峡谷に生きる』(ギャラクシー賞)、NHK『杉の海に甦る巨大楼閣』(ギャラクシー賞・ATP賞)、NHKスペシャル『新シルクロード・第五集・天山南路・ラピスラズリの輝き』(伊・国際宗教映画祭参加、2007年ニューヨーク・フェスティバル金賞受賞) 、NHKスペシャル『世界里山紀行・フィンランド・森・妖精との対話』(独・World Media Festival 銀賞受賞) 、長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』(キネマ旬報ベスト・テン<文化映画>第1位、文化庁映画賞<文化記録映画部門>大賞ほか)。http://www.asia-documentary.com/

(注1)荒崎の海岸:沖縄県糸満市束里。沖縄戦末期の45年6月、「ひめゆり学徒隊」の生徒を含め多くの人びとが「集団自決」(強制集団死)した場所。
(注2)アブチラガマ:沖縄県南城市玉城字糸数。沖縄戦時の45年4月末、陸軍病院の分院となり、「ひめゆり学徒隊」が看護活動に使役された。「ガマ」は自然洞窟。
(注3) 民映研(民族文化映像研究所):神奈川県川崎市麻生区。76年創立された民間の研究所。日本の基層文化を映像で記録・研究し、119本の映画作品と150本余りのビデオ作品を生み出している。
(注4)アチック・フォーラム:09年で28年目を迎える民映研の作品自主上映会。現在までに製作された作品を上映し、後半には製作に参加したスタッフと観客との対話の会が持たれる。
(注5)姫田忠義さん:28年神戸生まれ。旧制神戸高商(現神戸商大)卒。54年上京、民俗学者宮本常一に師事。61年から映像による民族文化の記録作業を開始する。民族文化映像研究所設立後、同研究所所長。
(注6)ゆんたく:沖縄方言で「おしゃべり」の意味。
(注7)嘉手納基地(嘉手納飛行場):沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがる、極東最大の米空軍基地。
(注8)澤幡さん:澤幡正範。民映研の映像カメラマン。代表作に『シシリムカのほとりで』ほか。
(注9)テープは100本:当時、テープ1本あたりの記録時間は20分だった。
(注10)吉野さん:吉野奈保子。元民映研所員。現在、NPO法人共存の森ネットワークにて「森の“聞き書き甲子園”」プロジェクトを担当。

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