ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 | |
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今日はまたシューベルトを聴く。コヴァセヴィッチによる、ピアノ・ソナタ第21番D.960。そして、魂をゆさぶられた。
生きていて、どんな瞬間のために生きているのかと自問した時、といって、普段そんなことをはっきり意識したりしているわけではないけど、でも、いつも自分がこれほど毎日沢山の音楽を聴き続けているのは、まさにこんな瞬間のためなんじゃないだろうか、なんてことをつい思ってしまう。
とすれば、今この瞬間に限っては、自分は幸せなのか、どうか。
それにしにても、シューベルトの、この美しさは本当に何と言ったらいいのか。自分はまだシューベルトのピアノ曲でさえしっかりとは聴けてないし、分かっていない曲も多いが、例えばオーケストラにも、こんな美しい曲がいくつもあるのだろうか。
そうだとすれば、まだまだこれからも聴き続けていけば、こんな感動が訪れることが何度かあるかもしれない。そうしたら、本当に幸せだ。
コヴァセヴィッチは、初めて聴くピアニストだったけど、こんなにいいとは思わなかった。かなりダイナミックで男性的な演奏で、ベートーヴェンのソナタの感触を思わせる。というより、もともとこれらの最後のソナタは、ベートーヴェンの影響が濃いと言われているので、むしろこういう感じの演奏が一番合っていたのかもしれない。
ところで、そのシューベルトとベートーヴェンだが、2人は1827年のベートーヴェンの死の直前に一度会っていたらしい。
といって、翌1828年にシューベルトもこのピアノ・ソナタ第21番D.960を書いた後に亡くなったので、さらなる進展を示すことはできなかったのだが、シューベルトがもしももっと長生きしていたらどんなソナタを書いたかとは、以前からも考えた話だ。
だが、今日は普段とは逆の仮定が頭に浮かんだ。
もしもベートーヴェンがもう少し長生きして、例えばこのD.960の楽譜を見せられたらとしたら、ベートーヴェンもこの曲に感動したのではないか。
そして、何らかの影響を受けざるを得なかったのではないか。それほどの力がこの曲にはあるのではないか。そしてその後にまたベートーヴェンがソナタを書いたら、それは一体どんな曲になっただろう。
というより、2人がもしあと10年くらい長生きしてお互いに影響しあって作品を書いていったといたら、音楽史はどれほど塗り替えられただろうか。
で、そのベートーヴェンといえば、実はここ数年、ベートーヴェンのソナタはややご無沙汰なのだが、今こうしてシューベルトを少し知った上で改めて聴いてみたら、少し感想も違ってくるのかもしれない、なんてことも考えた。
ふだん、シューベルトを頭の隅に置きながらベートーヴェンを聴いている人って、いるのだろうか。
・・・とまあ、こんなことを考えつつ、今日一日は過ぎた。
で、今はこれほどシューベルトに感動しているのに、しかしこの感動は一瞬で、一旦音楽から離れてしまうと、次の瞬間にはもうケロッと忘れてしまったりしている。
そして、例えば明日はたぶんジャズを聴いているかもしれないし、いや今夜だってすぐに寝れなかったら、これから1時間後にも全然別の音楽を聴いている自分がいる。
というような自分が、いつも自分でも不思議だ。