On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

聴いたCD Josh Rawlings Trio : Climbing Stairs

2016年09月26日 | ジャズ(キー:Piano,Organ 等)
Climbing Stairs
 
CD Baby

Josh Rawlings (p) Nate Omdal (b) Adam Kessler (ds)

 これはここ最近、繰り返し聴いた盤。なかなか良いです。

 きっかけは、これも当ブログでは言わずもがなのジャケ買いで(主観的には90%以上ジャケ買いじゃないかと思っている)、もうこういうジャケ、ホントに大好き。ぼくに沢山CD買わせたいならこういうジャケどんどん作ったほうがいいです(笑)。

 で、内容としては、これはJosh Rawlings というピアニストがリーダーのピアノ・トリオ盤。雰囲気としては、ざっくり言うと非常に聴きやすく、かといって甘すぎない感じの演奏で、何となく地方色を感じるなあと思ったら、何とシアトル出身のピアニストだったので、ちょっとビックリ。

 実は最近、シアトル辺りのジャズを聴くことが何度かあって、先日もそんな盤の雰囲気が好きだみたいなことを書いたばかりだったのだった。

 ただまあ、このJosh Rawlings に関しては、単に地方っぽいと感じただけで、シアトルというのは偶然なのだが(そんなところまで感じ取れる耳は持ってない)、しかし大都会と地方都市という見方で見た場合、アメリカって、しばしばそういう意識的なものから解放されていて、ごく自然に地方で若い人たちが伸びやかに(普通といえば普通の)ジャズをやっているように見えることがあって、もともと日本と違って地方都市それぞれの文化の厚みや雰囲気もあったりするのかもしれないが、そういうところが素晴らしいというかちょっと面白いなあ、なんて思い始めているところ。

 もしもこれが、自分が地方のジャズ・ミュージシャンだったらと考えると(全くの妄想ですが)、もう時代の先端を行く大都会の動きが気になって気になって仕方なく、焦りのあまり自分の足元も見えなくなったりするような気がする(単に自己が弱いだけかもしれないが)。

 ・・・で(変な妄想はさっさと終わって)、楽曲ははっきりと書いていないが、自身のライナー・ノートからみると恐らく全曲自作。基調は非常に繊細でメロディアスな感じだと思うのだが(ラスト曲を穏やかで美しいタイプのソロ曲で締めている点でもある程度分かる)、最初は必ずしもそうは見えなくて、アップテンポ、ミディアムテンポ、ややムーディな曲等をあえて前半に配置して、後半に徐々に本来のコアの自分を出すというか、構成的にも非常に考えられている様子。

 というかむしろ、曲的にはこれぞ美メロみたいな記憶に強く残る曲はないのだが、逆にそういう曲って、その曲が終わると聴き手の意識も一旦切れるという面があり、むしろここでは曲それぞれの完結性が多少弱く、それがかえって次の雰囲気の違う曲が始まってもうまく意識が移行できて、イヤにならずに最後まで聴きとおせる効果につながったりしているのかも。

 というわけで、これは比較的リラックスして、全体を聴きとおすのに適しているタイプの盤なのかもしれない、なんて思った盤でした。

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聴いたCD Olatz Zugasti : Bulun Bulunka

2016年09月21日 | 民族音楽・ワールドミュージック・カントリー・純邦楽等
Bulun Bulunka
Elkar

 今日は、以前から大好きなCDを聴いてみる。

 多分、ずっと休止中の旧HPにも取り上げていたと思うんだけど(スミマセン、早くどこかのHPサービスで復活しようと思いつつ、ずっとサボったまま)、これはもう「殿堂入り」のCDと言っていいというか。過去に何度聴いたことだろう。

 で、内容としては、これはオラツ・ズカスティというバスク地方の女性シンガーによる、バスクの伝統的な子守歌をケルティック・ハープの弾き語りで演奏したディスクで、以前は国内盤も出ていました(数年前だったか、一時中古屋でよく見かけた時期があったんだけど、それがいつも捨値みたいな値段で「なぜだ?」とひとりで憤慨していました)。

 ただ、解説にも書いてあるけど、バスクはもともとケルト文化圏ではないので、ケルティック・ハープ自体ももともとバスクの楽器ではなく、こうして伴奏に使ったのは彼女のオリジナルとのこと。しかし、聴き始めるとどれも本当にいいメロディばかりで、またケルティック・ハープの音色も実に良く合っており、そんなことはどうでも良くなってしまいます。

 そして、最初に聴いた当時いちばん驚いたのは、バスクというそれまでは時折ニュースで聞く過激な独立運動での「無骨」なイメージや、それまでわずかに聴いていた「バスクの音楽」的な網羅的な民族音楽音源からは全く想像もできなかった、こんなにも優しい子守歌がたくさん隠れていた、ということ。

 この点、たった2,3枚CDを聴いただけでバスクの音楽が分かったような気になっていた自分を恥じるとともに、このようなレコーディングがなければ、ずっとこのようなバスクの子守歌の存在を知ることもなかったわけで、このCDとの出会いは、本当に得難い機会だったと思わずにはいられませんでした。

 そして、世界のほかのいろいろな地域でも、このような子守歌が眠っているのではないかと、想像が広がっていったものでした(といって、その後探索が全然進んでいませんが)。

 あと、直接CDには関係ないけど、「子守歌」ときくといつも思い浮かぶ言葉があって、それは「子守歌とは自分のためでなくひとのために歌われる歌であり、だからこそ尊いのだ」というもの(最初どこかで知ったのかも思い出せませんが)。

 このCDに限らず、子守歌をきいて感じるやすらぎや癒しみたいな感覚は、一つにはそういうところから発生しているのかも、と思ったものでした。 

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聴いたCD Doumka Clarinet Ensemble : Afar

2016年09月16日 | ジャズ(グループ、複数名義、オムニバス 等)
AFAR
 
ENJA

 今日はこのCDを聴く。

 実はこれ、けっこう以前に仕入れて、ちょこちょこ聴いてはいたもの。ただ、その度に面白いと思ったりそうでもなかったりでどっちつかずだったんだけど、でももうすでにけっこうな回数聴いてしまったので、何よりも覚えちゃったなあ、という感じ。

 で、このDoumka Clarinet Ensemble。編成はクラリネット3人にベース(兼ギター)、ドラムス(パーカッション)の5人組。ネットで見たところ、クラリネットの3人はクラシック出身だけどレーベルは「エンヤ」でDUでもジャズ・コーナーに並んでいたので、まあジャンルをあえて絞るとすればジャズなのかも。

 ただ、聴いた感じは表面的にはジャズっぽくあっても本当にジャズかというとどうも全然違うというか、そもそもクラリネットの音自体がしっかりした音階できっちり鳴って統制取れすぎていてむしろクラシックに近いし、いやそれ以前に、音楽的には東欧の(クレツマーっぽくも感じるけど)民族アンサンブルに近いのではないか、という印象もかなり強い。

 実は以前、90年代ごろまでの東欧の音楽というのをけっこう聴いていた時期があったのだが、今回このCDを何回か聴いているうちに、いつのまにかそういう音楽の面影を自然に思い出してしまった。

 ただ、そんな印象がある一方、そもそもこの3人はフランス人のようなので、今回は企画として東欧っぽさを出しているのか、それとも彼らが元々そちら方面の出自なのかは分からないのだが、ともかく、非常に洗練され、オシャレな現代性と、そういう地域的な要素が混じっている魅力があると思う(CDのリーフレットは写真ばかりで特にライナー・ノートついていない)。

 (で、ちょっと話はそれるんだけど、このDoumka Clarinet Ensembleはフランスだから直接関係ないとしても、今というこの時代、東欧の音楽も絶対に昔と同じでなく、現代風に変化しているはず。個人的に、ここしばらくその辺りの分野を全然追えていなかったけど、今またちょっと探してみたら、いろんな新しいCDと出会えるんじゃないかと、ちょっと期待が出てきたところ)。

 あと、最後に演奏面なんだけど、アンサンブル自体はすごく素晴らしい。最初に聴いた時は、思わず「おっ!」と椅子から腰が少し浮いたくらい。

 だが、やはりクラシック出身ということなのかアドリブの幅も少ないし、曲も作曲されすぎていて、聴き続けていると後半(曲は悪くないのに)ちょっとしんどくなる、みたいな印象。もしもここに、ジャズが持っている開放性というか自由度みたいなものが加わってくれば、断然変わってくるんじゃないか。

 あと、こういう同じ楽器をいくつも使う演奏って、同じ音色が重なる快感・陶酔があるものだと思うんだけど、そこらへんも少し薄いんじゃないかな、みたいなことを思ったりした。

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聴いたCD シューベルト : ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調ほか(コヴァセヴィッチ)

2016年09月10日 | クラシック
ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調
 
EMIミュージック・ジャパン

 

 今日はまたシューベルトを聴く。コヴァセヴィッチによる、ピアノ・ソナタ第21番D.960。そして、魂をゆさぶられた。

 生きていて、どんな瞬間のために生きているのかと自問した時、といって、普段そんなことをはっきり意識したりしているわけではないけど、でも、いつも自分がこれほど毎日沢山の音楽を聴き続けているのは、まさにこんな瞬間のためなんじゃないだろうか、なんてことをつい思ってしまう。

 とすれば、今この瞬間に限っては、自分は幸せなのか、どうか。

 それにしにても、シューベルトの、この美しさは本当に何と言ったらいいのか。自分はまだシューベルトのピアノ曲でさえしっかりとは聴けてないし、分かっていない曲も多いが、例えばオーケストラにも、こんな美しい曲がいくつもあるのだろうか。

 そうだとすれば、まだまだこれからも聴き続けていけば、こんな感動が訪れることが何度かあるかもしれない。そうしたら、本当に幸せだ。

 

 コヴァセヴィッチは、初めて聴くピアニストだったけど、こんなにいいとは思わなかった。かなりダイナミックで男性的な演奏で、ベートーヴェンのソナタの感触を思わせる。というより、もともとこれらの最後のソナタは、ベートーヴェンの影響が濃いと言われているので、むしろこういう感じの演奏が一番合っていたのかもしれない。

 

 ところで、そのシューベルトとベートーヴェンだが、2人は1827年のベートーヴェンの死の直前に一度会っていたらしい。

 といって、翌1828年にシューベルトもこのピアノ・ソナタ第21番D.960を書いた後に亡くなったので、さらなる進展を示すことはできなかったのだが、シューベルトがもしももっと長生きしていたらどんなソナタを書いたかとは、以前からも考えた話だ。

 だが、今日は普段とは逆の仮定が頭に浮かんだ。

 もしもベートーヴェンがもう少し長生きして、例えばこのD.960の楽譜を見せられたらとしたら、ベートーヴェンもこの曲に感動したのではないか。

 そして、何らかの影響を受けざるを得なかったのではないか。それほどの力がこの曲にはあるのではないか。そしてその後にまたベートーヴェンがソナタを書いたら、それは一体どんな曲になっただろう。

 というより、2人がもしあと10年くらい長生きしてお互いに影響しあって作品を書いていったといたら、音楽史はどれほど塗り替えられただろうか。


 で、そのベートーヴェンといえば、実はここ数年、ベートーヴェンのソナタはややご無沙汰なのだが、今こうしてシューベルトを少し知った上で改めて聴いてみたら、少し感想も違ってくるのかもしれない、なんてことも考えた。

 ふだん、シューベルトを頭の隅に置きながらベートーヴェンを聴いている人って、いるのだろうか。

 

 ・・・とまあ、こんなことを考えつつ、今日一日は過ぎた。

 で、今はこれほどシューベルトに感動しているのに、しかしこの感動は一瞬で、一旦音楽から離れてしまうと、次の瞬間にはもうケロッと忘れてしまったりしている。

 そして、例えば明日はたぶんジャズを聴いているかもしれないし、いや今夜だってすぐに寝れなかったら、これから1時間後にも全然別の音楽を聴いている自分がいる。

 というような自分が、いつも自分でも不思議だ。

 

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聴いたCD Hutchinson Andrew Trio : Prairie Modern

2016年09月06日 | ジャズ(グループ、複数名義、オムニバス 等)
Prairie Modern
 
Imports

 Chris Andrew(p) Kodi Hutchinson(bass) Karl Schwonik(ds) Donny McCaslin(s) Regério Boccato(per)

 これは、ここ1,2週間、ちょこちょこ聴き返したアルバム。

 カナダ西部はアルベルタ州という、普段あまり耳慣れない地域出身のピアニスト、 Chris Andrew と ベースの Kodi Hutchinson の2人の名を冠したピアノ・トリオに、ゲストのDonny McCaslin と部分的にパーカッションが参加した作品です。

 実はこの Hutchinson Andrew Trio 、今作が初めてではなく、過去に「Lost But Not Forgotten」という作品も聴いていて、これがかなり気に入っていた(このブログにも書こうと思ったけど、その時は考えがまとまらなかった)。それが、この盤はDonny McCaslin も参加ということで、以前から秘かに狙っていたCDの一つ。

 で、前作も含めて、このトリオに目下一番興味を惹かれるのは、何といってもその地域性。この辺、まだ全然詳しくないのだが、それまで自分が知らないジャズの盤を普段いろいろ拾っている中で、時々シアトル、というかアメリカ北西部(中西部とかも)あたりのジャズに接することがあり(例えば、以前記事にしたTad Brittonの「Black Hills」とか)、最近どうもこの辺りの地域のジャズに、似たような雰囲気というものがあるんじゃないかと、少しずつ感じるようになってきた。

 この盤にしても、今回はカナダなので国境を越えるわけだけど、やはり全体的に雰囲気はかなり近いのではないかと。実際、今作はジャケットを見ても明らかに地域性を意識しているし、タイトルも「プレーリー」。だが、そのプレーリーが普通の青空の下どこまでも広がる草原みたいなイメージではなくて、ジャケット写真は黒い雲で覆われ、内側のトリオのメンバーの写真も古い納屋を背に廃材に腰かけたりしていて、単純に牧歌的というには翳りがある。

 この「うらぶれた」とまではいかないが、やはりこの広大な農業地帯の地方性というか、独特の「翳り」みたいなもの(日本の地方性とはまたいろいろと違うと思うが)が、この辺のジャズを聴いてしばしば感じられるところで、それがニューヨークみたいなエネルギーに満ちてスタイリッシュなジャズとは別の魅力があるというか、段々と放っておけない感じにもなってきたところ。

 が、そんな一方で、この Hutchinson Andrew Trio も言うまでもなく今というグローバルな時代の現代的なピアノ・トリオのひとつであって、さっきも書いたように今回そのフォーマットにDonny McCaslin というメジャー・プレーヤーが参加してどうなるか、というのも興味のひとつ。

 で、その結果が、McCaslin は全曲のうち約半数の参加なのだが、トリオのやや繊細でメランコリーな雰囲気に変化や活性を与えている一方、それ以上に非常にこのトリオを理解して馴染んでいて、むしろ元々カルテットかとも思える感じ。

 実は、McCaslin は以前聴いた盤が気に入らなくて遠ざかっている人だったんだけど、いや、なかなか素晴らしいのではないでしょうか。

 ・・・まあ、実は見つけた時はちょっと高くて一瞬迷ったりしたんだけど、予想以上に好感触で、買ってよかったという盤でした。

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聴いたCD David Darling & The Wulu Bunun / Mudanin Kata

2016年09月01日 | アンビエント・ニューエイジ・イージーリスニング
Mudanin Kata / ムダニン・カタ
panai / NATURE BLISS INC.

 これは、以前から気になっていたCD。

 チェロ奏者のデヴィッド・ダーリングと台湾の少数民族、ブヌン族という人たちの合唱をかけ合わせたCDで、発売当時けっこう話題になったと思います。

 しかし、このデヴィッド・ダーリング。個人的にかつてECMを聴き始めの頃に出会った人であり、かなり印象にも残っているのだが、しかしどうしても音楽が甘すぎる(イージー・リスニングっぽい)と感じることが多く(当ブログでも以前何度かグチった)、今ではなかなか素直に受け入れられない感じにも。

 なので、以前このCDの存在を知った時も、「きっと、素朴な民族音楽の合唱にダーリングのチェロをかぶせてアクを抜いて、聴きやすくしているんだろう」なんて考えて、多少敬遠していた面があったわけです(それと、中古価格も高かったし)。

 それが、今回久しぶりに中古屋で見つけて、しかも安かったので聴いてみると、これがけっこう良い。このブヌン族の合唱は、正式には「pasibutbut」というらしく、Youtubeでちょっとチェックしてみると、ホントにCDでやっているのと同じ。

 ある動画の中で、女の人が「自分たちは本当に歌好きでいつも歌っている。それも、他の部族は一人か二人で歌うが、自分たちはみんなで協調して歌う」という趣旨のことを言っているのだが、多人数での、しかも何声にも及ぶ多声合唱が非常に独特で、民族音楽研究的にも非常に貴重なんだそう。

 CDの内容としては、その合唱にダーリングのチェロ等でシンプルな伴奏をつけた曲が大半で、それがなかなか雰囲気があって、確かに癒し効果も有りか、と。あとはチェロ独奏のECMみたいな雰囲気の曲をところどころにはさんだり(ただ、独奏や、伴奏の曲でもチェロの部分は別録りだったりするみたい)で、構成的にも飽きさせない。

 とまあ、ある意味これは、かつての予想通りといえば予想通りなんだけど、しかしもしこれが、ダーリングのチェロなしでブヌン族の合唱だけ聴いたらこんなにスッと耳に入ってきたかというとそうではなくて、やはりこういう演奏も効果があるんだなあと合点がいったというか、今までの態度をちょっと反省した次第。

 というか、考えてみれば、むしろダーリングは以前からこういう音楽をやっていて、それをぼくが勝手に「違う」って思っていただけだったわけで、別にケチをつける筋合いもなかったのかも。

 あと、解説を読んでいてちょっと気になったのが、最初ダーリングが台湾を訪れた時、コンビで何度もECMに録音を残しているケティル・ビヨルンスタも同行していたらしいということで、もしかしたら、最初の構想ではビヨルンスタのピアノも入れる予定だったのかもしれない。

 そうなれば、またどんなCDが出来上がっていたのか、ケティル・ビヨルンスタもちょっと思い入れがあったピアニストでもあるので、あれこれ想像してしまいます。

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