On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

読んだ本 ジュリアン・グラック:シルトの岸辺(安藤元雄/訳 ちくま文庫)

2023年09月27日 | 本・文学

 

 これは、ここ1カ月くらいかけて、主に外出時の移動や待ち時間に読んでいた本。

 いやあ、でもこれは長かった。そして、つらかった(泣)。解説を入れると全部で500ページ。でも、とにかく最後まで読んだぞ!(笑)

 で、この小説、どういう話かと言うと、主人公はアルドーという、架空の国オルセンナの貴族階級の青年。ちなみにこのオルセンナ、ヴェネツィアを思わせる国で、過去には異民族を打ち負かせて東方貿易で栄えた国なのだが、今ではすっかり老人のように活力を失って老いさびれてしまっているという設定。

 その彼が、一応戦争中ではあるとはいえ、過去300年にわたり戦闘もなく敵国と海を隔てて対峙し続けている、海辺のシルトという砦に監察将校として赴任するという話なのだが、しかし特に前半は物語の展開が異様に遅く、かつ大きな出来事もなく主人公の独白が延々と続いていくという感じで、1ページ全部が改行もほとんどなく字で埋め尽くされていることなんてこともザラ。

 しかも、その展開を一層遅らせるのが「それはたとえば、・・・のようなものだ」みたいな、目もくらむような比喩の大洪水で、それぞれの比喩は詩的でもあり、また十分に作者の人生や物事に対する慧眼をも感じさせるのだが、しかしいかんせん量が多すぎて、ただでさえ細かいところを読み飛ばしてあらすじばかり追ってしまうクセのある自分を、迷路の中のように迷子にしてしまう。

 ということで、最初の内は戸惑うばかりだったのだが、途中からはこの小説はむしろこの比喩の洪水を味わうものなのかもしれないと気づいて、そこからは印象が一転。むしろ、その比喩の海にどっぷりと溺れてやろう、みたいな気持ちで読み進めることに。すると、いつのまにかだんだんと、依然として展開の遅さに苦しみながらも、むしろずっと終わらないでほしいみたいな気持ちも湧いてくるようにもなってきた。

 そして、そうするうちに後半になると物語は徐々には進んでいき、全体の2/3を過ぎたあたり、つまり先週あたりからだんだん緊張感が増してきて、結局最後まで敵国との戦争などは起こらないものの、主人公の行動がきっかけになって(か、そうでもなかったのかははっきりとはしないのだが)、最後は明らかに全ての破滅が暗示されるという大きな結末に。

 今の時点で自分なりにこの小説全体を見渡すとすると、これは最初から滅亡が濃厚に暗示されていて、ゆっくりと物語が進む中で最後にはっきりとそれが分かるという、平家物語とはまた違った形の滅亡の物語であるともいえるかもしれないし、最初、ただ何も分からないまま300年も眠ったような砦に派遣された貴族の青二才の主人公の行動にしても、実は自分の全く知らないところで自分がそこで為してしまうかもしれないその行動をすでに予想されており、しかもそれが国を滅亡に導くことを承知でもあったという点が最後の最後に明かされる点、物語の構成としてもすごく秀逸に感じる。

 ただ、この小説、自分としては青息吐息でやっと1回通読したというだけで、比喩の洪水にしたってよく分からないまま読み飛ばした箇所も多いし、まだしっかりと味わったというには程遠い。

 なので、こうして物語の結末が分かった上でもう一度通読したいと思うのだが、しかし一方、この余白の少ない500ページをやっとの思いで踏破したばかりで、またすぐにもう一度これに挑むのはあまりに過酷に思われるのも事実なわけで。

 というわけで、しばらくは身のそばに置いて時を待つことになると思うのだが、しかしこの本、自分のこれまで読んできた本の中でも、ものすごく異質な本であることは確か。

 実は、数年前に買ってずっと積ん読状態だった本なのだが、あの時ちょっと迷いつつも買っていてホントに良かったと思う、ホントに貴重な読書体験となった本でした。

 ・・・しかし、こんな本を最初から最後まで丹念に訳す翻訳者の人って、ホントにスゴイな。

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聴いたCD Svjatoslav Richter - Plays Schubert Live In Moscow (Disc 9)

2023年09月20日 | クラシック

 

〔曲目〕
 ・ 楽興の時Op.94【第1曲ハ長調/第3曲ヘ短調/第6曲変イ長調】
 ・ アレグレットD.915
 ・ 12のワルツD.145
 ・ 2つのエコセーズD.734
 ・ レントラー集D.366【第1曲イ長調(2種)/第3曲イ短調/第4曲イ短調(2種)/第5曲イ短調(2種)】
 ・ アレグレットD.915
 ・ レントラー集D.366【第1曲イ長調(2種)/第3曲イ短調/第4曲イ短調(2種)/第5曲イ短調(2種)】
 ・楽興の時第3曲ヘ短調Op.94の3

 モスクワ時代のリヒテルのシューベルト音源を集めた10枚組セット「リヒテル・プレイズ・シューベルト」のうち、「Dics9」を聴く。

 このシリーズは、音はあまり良くないものの、40代くらいのバリバリの壮年期のリヒテルの演奏が聴ける上に、演奏日が違う同じ曲の演奏がいくつも入ったりしているので、ファンにはすごく有り難い企画だったのではないかと思う。

 ぼくも、最初に聴いた時には、1週間くらい取っかえひっかえ聴きまくっていたのだが・・・、しかし当セットは何しろ10枚組のボリューム。前半~中盤くらいのソナタ中心の盤までは良かったのだが、終盤の小曲集になったところでエネルギーが尽きて、結局聴かずじまいで中断してしまっていた。

 それを、今回発掘して聴いてみたのだが、これが予想外に聴き応えあり。

 まず、何と言ってもシューベルトがたくさん作曲しながらも、昔も今もあまり録音では見かけないワルツやレントラー集を、やっぱりリヒテルも弾いていたんだと思いながら、この盤で初聴き。

 これらのシンプルな曲って、聴いてみると可愛い中に魅力もあって、きっと好きなピアニストはすごく沢山いると思うのだが、やっぱりいざシューベルトを録音するとなると、どうしてもまずはソナタや即興曲なんかになってしまうので、なかなかまとまって録音するところまでこぎつける人は少ないのではないかと、いつも思ってしまう。

 それと、このCDで一番心に響いたのは、「アレグレット D.915」の沁みるような美しさ。この曲、どうやらシューベルトの小曲ではかなり有名なほうらしく、自分もたしかにブレンデル盤は持っているし、過去に何度かは聴いてはいたはずなんだけど、こんな美しい曲が目の前を通過しながら、なぜかスルーしてしまっていた。

 もしかして、まだシューベルトに開眼する前のよほど昔に聴いていたということなのかもしれないけど、いずれにしても当時の自分の耳の不甲斐なさに、ちょっと悲しくさえなってしまいました。

 しかもこの曲、この盤では曲を聴き終わって陶然としながら次の曲を聴いていると、あとのほうでもう一度、パリでの別の録音が、それもすごく良い音で収録されているのですよ。編集の意図としては、単にボーナストラック的に入れてくれているのかもしれないけど、こちらとしては思わず叫んでしまいそうになるくらいの「神」編集だというか。

 それと、D.366のレントラー集は、リヒテルが数曲を選んでそれをロンド型式のようにつなげて演奏しているという変わり種(これも、ボーナストラックでもう一度出てくる)。かなりのレア音源であるのはもちろん、そもそもリヒテルって、こんなこともする人だったんですねえ。

 ・・・と、こんなふうなかなりの好盤だったこのDics9。

 当初の自分は、やっぱり心のどこかで落穂拾い的な小品集みたいに思ってスルーしてしまっていたと思うんだけど、でも考えてみれば、ウチにあるいろんなボックスセットって、これまででも全部最初から最後までしっかり聴いたものなんてほとんどないんですよね(元から、あまり律義に最初から最後まで聴いてやろうなんて考えるタイプでもないんだけど)。

 でも、絶対いろんなお宝が秘かに隠れているのは確かだとは思っているので、日々目の端にボックスセットの姿が映るたびに、少しは何とかしたいと考えてはいる次第です(本の「積ん読」にちょっと近いのかも)。

Schubert - Allegretto D.915 - Richter Paris 1961

 

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聴いたCD Mozart: Complete Clavier Sonatas Arthur Schoonderwoerd

2023年09月15日 | クラシック

 

 何かと気にかかるピアニスト、スホーンデルヴルトのモーツァルト、クラヴィーア・ソナタ集を久しぶりに聴いてみる。

 このところ自分も年を取って来たせいなのか、ハイドンやモーツァルトのソナタ、それも比較的シンプルな初期のソナタを聴くことが多くなってきたのだが、今回も全6枚のセットの中で、一番繰り返し聴いたのは1枚目の第1~3番(K.289~281)の3曲。

 で、この盤。いつも面白い試みがあるスホーンデルヴルトだけど、今回はタンジェリン・ピアノ、クラヴィコード、フォルテピアノ2種の計4台の楽器を使っていて、この1枚目はタンジェリン・ピアノでの演奏。

 チェンバロっぽい音色だが強弱がつけられてけっこう迫力があり、表現力もかなり豊か。だが、音色はあまり美しいとは言い難く、最初(何年か前)に聴いた時は気に入らず、ロクに聴かずに忘れてしまっていた。

 ところが今回、他のモダン楽器でモーツァルトの初期のソナタをいろいろ聴いていて、しかしどの演奏も少しずつしっくりしないところがあったのでふと思い出して聴いてみたところ、これが一気に興味深い演奏に豹変。いやあ、前から思っているのだが、同じ音源も聴く時期で印象が全く変わることって、けっこう頻繁にあるんですよね。

 で、今回に限らず、モダン楽器(今回聴いたのはYouTube動画も含めてピリス、パヴセ、内田光子、エッシェンバッハ、ヘブラー(新)とかだけど)を聴いていて、最近個人的にちょっとシックリきていないのは、全体に音も神経も鋭すぎると感じる点。

 これまでで、全集を録音しているようなピアニストで一番好きなのは、端正で自然体にも思えるエッシェンバッハなんだけど、でも例えば装飾音ひとつとっても、すごく細かくて耳で聴き取れないくらいの速い音ってモーツァルトの時代の楽器では出せなかったんじゃないかと思うし、またそれが夢見るような美音の演奏であったとしても、その美音を奏でることにみんな一様に真剣すぎるし、聴いていて疲れると感じることもある。

 でもモーツァルトって、例えば有名な手紙でウンコがどうのとか下品なことをよく書いているように、本来お茶らけている人でもあるし、モーツァルトの演奏って、もっと陽気でのんびりしていてもいいんじゃないかと、よく思ってしまう。

 そして、そういう意味では、こういう古楽器でのあまり繊細な音が出せない環境での演奏が、全身全霊を込めた神経質な演奏よりは、むしろ好ましいんじゃないかという思いが、どうしても頭をよぎってしまうわけで。

 それと、モーツァルトの人物像って言うと、どうしても昔見た『アマデウス』の印象が強いんだけど、まあ、実際のモーツァルトがあの通りのキャラだったかは知る由もないけれど、モーツァルトを演奏する演奏家には、もしも実際にモーツァルトに会ったとしても、あの映画の中のようなノリについて行ける人であってほしいとも思ってしまう。

 というような最近の自分なので、例えばモーツァルトの知らないCDを見つけた時に、モノトーンだったり真っ暗な背景に真剣な顔で演奏者の写真が写ったりしていると、何かそれだけで「違うんじゃないか」みたいに思うこともあるわけです。

 ・・・まあ、それはそれといて、最後にこのスホーンデルヴルトに話をちょっと戻すと、この人は学者肌の人でもあって、CDの解説はどれもすごく長いし(いつもしっかり日本語訳してくれていて有難うございます)、モーツァルト当時の音楽や奏法もすごく研究している人みたい。

 そういう点でも、興味を惹かれるピアニストであります。

⇓(最近、個人的に特にお気に入りの第2番 K.280の第3楽章です)

Piano Sonata No. 2 in F Major, K. 280: III. Presto

⇓(こちらは、実際の演奏風景。けっこう楽しそうに弾いています)

Mozart: Sonata nº 3 KV 281 | Arthur Schoonderwoerd

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聴いたCD ハイドン:ピアノ・ソナタ集(アンドラーシュ・シフ)

2023年09月09日 | クラシック

 

〔曲目〕
  ・ピアノ ソナタ ハ長調Hob.16/48
  ・ピアノ ソナタ ハ短調Hob.16/20
  ・ピアノ ソナタ ハ長調Hob.16/50

 若い頃のアンドラーシュ・シフが弾いたハイドンのピアノ・ソナタ集が出てきたので、聴いてみた。

 シフのハイドン・ソナタ集というと、後年出た2枚組(1997年TELDEC)のほうが断然有名だと思うけど、こちらはその約20年前(1978年)に日本のコロンビアのスタジオで録られた録音。シフは1953年生まれとのことなので、この年25歳。ジャケットの写真でも若いですね。

 ただ、この盤は(昭和期の)日本録音というのが実はちょっとクセもので、多分これ、日本以外ではほとんど流通していなくて、国際的には全然知られていないのではないかという気がする。そういう意味では、これはわりと貴重な1枚なのかも知れません。

 それと、今回この盤を聴きながらちょっと驚いたのは、シフは最近のYouTubeにアップされた動画でもやはりハイドンのソナタを弾いていることで、シフはCDの解説の中でも、ハイドンは「パパ・ハイドン」などという最悪のレッテルを貼られたりしてずっと誤解され続けていると憤慨していたけれども、これほど長く演奏し続けるってことは、この人は本当にハイドンが好きだったんだなあと改めて納得した次第。

 ぼく個人も、25歳でハイドンの良さが分かるような良い耳は持っていなかったけれど、近年はどんどん好きになってきていて、今ではど素人ながら「ハイドンを取り上げる演奏家は信用できる」などとうそぶくほどになってきております(笑)。

 それと、シフのこの新旧2組のハイドン、旧は1枚組なので当然曲数も少ないのだが、その3曲ともが新の2枚組にも収録されているのがまたちょっと興味深いというか。シフという人は、あまり曲の好みも変わらないタイプの人なのだろうか。

 ・・・という訳で、ここから今回聴いた旧盤の感想なのだが、単純に自分の気持ちだけでいうと、この旧盤のほうが好みかも。

 まずこの旧盤は、残響が大きい新盤に比べて、たぶんマイクも近くてストレートに打鍵された音が直接聴こえてくるという感じ。個人的に、ハイドンのような曲については、後者のような素朴な音のほうがタイプでもある。

 それと、25歳の若者だった頃に比べて45歳のベテランになったシフは、むろん演奏家として成熟しているだろうし、演奏そのものにしても深みやニュアンスなどが増していると思うのだが、しかし受け手からするとそこは単純にどちらがいいとは100%言い切れないのではないかと思っていて、果物に例えるならすごく熟れて甘みが増したものが好きな人が大勢を占めているとしても、まだ採れたてでちょっと固くて甘みも少ないほうの魅力だってあるはずで、個人的にはハイドンという古い品種は、どちらかというと早熟の段階で味わったほうが本来の魅力が引き立つのではないか、などと思ったりもする。

 それともうひとつ、自分も今やすっかりおじさんという年齢になったせいなのかどうか、ハイドンやモーツァルトの音楽に、より素朴な美しさみたいなものを求めるようになってきた。

 そういう意味では、演奏される作品も、後期の成熟した作品よりも初期のシンプルな作品のほうが好ましく思ったりすることもあるし、演奏家についても、例えすごい大家だろうと、音楽を聴いていてあまり演奏家の顔や演奏の意図が大きく見えてくるというのはちょっとジャマで、シンプルにハイドンならハイドンなりの音楽が聴こえてきてほしい、なんて思うようにもなってきた。

 まあ、この辺、聴き手によっていろんな考え方があるんだろうけど。 

 ともあれ、ハイドンは他にも録音はすごく一杯あるし、そしてやはり1枚1枚演奏は少しずつ違って自分が聴いて思うことも違うので、その点、何だか「果てしなさ」みたいなものも感じてくるようになってきました。

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CDのジャケットに使われていた絵のタイトルが判明した話

2023年09月04日 | アート・文化

 

 どうも、ジローです。

 今日は、音楽そのものではなく、CDのジャケットの話。

 これまでにも何度となく書いているのだが、ぼくは元来、それまで全く知らなかったようなCDをジャケットの印象だけで買う(安い物ばかりですが)いわゆる「ジャケ買い」が好きな人間で、そのジャケットに使われている絵や写真について調べることも多いのだが、しかし時として、その絵や写真のデータがどこにも記載されていなくて困ってしまう、ということも結構あるわけで。

 で、最近では、すごく気になっていたのがこのCD(の絵)。

 この絵、実は以前にも何回かは見たことがあって、ということはそれなりに有名な絵だと思うのだが、しかし誰の何という絵なのかが全く分からずに、ずっとモヤモヤした気持ちが晴れないでいた。

 そして、何より問題だったのは、実はこのCDを、自分が持っていなかったこと。

 このCD、内容としてはアラン・プラネス(かつて中学時代に、この人が弾いたドビュッシーのレコードでクラシックに開眼したという、個人的に忘れられないピアニスト)というピアニストが弾いたヤナーチェクの曲のCDなのだが、ぼくが持っているのは日本盤のCD。実は、その国内盤は全然ジャケットのデザインが違う。

 この絵が使われているのは、元々の海外盤のCDで、ネットで日本盤のプラネスのヤナーチェクのことを調べている時に、偶然出てきてしまった。そして、気になって検索し始めたのだが、ネットではジャケットの絵のデータまでは載っていない(泣)!

 ってことはどうすればいいんだ? 最近では、AIとかで探せるアプリもあるのかも知れないが、自分はそんなもの使ったことがないし、そうなるとやっぱり「自分らしい」方法としては、いつものようにディスクユニオンとかでこれの輸入盤に出会うのを待つしかない。

 しかし、それもせっかく行った際に忘れていたり、なかなか出会わなかったりして進展がなく、思い出すたびに気になって仕方がないので、深夜にネットで「paint」「abstrast」「road」とかの単語をいろいろ掛け合わせて画像検索したりするんだけど、それでもやっぱりなかなか出てこない。

 というか、そうして出てきた他の絵画の中でけっこう良いなあと思うものがあったりして、気づくといつのまにかそっちのほうの絵を検索してして、自分は一体何をしているんだと自分にツッコミを入れることもあったりした(それはそれでちょっと面白かったけど)。

 で、結果としては、先週全く関係ない検索をしている時に、なぜか突然この絵が出てきてしまったのですよ、確かに絵画の検索はしていたんだけど・・・。

 しかし、何はともあれ、これでついに謎が解決。

 作者はニコラ・ド・スタール(Nicolas de Stael)という画家で、タイトルは予想通り「道」でした。

 ただ、予想では地平線の3本の木なんか、絵筆でポンポンポンと一瞬で書いたように思っていたのだが、それよりは大きな作品で、白い部分も実は少しずつ色が違ったりしているし、じっくり見るとかなり時間をかけて書いたような印象。

 いやあ、でもこれ、ぼくは見ているうちにいつのまにか絵の風景の中に入ってしまって、この平原に吹く風の感触さえ感じるような気がするのですよ。そして、できればこの道を歩いて行って、木の向こうの景色をどうしても見てみたいと思ってしまうのです。

 きれいにカラー印刷したものが手に入れば、部屋に飾っておきたいくらいにも思ってしまいます。

 ただ・・・、ここからがこのようなケースの「あるある」になるんだけど、それでついに作者が判明して、もっといろいろとその画家の良い絵が見つかったのかというと、こういう場合、そうでないケースがかなり多い、というのがこれまでの経験からの正直な話。

 このニコラ・ド・スタールにしても、作者名が判明した直後に他の作品も検索してみたのだが、この「道」と同じような作品も見つかったものの、どうもあまりピンと来る作品は出てこない。

 更には先日、この画家の日本語版の画集も存在すると判明したのでわりと遠くの図書館に遠征もしてみたのだが、しかしそこに出ていた絵も(当然ながら)ネットで出てきたものと変わり映えせず、今回の探索は取りあえずこれで一旦終了、という結果になってしまいました。

 まあ、でも絵の作者とタイトルを突き止めるという所期の目的は達成したわけだから、それ以上のことを求めるのはある種ぜいたくなのかもなあ、なんて自分を慰めているところですが。

⇓ (このサイトで、大きな画像で見ることができました)

https://schabrieres.wordpress.com/2014/09/26/gilles-baudry-poeme-2013-3/nicolas_de_stael_la_route_1954/

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