On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

ショパン:夜想曲集/エリザベート・レオンスカヤ

2018年12月31日 | (旧HP記事)クラシック(ロマン派~)
ショパン:夜想曲集
 
ワーナーミュージック・ジャパン

 これは、かなりよく聴けた1枚。これから先、愛聴盤になるかも。

 前にも書いたけど、ふだんなかなか好きな盤が増えてくれないショパンの中でも、「夜想曲」は特に昔から手持ちの音源が少なかったので、最初にこのCDを聴いた時にスッと耳になじんでくれた時は、ちょっとうれしかった。

 そしてレオンスカヤというピアニストも、有名だから名前は昔から知ってたけど、これまであまり縁がなくて、ちゃんと聴いたのは実質的に今回が初めてかも。

 とりあえずこの盤の印象を言っておくと、しっかりしたゆるぎない安定感の上で、女性的なおおらかさで包んでくれるような魅力があり、また同時にショパンの繊細なピアニズムの陶酔もちゃんと透けて見えるようにできているような感じ。 

 全13曲のノクターンを、1曲1曲非常に濃やかに心を注ぎ込んで、時間をかけて彫琢していったかのような演奏に感じる。そして、これを聴いてしまったから感じるのかもしれないが、ショパンの曲でもこのノクターンこそが、彼女と特に相性がいいのではないかとも感じる。彼女のディスコグラフィーを見ると、ショパンではこの他にポロネーズ集くらいしか録音見当たらないし。

 それと、今回もうひとつちょっと感じたのは、全体の雰囲気の「ロシアっぽさ」。まあ、彼女の場合は名前からして国籍は容易に知れるわけだけど、ぼくのこれまでの(あまり多くはない)「ショパン聴き」歴というのは、フランソワなどの例外を除いて、ほとんどすべてが東欧、ロシア(出身も含めて)のピアニストばかり。もしかしたらこういう点も、この録音の音がスッとぼくの耳に届いた理由じゃないかという気がした(気がしただけかもしれないが)。

 それと、あまり関係ないけど、このレオンスカヤ、旧ソ連内でもなんとグルジアのトビリシ出身!!(グルジア好きのぼくとしては一瞬驚いたんだけど、両親はロシア人ということでちょっと残念)。

 ただ、彼女の経歴を見ていくと、そこに何度か「リヒテル」という名前が現れ、4手の曲のパートナーやらコンサートの代役やらをこなしてリヒテルの信頼と、自分の名声をも得ていったというのは興味を引く。これは、リヒテルの薫陶を多少とも受けたという点でも大きいと思うし、実はリヒテル自身もウクライナという旧ソ連の辺境からモスクワ音楽院へ入学したという経歴の持ち主。

 この、辺境の出身だという点、自分の感受性を育てる点で最も大事な幼少期に大勢のすれっからしの大人たちに囲まれて心を弄ばれるような環境がないという点では大都市出身者に比べてある意味有利ではないかと思うし、また彼ら辺境出身者というのは世界に出る前にすでに1度モスクワを征服しているだけあって、「逞しさ」というものがやはり違うと思う。

 彼女のディスコグラフィーに話を戻すと、どうやら彼女はシューベルトが得意らしい。そして気づいてみると、ショパンのノクターンとシューベルトのソナタほかのピアノ曲って、曲調にけっこう共通点があるような気も。そうなると、きっと彼女のシューベルトも素晴らしいんじゃないだろうか。

(例えば「ノクターン第13番OP.48-1」なんて、いつもこの曲って半分シューベルトが入ってるんじゃないか、みたいにも思うんだけど)。(2008.12)

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Witold Malcuzynski Plays Chopin

2018年12月31日 | (旧HP記事)クラシック(ロマン派~)

〔曲目〕
 ・幻想曲 作品49
 ・ノクターン作品15-1
 ・ノクターン作品27-1
 ・スケルツォ作品39(第3番)
 ・マズルカ作品24-2
 ・マズルカ作品24-4
 ・マズルカ作品50-3
 ・マズルカ作品56-3
 ・マズルカ作品63-3
 ・スケルツォ作品31(第2番)

 実は去年の秋、つい「ショパンを聴く機会が少ない」などと書いてしまったバチが当たったわけでもないでしょうが、その後ビミョーに良さげなショパンのCDに出くわすことが多くなってしまい、しかもまったく偶然に見つけたこの盤にけっこうハマっちゃっりしたもんだから、何だかちょっと困ってしまいました(笑)。

 しかもこれ、見つけたのがレコード屋ですらなく、家の近くにあるブックオフ。それも、近くだとはいえ駅の反対側にあるのであまり足が向くわけでもない所へたまたま入った折に見つけてしまったのだから、ホントに偶然。それが、こんなレア(だと思う)盤にめぐり合ってしまうとは・・・。

 で、このピアニスト、日本語で書くと「ウィトルド・マルクジンスキ」(多少表記に「揺れ」はある)という方。1914年ワルシャワ生まれのポーランド人で、パデレフスキーに指導を受け、ショパン・コンクールで入賞してからはヨーロッパ・アメリカで活躍。来日したこともあったそうです(~1977年没)。
 生前は「ショパン弾き」としてかなりの大家だったみたいだけど、どちらかというと渋い感じのオジサンだし(ぼくの印象にすぎませんが)、やはり活躍したのがLP時代とあっては、今ではパッと名前が出てくる人とは言い難いのかも。

 で、ぼくとしてはその「こんな渋いオジサンがどういうショパンを弾くんだろう」みたいな興味で何気にゲットしてみたいんだけど、しかし聴き始めてほんの5秒くらいで「おっ、これは聴かせる!」と座りなおして、その後は思わず傾聴。いや、これはなかなかいいです。

 まだ1枚だけしか聴いていないのであまりアレコレ言うのもナンなんだけど、何だかいい意味での実直な演奏というか。今のピアニストが良い意味でも悪い意味でも自意識過剰な演奏になってしまうのに比べ、きらびやかな派手さやすごいテクニックなどは全くないけれど、しっかりと音楽に向き合って真摯に演奏している。そんな様子が伝わってくるような、そういう好ましさというか、魅力を感じる。思えば、昔のLP時代には、まだこういう雰囲気を残している人ってけっこういたような気がする。

 それにこの人、スケール感もけっこうあるし、演奏にイヤみなところがなくて、この人の呼吸の中にスッと入っていかせてもらえる所もある。今どきのショパン演奏をいろいろ聴いて、ちょっと食傷気味になった時にこれを聴いてみたら、思わず目が開かれるみたいな演奏でもあるのかも。

 ともかく、このマルクジンスキ、なかなか聴かせます。LPを中心に邦盤もいくつか出ているようなので、探せば意外とすぐに見つかるかも。(2008/6/11)

 

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リスト:2つの伝説曲、愛の夢第1~3番、巡礼の年第2年補遺<ベネツィアとナポリ>/チッコリーニ(EMI)

2018年12月31日 | (旧HP記事)クラシック(ロマン派~)

 チッコリーニによる、リスト作品のLPです。「巡礼の年 第2年補遺」がB面に入っていて、チッコリーニは「巡礼の年」全曲を録音しているので、そのシリーズの中の1枚かと思っていたけど、本当にそうなのかはよく分からなくて、いまだに謎のまま(笑)。

 で、クラシックの場合、実際の演奏うんぬんの前に、作曲家と演奏者の組み合わせで、この組み合わせは面白そうだとか、逆にいまひとつ聴く気がしないということがよくあって、聴く前になんとなく聴いた気さえしてしまうこともあるのですが(実際に聴いてみるとほんとに予想通りで、びっくりしてしまうこともある)、このチッコリーニとリストという組み合わせは、ぼくにとって好ましいほうの一例です。

 特にこのLPのA面(「2つの伝説曲」と「愛の夢」全3曲が入っている)はよく聴きました。(「伝説」は、この盤が長らく個人的にべスト)。

 「伝説」の演奏に端的に現れていると思いますが、リスト作品の清浄無垢な精神性を聴くうえでヴィルトゥオーゾが重荷にならず、なおかつ相乗効果さえ感じられるというのは、このチッコリーニのように、作品との適度な距離感=客観性(ちょっと突き放した感じともいうか)というものがまずは不可欠なのではないか、と昔から思っております。(2007?)

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聴いたCD ラヴェル:逝ける王女のためのパヴァーヌ ― ラヴェル・ピアノ曲全集 1(フランソワ)

2018年12月31日 | クラシック
逝ける王女のためのパヴァーヌ ― ラヴェル・ピアノ曲全集 1
フランソワ(サンソン)
EMIミュージック・ジャパン

〔曲目〕
・逝ける王女のためのパヴァーヌ
・水の戯れ
・古風なメヌエット
・鏡(1.蛾 2.悲しい鳥 鏡 3.海原の小舟 4.道化師の朝の歌 5.鐘の谷)
・ソナチネ
・「マ・メール・ロア」(4手のための)
・ハイドンの名によるメヌエット

 これは、ぼく個人にとってまさに「永遠の名盤」ともいうべき1枚。

 そもそも、かつて当ブログの前身であるHPを作った時のきっかけが、それまでの半生で愛聴してきたLPやCDを紹介したいということだったんだけど、そういう意味では、その最右翼に位置していたCD(もとはLPだった)だと言っていい。

 しかし、それがなぜか自分にも分からないんだけど、当時ついにこのCDの稿を書くことを忘れてしまい、そしてこのブログを始めてからも、なぜか数年間も放置してしまった。本当に、なぜなんだろう。

 で、このCD。もちろんすべてがフランソワならではの唯一無二の演奏なんだけど、その中でもぼくにとってのメインは、何と言っても『鏡』。そして、その中でも『悲しい鳥』に尽きる。音楽って、もとは楽譜に記載された音符の連なりにすぎないはずなのに、それが本当にすごい演奏者が演奏すると、まるでまったく別の世界から響いてきた音のように感じられることがごく稀にある。この『悲しい鳥』も、最初のフレーズが聴こえてきたその瞬間から自分の意識は現実の世界を離れ、異次元の世界(ぼくの場合、マックス・エルンストみたいな20世紀絵画的な世界なんだけど)に転位してしまう。

 本当に、どうして同じ楽譜を演奏しながら、こんなにも別格の演奏ができあがってしまうのか。こういう人のことを「天才」というのか、と当時(10代だったけど)思わせられた演奏だった。ホントに、これぞピアニズムのひとつの極北といっていいのではないか。

「炎熱焼くがごとき真夏に、ほの暗い森の中で動けなくなった鳥たちを呼び起こそうとした」というラヴェル自身のイメージを(この曲はラヴェル自身のピアノ・ロールでの演奏も残っているんだけど)、ある意味超えてしまったかのようにさえ感じてしまう。

 そして、この『悲しい鳥』の他にも、『大洋の小舟』の青い海原に反射する光の眩さ、『鐘の谷』で響いてくる羊の鈴の音の無限の陶酔感。あと、『逝ける王女のためのパヴァーヌ』もほかにまったく代えがたい魅力に満ちている。

 フランソワが、決して頭が良かったとか、情感が人より豊かだったとかではないと思う。恐らくは感性の問題で、それも単純に神経が繊細だったとかいうのでもない。例えば、絵画で同じ風景を見ても独特の絵を書いてしまう人のように、感性の質が人とは違っていたのだと思う。

 個人的には、録音音楽史に残る演奏の一つではないかと思うんだけど。

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聴いたCD Guillaume Bellom : Schubert, Haydn & Debussy

2018年12月17日 | クラシック
Schubert: Piano Sonata in G Ma
 
Claves

〔曲目〕
 ・シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番 ト長調 D.894
 ・ハイドン:ピアノ・ソナタ第46番 変イ長調 Hob.XVI.46
 ・ドビュッシー:版画

 これ、実は1カ月くらい前に聴いていたCD。

 (今思えば、11月はブログの投稿がすごく少なかった。自分としては、いつもと同じで普通に音楽を聴いていたつもりだったんだけど、やっぱり何かしら不調だったのかな)。

 まあ、それはともかく・・・。このCD、手にしたきっかけは、やっぱりいつものごとく、コンサートみたいに複数の作曲家の曲が入っていたことと(しかも、ハイドンとシューベルト!)、それに全然知らない未知の若手ピアニストだったこと。いや、それ以上に、やっぱりこのジャケットの雰囲気かなあ。何だか、一見すると地味だけど、しかし何か聴き応えがありそうな雰囲気が伝わってくる。個人的に、大体いつもこういう感じのCDにそそられてしまうのだ。

 で、この Guillaume Bellom 。国籍はパッと出てこないんだけど、ギョームという名前と、こうしてスイスのレーベルからCD出していることで、大体推測は可能かと。それよりも、この1990年代生まれという若さ。これじゃあ、知らなかったのも当然か。このCDも、ソロ作としてはデビュー盤らしいです。

 で、聴いてみた感想は、すごく理知的なタイプのピアニストという感じ。正直、いきなり聴き手に分かりやすくアピールする派手なダイナミズムや美しい音色、メリハリみたいなものはあまりない。それに、濃いめの感情を表出するタイプでもない。そうではなく、理知的にしっかり考えながら演奏していくような感じで、聴き手にしても、演奏者がどう思ってこの部分をこう弾いているのかとか、そういう内面的な部分に意識が向かうようなタイプの人じゃないかと。

 例えば今回のプログラムでも、リーフレットによると、多様性を保ちながら同時にプログラムの一貫性をどう持ちこむかということに腐心したみたいなことがまず書かれていて、まず最初にシューベルトの 第18番ソナタをメインに置いた後、その次にハイドンの第46番のソナタを持ってきた理由として、その第二楽章に、後年のシューベルトの「long surge」(どう訳せばいいのだろう)の予兆が見られるというようなことが書いてある。そして、最後のドビュッシーも、主題を無限に発達させたようなシューベルトのあとで、簡潔な書法の曲を持ってきたのだと。なかなか、こういうこと読んだ記憶がないかなあ。

 それと、はやり音楽自体にまだ20代のフレッシュで繊細な感性みたいなものも感じて、そこが魅力にも感じる。今回、まだこの1枚を聴いただけだけど。

 正直まあ、ちょっと地味だとは思うけど(ホントにジャケット写真の雰囲気そのまんまという感じ)、でも20代のピアニストのデビュー盤で、こういう普段着みたいなシャツに暗めの背景を選ぶってなかなか見ないと思うし、今後もこういう狙いのある企画を続けていってくれると、こちらとしてはすごく有り難い。

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聴いたCD(というよりYoutube動画)Misha Alperin and Mikhail Rudy :Double Dream

2018年12月16日 | クラシック
Double Dream
 
EMI France

 これはちょっと面白く聴けたCD。

 先日、例のごとくどこぞのディスクユニオンを徘徊していた折りに目に入ってきたCDで、「あっ、ミシャ・アルペリンだ!」と思ったら、何と普段になくもう一人のピアニストと4手の企画をやっているらしい。しかも、ジャケット裏の曲目を見ると、どうやらクラシックの曲を演奏している様子。「ぬぬっ、これは珍しい」と、早速ゲット。

 で、聴いてみたところ、たしかにこれはロシアのピアニスト、ミハイル・ルディとの2台のピアノのための企画で、内容としては、それぞれのクラシック曲を原曲の部分もあり、変奏の部分もありということでアレンジして演奏している曲と、その間に時々アルペリンのオリジナル曲が混じっている感じ。で、恐らくミハイル・ルディのほうはクラシックの人なのでアレンジ云々については特に関わってなくてほとんど曲をオリジナルのまま弾く部分を担当し、変奏その他の部分はアルペリンが担当しているのではないかと見た。

 ただ、こうして音だけを聴いていると、どうもオリジナルの部分は原曲ほぼそのままに聴こえる部分も多くて、一体そこを一人でやっているのか二人で分担しているかもよく分からなくて困っていたところ、ふと思いついてYoutubeで動画を探してみたら、なんとほぼCDそのままの内容のオスロでのライブ映像を発見! 「やった~!」と思うと同時に、このライブ、曲目までほとんどCDと同じなので、これじゃあCD買う必要なかったんじゃないかと、ちょっと損した気分にもなってしまいました(泣)。 

Misha Alperin and Mikhail Rudy live in Oslo 2007

 で、改めて動画を見て分かったことは、このデュオは基本的には分業制。やはり、一人で弾いているように聴こえるところは一人で弾いており、途中で相手にバトンタッチすることが多い。ただ、当然一緒にやる部分もあるが、そういうところは即興性はあまりなくて、事前の打ち合わせやこれまでの演奏経験で、ほぼ決まったことをやっている感じ。

 で、アルペリン・ファンの自分としては、最初クラシックのピアニストとクラシック曲をやるってもしかして差が出たりしないのだろうかと心配もしたのだが、そんなものは杞憂でした。アルペリンも全然遜色ないではないですか(ちょっと大雑把な音に感じる部分はあるけど)。

 そして、変奏やオリジナル曲にやはりアルペリンの個性が窺えるし、またそれがちょっとロシア的だと感じたりで、なかなか演奏も楽しめる(特に、ドビュッシーのエチュードなんか新鮮に感じた)。

 (で、いつも言うけど、こういうオリジナルから一歩踏み出した新鮮な企画が、やはりなかなかクラシックのピアニストからは出てこなくて、ジャズ界の人にばかり偏ってしまっているというのが、ぼくなりの不満。クラシックの中にも、こういう才能がある人、たくさんいるんじゃないかなあ。

 そして、動画を見てもう一つ思ってしまったのが、聴衆の年齢層が高めに見えること。やはり、かの地でもクラシックになかなか若者は振り向いてくれないのでしょうか)。

 まあ、それはともかく、これはやはりなかなか新鮮な企画で、思いがけぬ拾い物になったという感じ。ミハイル・ルディも、これまで名前だけしか知らなかったけど、今度CDを見つけたらちょっと聴いてみたいです。

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歌の起源について(山極寿一:暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る )

2018年12月11日 | 本・文学
暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る (NHKブックス)
 
NHK出版

 

 いやあ、まったく偶然だったんだけど。

 実は、音楽とは全然関係ない興味で上の本を読んでいたところ、偶然にも人類の歌と踊りの起源についての考察に出くわしてしまった。

 それによると、はるかな昔、アフリカで生まれた初期人類は最初の生活環境であった森林からやがてサバンナに進出するようになったのだが、大型の肉食動物が徘徊するサバンナで生き残っていくべく仲間同士が一致団結して行動するうえで、音楽こそがその一助となったのではないか、と書いてあったのだ。

 しかも、人間が言語を獲得したのはせいぜい数万年前にすぎず、つまり歌と踊りは言語よりはるか以前から存在していたらしい(ただ、言葉のない歌となると、掛け声とか意味のない叫び声で多少節やリズムがついている程度とか、そういうことになると思うけど)。

 また、それらが可能になった根拠として、一説には人類が2足歩行をするようになって手が身体を支える機能から解放されて胸部への圧迫が減り、声帯に変化が起こってメロディックな発声が可能になったのではないか、また同時に自由になった手を振り、腰を回してステップを踏むことむできるようになったのではないかともいう。

 そして、音楽とは思考よりも感情をより表現するものであって、音楽はまず人間に感情を表出する技法を与えたのだという。いやあ、なかなかすごい。

 また、それとは別に、音楽が母子間のコミュニケーションから生まれたとする説もあるらしい。人間の母親は、ゴリラやチンパンジーなどと違って生まれた子を早々に別の人に預けてしまうが、そうすると赤ん坊はけたたましく泣いて自己主張する(ゴリラやチンパンジーの赤ん坊は泣かない)。それをなだめるために子守唄が必要になった、という説。

 う~ん、こちらもなかなか興味深いです。

 で、話はちょっとそれるけど、そんなことを考えているうちに、昔高校だか予備校だかの授業で聞いた話を思い出してしまった。それは、たぶん現代国語の時間で、詩の解釈みたいな講義の時だったと思うんだけど、そのときの先生が、五十音も「あ」から始まり、アルファベットも「A」から始まることから、人間が初めて発声した音って「あ」だと思いませんかと、言い出したのだった。

 それを聞いて、つい自分も一瞬そうかもしれないと頷きかけた。でも、すぐに「いや、そんなきれいな発音じゃないんじゃないか」という考えが、頭をもたげてきた。それ以来、ときどきこの話を思い出してしまう。でも、今考えてもやっぱり「あ」はちょっと出来すぎじゃないかと思う。最初は、「ヴゥ~」とか「ウォ~」とか、いずれにしてもくぐもった、はっきりと形容できないような音だったんじゃないかと思う。

 思うに、五十音で最初に「あ」を持ってこれるまでには、人類はきっと長い長い時間、何万年という狩猟採集時代から農耕社会を経て、ある程度社会の規範が整った文明に至る必要があったのではないかしらん。最初の「あ」の語感には、例えば「朝」の「あ」にも通じる、明るいすがすがしさみたいなものが確かにある。けれど、同時にその背後には、すでにかなり整った社会性みたいなものを、どうしても感じてしまうのだ。

 実際、最初に「あ」という人のイメージって、半裸の原始的生活をしているような人じゃなくて、すでにきっちりとした服を着ているようなイメージしか思い浮かばないというか。

 ・・・って、知らない間に何だか話があらぬ妄想に流れていってしまいました。今夜はこの辺で。

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