On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

聴いたCD シューベルト : さすらい人幻想曲 | ショパン : 12の練習曲 他 / アレクサンドル・メルニコフ

2021年02月27日 | クラシック

 

〔曲目〕
 ・シューベルト:さすらい人幻想曲(グラーフ・フォルテピアノ使用)
 ・ショパン:12の練習曲 Op.10(エラール使用)
 ・リスト:ドン・ジョヴァンニの回想(ベーゼンドルファー使用)
 ・ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの3楽章(スタインウェイ使用)

 これは、久しぶりに初めて聴くピアニストの「技巧」の凄みに、思わず少し胸が震えてしまったCD。

 このCDの演奏者、アレクサンドル・メルニコフについては、もう年齢的には40代半ばなのでヴェテランとも呼べる域に入っているのかもしれないんだけど、自分にとってはこれがほぼ初聴き。世界的にも活躍していて録音もそれなりの数があるようなのだが、主要レパートリーがロシアもので(それもラフマニノフとスクリャービンはほとんど弾いていないし)、室内楽の伴奏が半ばを占めるという点が、これまで自分が耳にする機会がなかった理由かもしれない。

 しかし、このCD最初の「さすらい人幻想曲」で「おっ!」となって、次のショパンで「おおっ!」となり(この曲集を聴くのがすごく久しぶりだったので、練習曲自体のすごさにも圧倒されたのだが)、さらに「ドン・ジョヴァンニの回想」を経て、「ペトルーシュカからの3楽章」で、「うおおぅ!!」と唸ってしまった。

 ロシアには、昔から「何でも軽々と弾けてしまうピアニスト」というのが何人もいたわけだけど、この人も十分にそんな中の一人に数えていいんじゃないだろうか、というレヴェル。で、ちょっと調べるとリヒテルの弟子筋(直接教えてもらったことはないらしいが、晩年親しくしてもらってアドバイスなどはしてもらったみたい)にあたる人なのだとか。なるほど。

 そして、そんな人がかなりの楽器オタクというか、歴史的ピアノを集めていてその曲の作曲当時の楽器で弾くのが好きらしい、と。

 しかし、とりあえず今回は当方としてはメルニコフ初体験だし、まずは彼の技巧のすごさにシンプルに打たれてしまった。いやあ、これは中々スゴイ。とりあえずの第一印象としては、リヒテルよりはちょっと繊細で柔軟な感じはあるけど、やはり基本の骨太なゆるがなさはしっかりとあって、そしてそれがあまり細かなニュアンスの出せない(と思うのだが)歴史的楽器を弾くことで、打鍵の力強さが一層強調されている感じ。

 そして、もうひとつ感じたのは、細部の表現には(いい意味で)けっこう無頓着なところがあるというか(ここらへんはリヒテルに似ている)。このへん、元々ホロヴィッツ信者の自分としては、美音のスタインウェイでもって豪華絢爛な演奏もこの人なら楽々出来そうなのに、それがすごくもったいないともつい思ってしまったのだが、この人は普通に誰でもタメるところでもあっさりインテンポで通過することも多いし、しかしここまで技巧があるとそんな些末なことはもう興味がないのか、なんてことも思ってしまう。

 実際、わざわざ「ドン・ジョヴァンニの回想」なんて超難曲をチョイスしておいて、それを難なく弾きこなしていながらあえて飾らないなんてほかのピアニストにしたら嫌味にしか映らないだろうし、それと今回実は「ペトルーシュカからの3楽章」が個人的にはすごく良くて、この曲、昔ポリーニ盤で聴いた時に「たしかにスゴイけど、でもこれ以上工夫のしようも無いんじゃないか」と思って、以来ほとんど他の演奏を聴いたことがなかったのだが、それがこのメルニコフは、細部にかなりニュアンスがある演奏で、ポリーニのある意味機械的な演奏に比して、潤いとこの曲に本来宿っている生命力みたいなものを感じてしまった。

 この盤でどれか1曲推しを選べと言われれば、この演奏かなあ。

 ただ・・・、彼のディスコグラフィーをみると、ベートーヴェンをはじめとするドイツものはいまだに伴奏ものの域を出ていなくて、この年齢で独奏曲を録音させてもらえていない、というのはなぜなんだろう。

 今回、いろいろと写真を見て、何となく柔和で優しそうな顔が多いのがちょっと気になったのだが、例えばベートーヴェンの演奏をして、そこに確固たる説得力みたいなものを発揮できていないのかなあ(ある意味、「ハッタリ」力とも言うべきか)、なんてことも頭をよぎってしまった(写真の印象だけであまり飛躍したことも言えないけど)。

 それはともかく、今現在、ぼくの頭の中ではこの人の弾くプロコフィエフというのが、一番気になっている。この人はけっこうプロコのソナタの盤を何枚も出していて(全集企画なのか?)、ということはそこでは当然リヒテルの演奏が頭に入っていて、あえて録音しているという解釈が成り立ってしまう。

 リヒテルの演奏がもちろんスゴイのは前提としても、やはり録音としてはやや古いので、この盤の演奏の感じでメルニコフが弾いてくれるというだけですでに十分存在価値はあると思うのだが、実際にはどんな音が聴こえてくるのか、今からちょっと楽しみというところです(国内盤があるみたいだから、とりあえず図書館からタダで借りられそうだし(笑))。

Trois mouvements de Petrouchka: III. La Semaine grasse

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聴いたCD Maya Homburger & Barry Guy : Dakryon

2021年02月23日 | ジャズ(フリー系)

 

 これは、ここ何日かよく聴いたCD。

 基本的には、Maya Homburger (マヤ・ホンバンガー)というバロック・ヴァイオリン奏者と Barry Guy (バリー・ガイ)のベースのデュオ作品で、ちなみにこの2人は夫婦とのこと。バリー・ガイはもともとロンドン出身。マヤ・ホンバンガーはスイス出身なのだが、結婚後はスイスのほうに住んでいるのだそうです。

 で、このCDはレーベルも「Maya recordings」ということで、彼らの自主レーベル。実は彼らのデュオとしては、この盤の後に Intakt から発売された「Tales of Enchantment」という作品も以前聴いたことがあって、そちらも良かった記憶があるんだけど、その時はなぜか今一つ未消化に終わってしまい、今もこの部屋のどこかに埋もれております(笑 ーそれと、彼らは本作の前にECMから「Ceremony」というCDを出していて、恐らくコンセプトはそこから継続していると思われます)。

 で、この Dakryon 。今回は夫婦2人のほかにゲストとして Pierre Favre が参加してはいるんだけど、かなり限定的な参加で、基本的にはやはり2人のデュオの世界という感じ。

 しかし、こういうデュオ演奏として珍しいと思ったのは、演奏曲目がバリー・ガイが提供する現代音楽的&フリー・ジャズ的作品が半分ほどある一方、そのもう半分が17世紀の作曲家ビーバーや Dario Castello という人の作品、あるいは聖歌(の編曲)だったりすることで、そういう現代的な作品とバロック作品が交互に現れるという点。

 この点、バリー・ガイがバロックの作品の中でヴァイオリン独奏の低音部を受け持つというのは別に驚かないのだが、妻のマヤ・ホンバンガーもが現代音楽的な作品を全然違和感なく演奏していることがちょっと意外というか、この人はクラシックの演奏ではジョン・ガーディナーのイングリッシュ・バロック・ソロイスツなんかに参加したりしているようなのだが、ああいう楽団の団員って生粋の古楽愛好家ばかりなのかと思い込んでいたら、実はいろいろとこんな変わり種の人たちが混ざっているのかもしれない。

 で、そんな才人らしきホンバンガーが描くこのCDの世界観が、まず最初にすごく有名な聖歌『来たり給え、創造主なる聖霊よ』のけっこう混沌とした編曲から始まって、ビーバーの悲愴な感じの『パッサカリア』ヴァイオリン独奏に続き、それから Pierre Favre を交えてのかなりヘヴィーな現代楽曲風の曲が続いた後で、最後にまたビーバーに戻って『ロザリオのソナタ第10番 「磔刑」』をメインに据えるというのは、かなりテーマ性があるようにも思えるのだが、どうもそこらへんのことはよく分からず(というより、あまり深く考えたくないと言うか)、こちらとしては彼女のバロック・ヴァイオリンのちょっと鄙びた響き(で現代曲を演奏するというのがまず耳新しい)とバリー・ガイのベースの低音の音の重なり自体がかなり面白く、一見混沌した楽想の部分も、よく聴いてみると意外に様々に変化していたりして聴き返てみるとその度に発見があったりして、結局繰り返し聴いてしまう結果になってしまった。

 まあ、雰囲気としてはけっこう厳しめの曲想が多いので万人向けとは思わないんだけど、あと彼らのデュオはかなり作曲された部分が中心になっていると思うが、即興的な演奏もかなりやっているみたいだし、しっかり聴いてみるとかなり面白い演奏なのではないかと思っております。

Veni creator spiritus

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聴いたCD モーツァルト:ピアノソナタ第8番&第18番&第15番(リヒテル)

2021年02月16日 | クラシック

〔曲目〕
 ・ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310
 ・ピアノ・ソナタ 第18番 ヘ長調 K.533+494 [1788年改訂3楽章版] 
 ・ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 K.545

 ここ半月ほど自分の中に吹き荒れた「ベビメタ嵐」も何とか峠を越えて、こうしてだんだんと普段の音楽を聴く時間も戻ってきた今日この頃(笑)。

 つい数日前まで自分が熱中していたものに、今はそれほど入れ込むことができないことに気づくのは悲しいことではあるけれど、しかしどんなものであれブームというものはいつかは去るもの。これからは新たに自分の中に出来た「好きな音楽」の一つとして、また睡眠時間を削るほどにならない程度に接していきたいと思っております(といって、今日も実はさっきまで2時間くらいYouTube動画見てしまったけど(笑))。

 で、それはさておき、今日の盤は以前買っていて当時一度聴いていたものの聴き直しというパターンで、ジャケットは「何でこれ?」みたいな廉価盤っぽさ全開ながら、内容はリヒテルのまだ西欧デビュー前、ゴリゴリの壮年期のモーツァルトのピアノ・ソナタ集というCDです(1956年、プラハでのライヴ録音)。

 1956年と言えば、モーツァルト生誕200年、そして「プラハの春」10周年ということで、そういう意味でのこの企画だったらしいんだけど、でもリヒテルによるモーツァルトのソナタ集って意外とあまり数が多くないという印象で、しかもこういう年齢の演奏となれば一層ほかの盤がなかなか見当たらなくて、そういう意味ではちょっと貴重な録音なのかもしれません。

 で、音質も1950年代なのでそれ相応という感じではあるんだけど、でもそんな音質でもいざこうして聴き始めると、とたんに惹きつけられてしまってそんなことどうでもよくなってきてしまうというのが、やっぱりいつものリヒテルの魔法というか。

 もう、打鍵はいつものごとく基本的に強靭で一切の迷い無し。であるのに表情は濃やかでもあって、音楽にもいささかも優柔不断なところがない。ふつうのピアニストなら、モーツァルトのソナタを弾くとなったらどうしてもいろいろと余計な表情を装ったりと、ある意味他人本位の演出をしてしまいがちなものだと思うのだが、この点、この人はそういうことに無神経なのか無頓着なのか、まるで聴衆が目に入っていないかのように、何の遠慮も細工もない。

 それは一種の「遠心力」みたいなものでもあって、客に安易に媚びない分、それでそっぽを向かれかねない危険も秘めていると思うのだが、しかし演奏にそんな上っ面を排してより本質に迫る音楽性が備わっていると、ただのちっぽけな「求心力」にすがるだけの演奏と違い、むしろ客が自分の方から押し寄せるような大きな魅力を獲得することができるという、リヒテルの演奏は、そんな種類の演奏ではないかと思ったりする。

 そういう意味で、ここでのモーツァルトは、微笑ましさや優しさみたいなソフトなイメージとはかけ離れた(というよりももともと関係がない)印象で、どちらかというと厳しさや迫力も伴って、無骨でさえあるような表情を持つのだが、しかしそんな演奏を聴いていてそれが全くマイナスに感じられず、いつのまにかこの音を聴く喜びを感じ始めている自分に気づくという、そういう種類のモーツァルト演奏だという気がする。

 そして、こういう演奏になると、聴き手がピアニストを「いいね」「うまいね」などと見下すようなことはもはや許されず、逆に「スゴイ」「深い」などと、見上げて礼賛させる種類の演奏に反転してしまうことになり、まさにそれこそが昔も今も変わらないリヒテルの名声にほかならないのではないか、というか。

 そんな、リヒテルのピアニズムをいろんな演奏で浴びるのはいつでも快感なのだが、その中でもこのモーツァルトのソナタという作品は、彼の弾くレパートリーの中では最も楽譜がシンプル、かつ音数が少ない作品ともいえるわけで、今聴こえている音が単音であることも多く、和音でも2音、3音の和音であることがほとんど。

 そのシンプルな音符を、この人の硬質な容赦ない音で聴くヨロコビ、というものもきっとあって、そして気づいてみるとこれは他にそう例が多くはなく、ある意味貴重といえるのではないかと、実はさっきから思ったりしておりました。

 そして、そういう意味では、ここ1,2年ようやく食わず嫌いを脱して聴き始めたリヒテルの同郷のギレリスによるモーツァルトというのもどんなものなんだろう、ちょっと聴いてみたくなってきたな、なんて思い始めてもいるところです。

↓(下は、YouTubeで拾った多分同一音源と思われる第18番 ヘ長調 K.533+494の演奏です)

Mozart - Piano sonata K.533/494 - Richter Prague 1956

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現在、とある海域に「遭難中」につき、普段のブログ更新ができません(泣)

2021年02月08日 | 音楽(他ジャンル)

 どうも、ジローです。 

 実は、ここ10日くらい、ふとしたことから「Babymetal」に完全にハマってしまいまして、もう何だか普段聴いているジャンルのCDを聴いて、感想を書くどころではなくなってしまいました。

 特に、ここ4,5日は、夜帰ってきてつい YouTube を開いてしまうといつのまにか Babymetal 動画を見始めていて、そして気が付くとそのまま超深夜になってしまって睡眠時間さえも減ってしまうというパターン。いやあ、もう完全に Babymetal に溺れて遭難してしまったというか(世間では「ベビメタ沼」というのか?)、ほかのことが何もできない!

 で、どういうきっかけでこうなってしまったかというと、ぼくの場合、それはいわゆる「リアクション動画」というヤツ。

 最近、 YouTube ではアニメや音楽の動画を見ながら、その感想を画面に向かってしゃべるみたいな動画がかなり流行っているようで、半月くらい前にその存在に気付いた自分は、最初日本のアニメや映画を海外の人が見て叫んだり泣いたりしているのが面白くて(例えば『火垂るの墓』や『進撃の巨人』とか。←ただし、ぼく自身はどちらも見たことがない(笑))、それでいろいろ面白そうなのを探して見ていたんだけど、そうするうちに実は何年か前に一度見てかなり気に入っていた『ギミチョコ』のリアクション挿画が出てきて、それをつい見てしまったのですよ。

 で、久しぶりに見ると動画自体ももちろんいいんだけど(ていうか、この2021年2月時点で、閲覧回数1億3000万回ってナンだ!)、それが次から次へと外国人の個性的なリアクション動画が出てくるものだから、それを見るうちに他の曲の動画も芋づる式に見ることになって、曲自体も好きになるわ、リアクションする外国人の人も面白い人がいるわで、そしてまたもちろん Babymetal の動画自体の曲もいいし振り付けもいいし3人のメンバーもどんどん好きになってくるしで、何だか「急性ベビメタ中毒」とでも言いたいような状態になってしまいました。

 (この間、本当にほかに何もできなかったけど、でもそれって一種の「幸せ」だったということでしょうか)。

 ちなみに、これまで(といってもせいぜい2週間だけど)で好きな動画は、

BABYMETAL - ギミチョコ!!- Gimme chocolate!! (OFFICIAL)

BABYMETAL-KARATE (live UK Download 2016)

BabyMetal Legend of 1997 Headbanger

BABYMETAL - Road of Resistance - Live in Japan (OFFICIAL)

 くらいなところで(初心者なので、メジャーどころばかりになってしまってスミマセン。でも、いくつかある同じ曲の動画の中からは多少選んでいる)、ほかにも日々いろいろ見ているんだけど、彼女らの一番スゴイと思うところは、海外のリアクション動画の人たち(ヘビーメタル系のファンとかが多い)が皆いかつくてタトゥーたくさんしていたり怖そうな人も多いのに、その人たちが最初「?」って顔をしていても、後半にはみな笑顔になってしまうところかなあ。

 そういう、人をハッピーにしてしまう魅力が彼女たちにはある(ていうか、本当に世界でこんなに人気あるのスゴすぎる。完全に、プロデューサー(koba-metalっていう人?)の最初の思惑を超えまくっていると思う)。

 で、メンバーの3人についても、最初はよく分からなくて「ヴォーカルの子って、声いいなあ。それと、小さいツインテ2人は双子? で、みんな名前に -metal って後ろにつくのね」くらいの認識だったのが、

 今や、

su-metal → 神々しい、というかもはや神そのもの

yuimetal → 超絶かわいい。ていうか、笑顔が世界破壊レベル。 → 「・・・んっ?」「えっ?」「なんでなんでなんでなんで? 分からない分からない分からない分からない。あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない!!!!・・・・・。2018年にさかのぼって悲しすぎる(泣)」

moametal → 最初 yuimetal と見分けつかなかったけど、2人体制になって大変だった時にもけなげに su-metal の横で支えていた姿に打たれて泣く & 最近、ヴォーカルもちょっとやっていてすごく上手くなっている姿(それに大人びてもきた)にも打たれて泣く(今ここ)

 とまあ、こんな順番で、たぶんすごく順当にベビメタ・ファンへの道を歩んでおります。

 

 ただ・・・、

 ただ、もしもファンの悲願が本当に実現して yuimetal が復帰したとしても(すでにぼくの悲願でもあるけど)、しかし時はひたすらに容赦なく流れていて、もうみんなハタチを超えてしまったし、最近では衣装もメイクも新曲の曲調も振り付けも、だんだんと大人びたものになってきていて、初期の「baby」らしさ全開な曲をやり続けるのがシンドくなっているような気は、どうしてもしてしまうんですよね(てなことをド素人が言うとやっぱりファンの人に怒られるかな)。

 でも、ぼくは普段かなり究極のインドア派なのでどんな好きなジャンルでもコンサートなんかにはまず行かないのだが、この Babymetal に限っては、もしも 2014~5年あたりにタイムスリップできて(それもまだ比較的小さいハコで身近で見れるようなら)、本当にライブに行ってみたい。

 いやあ、本当にこのグループは何もかもが神がかっているというか、いろんな要素が関わった誰もの(プロデューサーほかの裏方も含めて)予想をはるかに超えて奇跡的にうまく融合した結果、世界(日本語さえ分からない人たちに)にアピールできる圧倒的な魅力を獲得したのだ、というような気がするんですよね。

 *(最後にぼく自身の生活に話を戻すと、ここ数日で主要なリアクション動画もほぼ見尽して、だんだん動画を探す時間のほうが多くなってもきたので、取りあえずはこれから少しずつ普段の生活に戻れるのではないかという気がしてきました。それと、この突然の Babymetal マイブームの余波として、これまで一生縁がないと思っていた HR/HM といったジャンルの音を今回けっこう聴いてしまって、ああいう音を浴びてシビレル快感みたいなものも、ほんのちょっとではあるが感じてしまった。スレイヤーとかメガデス(たまにタモリ倶楽部に出たりしているマーティ・フリードマンがいたところ?)とかジューダス・プリーストとか、まだ全然知らないけど今度安い盤をちょっと拾ってみる? みたいな展開もあるかもしれません)。

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聴いたCD シューベルト:歌曲集「冬の旅」(フィッシャー=ディースカウ&バレンボイム)

2021年02月02日 | クラシック

 

 どうも、昨夜はひたすら YouTube で Babymetal の動画を見まくっていたジローです(笑)。

 ・・・が、今日は一転してシューベルトの「冬の旅」(この落差は何なんだ!?)。

 しかし、この曲集は昔から歌曲というものがどうしても苦手な自分が多少とも愛好しているといえる唯一の歌曲集でして、それをもっぱらこの演奏で聴いているこのCDは、実はかなり大切に思ったりしております。

 で、曲については今さら説明不要の超名曲だし、ぼくなんて歌詞もあまり分からず聴いているので、特に何もウンチクを語ることはできないんだけど、毎回(といっても、せいぜいい2,3年に1回くらい)聴き始めてまず打たれるのは、どの曲も最初に聴こえてくるピアノの伴奏の素朴な美しさ。

 普段、ぼくなんかはシューベルトは圧倒的にピアノ曲を聴くことが多いので、シューベルトのピアノの音には慣れているはずなんだけど、しかしこのような歌曲の伴奏はまた全然別格というか、この素朴、かつ単純な数秒の前奏で、なぜか心が洗われてしまうくらいに引き込まれてしまうことがある。

 本当に、これは何ならその後に歌が始まらなくてもいいと思ってしまうくらいで、例えばの話、リストなんかがシューベルトの歌曲をたくさんピアノ曲に編曲しているけど、あれはもしかするとリストは分かっていなかったんじゃないかというか、どうしてもピアノ曲にアレンジするなら、この伴奏部分の本来の素朴さこそがここでは命なのであって、それを殺さずに最低限の主旋律をつけるくらいのアレンジでよかったのに、なんて考えることもけっこうあったりする。

 (特に、第6曲の「雪解けの水流」や第11曲の「春の夢」、第15曲の「鴉」なんて、冒頭の曲調のままピアノ独奏曲で進んでいたらどんなによかっただろう、とはいつ聴いても思うところ。というか、時々頭の中では歌を聴かずに妄想で編曲が始まってしまうこともある)

 この点、あえて暴論を言えば、シューベルトもやはり人の子だったというか、彼のピアノ曲はやはり他の作曲家同様、どうしてもピアノ曲としての見栄えをある程度は意識して書くという地点から逃れられてはおらず、どれもこれらの歌曲の伴奏の冒頭のように、子どもでも簡単に弾けるようなシンプルさで貫かれている曲は見当たらない。

 しかし、そのようなシンプルすぎる形であっても、きっと人の心を打ついい曲はできるはずで、もしもそういう曲を作らせれば、一番得意そうなのが誰あろうこのシューベルトだったようにも思えるし、現にそれは、このようなピアノ曲の伴奏という形で不完全ながら実現されているのでないか、と思ったりしなくもない。

 そういう意識で聴いてみれば、これらの伴奏はこれほどの音の少なさでありながら、しかしどこを切ってもすでにシューベルト以外の何者でもないし、これらのリートは、そこに一つの声部が加わっただけとも言え、音符の多いピアノ曲に比べればまだ十分に素朴であって、もしかするとそういうところにこそ、これまでの自分は多少なりとも惹かれてきた理由があるような気もする。

 そして、ピアノ曲に今一度話を戻すと、さきほどのぼくの妄想ではないけど、もしも想像力豊かな人であれば、この伴奏の一節をきっかけにピアノだけで曲想を続けていけば、もしかするとシューベルトが作ったかもしれない幻のピアノ曲の響き、というものを体験できるのかもしれない、なんてことも思うのだが・・・。

 と、この「冬の旅」についてぼくが語れるとすれば、せいぜいこの程度のことなのだが、でも実はフィッシャー・ディースカウについてはひとつだけ自慢があって、昔(声楽をやっていた母について行っただけなのだが)、彼のコンサートに一度行ったことがあるのです(もう何を歌っていたかもさっぱり覚えていないけど、終演後、楽屋に押しかけてサインまでもらった)。

 そのせいもあってか、昔から彼には何となく好感を持っていて、とりあえず何か知らない歌曲を聴く時には今でもまずは彼の盤を探すクセがあるし、この盤もそれで聴き始めて、いつのまにか定番になってしまったのだと思う。

 それと、これは全くの偏見かもしれないが、歌手ってたとえば他の器楽の演奏家より、より一層その人の人柄というものが演奏面での印象にも直結するような感じがするんだけど、そういう意味では、この人の紳士然として、優しくて誠実そうなところもまた、やっぱり人気の秘密だったんではないか、というような気もしております。

 Schubert - Winterreise Op. 90, D 911 (Fischer-Dieskau, Barenboim) / Winter Journey / Зимний путь

↓ (オマケ:以前にも紹介した、サックスによる「冬の旅」~終曲「辻音楽師」とその変奏です)

Schubert - Winterreise - Der Leiermann & Improvisation

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