どうも、ジローです。
今日聴いたのは、下にYouTube動画のリンクを貼っているアムラン演奏のデュカスのピアノ・ソナタほかのCD。
・・・なんだけど、実は演奏とは別に、解説の中にあった文章のほうが興味深かったので、そちらのほうをちょっとご紹介。
(それはそうとして、Amazonでジャケット画像を使おうにも最近、品切れなどで入手できない商品のリンクを貼れなくなってしまったのが不便で仕方がない) 。
Dukas: Piano Sonata in E-Flat Minor: I. Modérément vite (expressif et marqué)
で、その解説について。
話の中心は、もちろんデュカスのピアノ・ソナタについてなのだが、しかし作品自体の解説の前に、この作品が書かれた頃の(1870~1814年の普仏戦争から第一次大戦期)フランスのピアノ音楽の状況が触れられていて、その間ドビュッシー、ラヴェルほかの印象派以外にも多くの作曲家がピアノ曲を残しているのだが、彼ら(グノー、マスネ、ビゼー、サン=サーンス、シャブリエ、フォーレ、ショーソン、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、ルーセル、オネゲル、プーランク・・・、フランクだけは1曲残っているがそれも10代の習作)の誰もが1曲も書いていない、避けてしまう形式がひとつあったと、話が始まる。
それがまさに今回のデュカスの作品である「ピアノ・ソナタ」なのだが、筆者はその理由がどうしても自問してみたくなるとしたうえで、その答えの大半は「ベートーヴェン」という一言で尽きるだろう、と続けている。
そこまで読んで、フランス人にとってベートーヴェンという存在がそんなに大きかったとは全く思い至っていなかった(と言うか、正直あまりちゃんと考えたこともなかったけど)自分としては、ちょっと驚いたというか、一瞬虚を突かれてしまった。
まあ、前半のフランスの作曲家の多くがピアノ・ソナタを書いていないという現象については、恐らくクラシック好きの人なら誰もが他人に教えてもらうまでもなく気づくことで、全くその通りとしか言いようがなのだが、ぼく自身はこの問題については、例えば管弦楽での交響曲というジャンルでも同じようなことが言えて、基本的にはラテン気質とゲルマン気質の違いというか、性格の違う主題を対比させたり、またいくつもの楽章を有機的に連ねて全体を構成したりという観念的な音楽にはフランス人はあまり合っていなかったのだろうくらいに思っていた。というか、それに何より昔から仲が悪かったドイツのマネなんてしたくなかったのだろう、なんてことを考えていた。
それがこの解説によると、1900年前後の時点でフランスではベートーヴェンの名声が異常なほど高まり、ほとんど神格化されるまでになっていて、その音楽は力、決断力、物質的世界を超越した力を持っており、それらがフランス人に欠落したものとも考えられていたらしい。
いやあ、そうだったのか。しかし、あれほど何度も戦争をして痛い目にあわされていた国の人間だったにも関わらず、敵国の人間に「神格化」という言葉が出るほどまでに評価されていたとは、恐るべしベートーヴェン、というべきか。
そして気づけば、ベートーヴェンがナチス時代に政治的にプロパガンダに利用されたという経緯がありながら、第二次大戦後も普通にフランス人演奏家がベートーヴェンを取り上げた録音を今も聴くことができるという点も、考えてみればスゴイことだったのかもしれない(何か、わだかまりみたいなものはなかったのだろうか)。
・・・ともあれ、20世紀初頭頃のフランスでデュカスが作曲を企てた当時、新しくピアノ・ソナタを作るということは必然的にベートーヴェンの最高作と比較されることになってしまうというような、作曲家にとって生半可な気持ちでは書けないような雰囲気があったらしい(でも、真剣に挑んで出来たものがしょぼいと困る、という意味ではやっぱり対抗意識はあったのかも)。
あと、ちょっと話はそれるけど、同じ「ソナタ」という名のつく「ヴァイオリン・ソナタ」についてはどうだったんだろうと、さっきから連想が広がってしまったのだが、もともとドイツ的っぽくもあったフランクの超名曲は別格として、若かりし頃に初めてドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを聴いた時に、あれっ、ドビュッシーって、ソナタを書くとこんなに厳しくて暗いような曲調になっちゃうのかとちょっとガッカリしてしまったことを、思い出してしまった。
その一方で、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタのほうは元々古風な雰囲気を取り込んだ作品も多かったせいか、かなり軽みもあって「らしさ」が出ているとは思ったけど(ド素人が偉そうなこと言ってスミマセン)。
でもまあ、個人的な印象としては、やっぱりフランス人にとってこの形式は、ベートーヴェン云々の前に「合わない」というか、うまく「らしさ」が出せない型式だったのではないかとも思ってしまう。フランス人作曲家たちも、それが分かっていて避けていたのではないか、なんてことも思うんだけど。
・・・で、ここからは蛇足なんだけど、こういうことを考えているといつも思ってしまうのが、では日本人はどうだったのかという点。
どちらかというと、ぼくは個人的にはけっこうソナタという形式に向いているんじゃないかと根拠なく思うのだが、しかし明治以来クラシック音楽を勉強していながら、クラシック好きの誰もが知っているような有名なピアノ・ソナタが1曲も見当たらないというのは、一体何がいけないのか、あるいは何が欠けているのか。
例えば日本人がクラシックで作曲をやり始めた頃、ヨーロッパではすでにロマン主義も終わりかけていた時期だったのだが、そこで慌てて時代の最先端を目指すより、まずはしっかりと古典くらいからやりはじめてしっかりした業績を残したような人が誰か、いなかったのかなあ。
と、そんなことを、さっきまで考えておりました。