On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

聴いたCD、というよりはフランスの作曲家があまりピアノ・ソナタを作らなかった理由について

2023年10月29日 | クラシック

 どうも、ジローです。

 今日聴いたのは、下にYouTube動画のリンクを貼っているアムラン演奏のデュカスのピアノ・ソナタほかのCD。

 ・・・なんだけど、実は演奏とは別に、解説の中にあった文章のほうが興味深かったので、そちらのほうをちょっとご紹介。

 (それはそうとして、Amazonでジャケット画像を使おうにも最近、品切れなどで入手できない商品のリンクを貼れなくなってしまったのが不便で仕方がない) 。

Dukas: Piano Sonata in E-Flat Minor: I. Modérément vite (expressif et marqué)

 で、その解説について。

 話の中心は、もちろんデュカスのピアノ・ソナタについてなのだが、しかし作品自体の解説の前に、この作品が書かれた頃の(1870~1814年の普仏戦争から第一次大戦期)フランスのピアノ音楽の状況が触れられていて、その間ドビュッシー、ラヴェルほかの印象派以外にも多くの作曲家がピアノ曲を残しているのだが、彼ら(グノー、マスネ、ビゼー、サン=サーンス、シャブリエ、フォーレ、ショーソン、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、ルーセル、オネゲル、プーランク・・・、フランクだけは1曲残っているがそれも10代の習作)の誰もが1曲も書いていない、避けてしまう形式がひとつあったと、話が始まる。

 それがまさに今回のデュカスの作品である「ピアノ・ソナタ」なのだが、筆者はその理由がどうしても自問してみたくなるとしたうえで、その答えの大半は「ベートーヴェン」という一言で尽きるだろう、と続けている。 

 そこまで読んで、フランス人にとってベートーヴェンという存在がそんなに大きかったとは全く思い至っていなかった(と言うか、正直あまりちゃんと考えたこともなかったけど)自分としては、ちょっと驚いたというか、一瞬虚を突かれてしまった。

 まあ、前半のフランスの作曲家の多くがピアノ・ソナタを書いていないという現象については、恐らくクラシック好きの人なら誰もが他人に教えてもらうまでもなく気づくことで、全くその通りとしか言いようがなのだが、ぼく自身はこの問題については、例えば管弦楽での交響曲というジャンルでも同じようなことが言えて、基本的にはラテン気質とゲルマン気質の違いというか、性格の違う主題を対比させたり、またいくつもの楽章を有機的に連ねて全体を構成したりという観念的な音楽にはフランス人はあまり合っていなかったのだろうくらいに思っていた。というか、それに何より昔から仲が悪かったドイツのマネなんてしたくなかったのだろう、なんてことを考えていた。 

 それがこの解説によると、1900年前後の時点でフランスではベートーヴェンの名声が異常なほど高まり、ほとんど神格化されるまでになっていて、その音楽は力、決断力、物質的世界を超越した力を持っており、それらがフランス人に欠落したものとも考えられていたらしい。

 いやあ、そうだったのか。しかし、あれほど何度も戦争をして痛い目にあわされていた国の人間だったにも関わらず、敵国の人間に「神格化」という言葉が出るほどまでに評価されていたとは、恐るべしベートーヴェン、というべきか。

 そして気づけば、ベートーヴェンがナチス時代に政治的にプロパガンダに利用されたという経緯がありながら、第二次大戦後も普通にフランス人演奏家がベートーヴェンを取り上げた録音を今も聴くことができるという点も、考えてみればスゴイことだったのかもしれない(何か、わだかまりみたいなものはなかったのだろうか)。

 ・・・ともあれ、20世紀初頭頃のフランスでデュカスが作曲を企てた当時、新しくピアノ・ソナタを作るということは必然的にベートーヴェンの最高作と比較されることになってしまうというような、作曲家にとって生半可な気持ちでは書けないような雰囲気があったらしい(でも、真剣に挑んで出来たものがしょぼいと困る、という意味ではやっぱり対抗意識はあったのかも)。

 あと、ちょっと話はそれるけど、同じ「ソナタ」という名のつく「ヴァイオリン・ソナタ」についてはどうだったんだろうと、さっきから連想が広がってしまったのだが、もともとドイツ的っぽくもあったフランクの超名曲は別格として、若かりし頃に初めてドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを聴いた時に、あれっ、ドビュッシーって、ソナタを書くとこんなに厳しくて暗いような曲調になっちゃうのかとちょっとガッカリしてしまったことを、思い出してしまった。

 その一方で、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタのほうは元々古風な雰囲気を取り込んだ作品も多かったせいか、かなり軽みもあって「らしさ」が出ているとは思ったけど(ド素人が偉そうなこと言ってスミマセン)。

 でもまあ、個人的な印象としては、やっぱりフランス人にとってこの形式は、ベートーヴェン云々の前に「合わない」というか、うまく「らしさ」が出せない型式だったのではないかとも思ってしまう。フランス人作曲家たちも、それが分かっていて避けていたのではないか、なんてことも思うんだけど。

 ・・・で、ここからは蛇足なんだけど、こういうことを考えているといつも思ってしまうのが、では日本人はどうだったのかという点。

 どちらかというと、ぼくは個人的にはけっこうソナタという形式に向いているんじゃないかと根拠なく思うのだが、しかし明治以来クラシック音楽を勉強していながら、クラシック好きの誰もが知っているような有名なピアノ・ソナタが1曲も見当たらないというのは、一体何がいけないのか、あるいは何が欠けているのか。

 例えば日本人がクラシックで作曲をやり始めた頃、ヨーロッパではすでにロマン主義も終わりかけていた時期だったのだが、そこで慌てて時代の最先端を目指すより、まずはしっかりと古典くらいからやりはじめてしっかりした業績を残したような人が誰か、いなかったのかなあ。

 と、そんなことを、さっきまで考えておりました。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メガネ拭きの布が良い!

2023年10月28日 | ブログ

 えっと、これはただの小さな呟きなんだけど、個人的にはけっこう快挙なので、ぜひ書いておきたい!

 というのは、パソコンのマウスパッドなんだけど、これが以前からどうしてもうまく行かなかった。もう、とにかく画面上でポインタを合わせるのに時間がかかって、細かいところを合わせる時なんか、もうイライラの連続。

 そもそも、自分のパソコンの歴史は、マウスのイライラの歴史でもあったなあ。もう、いっそ底にゴムのボールがついていたヤツ(長く使っていると内部のローラーとかに汚れがくっついて掃除したりするのが面倒)に戻したほうがいいんじゃないかと思ったりしたこともありました。

 で、何度か買い替えたり、色々手近なものを試したりしていたけど、変えた当初は多少マシにはなるものの、結局は元の使いにくさに戻ったりして、抜本的な改革(てほどでもないけど)には至らなかった。

 それが、・・・ついさっきですが、すごく良いものを見つけてしまったのですよ。

 それが、メガネ拭きの布。かなりスベスベのやつ。

 これ、自分史上過去最高にスベります! 

 そして、直感では、いずれ劣化するにしてもかなり長く持ちそう。

 同じ悩みを抱えている方、ものは試しでやってみてもいいかもしれません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CDのジャケットに使われていた絵のタイトルが判明した話(その2)

2023年10月23日 | アート・文化

 

 どうも、ジローです。

 先日、気になっていたCDのジャケットに使われている絵のタイトルが分かったという投稿をしたことがありましたが、

  ⇓(これです)

 

CDのジャケットに使われていた絵のタイトルが判明した話 - On a bench ブログ

PianoWorksLeošJanáčekHarmoniaMundiFr.どうも、ジローです。今日は、音楽そのものではなく、CDのジャケットの話。これまでにも何度となく書いているのだが、...

goo blog

 

 なぜか短期間のうちにもうひとつ同じような件が出てきてしまいました。

 しかも今回は、たぶんCDの実物も1,2度は見たことがあると思うのですが、実はまだ持っていない。昨夜、他の同じハイペリオンのCDの中で紹介されているのを見ているうちにどうしても気になってしまい、ネットで調べ始めたところ、何とそれで見つかってしまいました。

 CDの内容は、タカーチSQとアムランのコンビでのショスタコのピアノ五重奏曲というもので、曲も演奏者もどちらも好きな組み合わせだから今度出会ったらぜひ入手してみたいとも思うけど、とりあえずは出費ゼロで謎が解決ということで、いい気分ではあります(笑)。

 で、この作品。タイトルは『5つの家のある風景』といって、作者はマレーヴィチ。マレーヴィチの作品は、過去に画集などでちょっとは見たことあったけど、あの原色が多い抽象的な作風から今回の作品は全然予想できなかった。

 しかしこの作品、ロシアかどこかを想わせるどこまでも続く麦畑と、さみしくて深い色の空の中に寄り添って建つ家々の白い壁の色が心に沁みて、そこで暮らす人々の素朴な営みの年月の積み重ねというものにも思いが及んで、しばらく目が離せなくなってしまいました。

 当ブログで何度も書いている通り、自分はジャケットの印象でCDを選ぶタイプなんだけど、たまにこういう発見もあるので、やっぱりCD屋に通って1枚1枚手に取ってみるという作業は、止められないんですよね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聴いたCD 赤坂達三:英国の香り

2023年10月17日 | クラシック

 

 ・ジェラルド・フィンジ: 5つのバガテル  
 ・サイモン&ガーファンクル: スカボロー・フェア  
 ・ウィリアム・ハールストン: 4つの個性的な小品
 ・レノン&マカートニー: フール・オン・ザ・ヒル 
 ・アレック・テンプルトン: ポケット・サイズ・ソナタ第1番  
 ・マルコム・アーノルド: クラリネットとピアノのためのソナチネ  
 ・アイルランド民謡: ロンドン・デリー

 これは、ディスクユニオンの特価品コーナーでたまたま見つけたCD。

 ・・・と、当初は何も考えずに軽い気持ちで拾っただけだったんだけど、しかし後で気づくと、もしかしたら人生で初めて聴いたクラリネットのソロアルバムになったかも知れません(正直言って、クラリネットって昔から音色があまり好きじゃなかったので。ジャズでも、クラリネット入りはあまり聴かないし)。

 でも、ここで出会ったのも何かの縁なので、とにかくこの1枚を何度か聴いて少しは慣れていこうと思って聴いてみたところ、何度か聴くうちにけっこう音色にも慣れてきて、結果的にかなり面白く聴けてしまった。

 というか、きっとこれは赤坂さんという演奏者の力量も大きいのだと思うけど、改めて気づくとクラリネットってすごく豊かな表現力があって、こんなにこまやかなニュアンスが出せるのかと、ちょっと驚き。

 全曲ピアノ伴奏のみでのクラリネット1本の演奏なのに、最後まで全然ダレることなく飽きも来ずに聴けてしまう。う~ん、自分ってこれまでクラリネットというものに一度もちゃんと耳を傾けたことがなかったんだなあ、と聴きながらしみじみ思ってしまいました。

 そして、このアルバム、『英国の薫り』でもうひとつ興味深かったのは、これまで名前も知らなかったイギリスの作曲家たちの作品が多く収録されていたこと。しかも、それらの作品がまたかなり良い作品が多い。

 特に、冒頭のジェラルド・フィンジの『5つのバガテル』。この作曲家、名前だけは何度か見たことがあったけど、これまで全然聴いたことがないなあと思ったら、どうやら基本的に歌曲系の作曲家らしく、ちょっと作品リストを調べて見ても、ピアノ独奏曲の作品が全く見当たらない。それなら、自分がこれまで知らなかったのもうなづけるというか。

 それとこのフィンジ、かなり異色の作曲家で、都会の喧騒が苦手で田舎に移り住んだというだけならそれほど変わってもいないのだが、なんとその田舎で作曲家をするかたわらリンゴ栽培に精を出し、絶滅に瀕したリンゴの品種の保存に務めたという滅茶苦茶個性的な経歴の持ち主だったと判明。

 ・・・それはともかく、今回取り上げられていた曲もすごく旋律が魅力があって、こういう歌曲中心の作曲家が器楽を書くとこうして管楽器中心になるんだろうなというのもよく分かるし、そしてそういうタイプの作曲家の多くを、自分はこれまで知らないまま来てしまっているんだろうなあということも、改めて思い知らされたような気になってしまった。

 あと、そのフィンジの後で突然サイモン&ガーファンクルの耳慣れた『スカボロー・フェア』が続くのもすごくオシャレだし、さらにそれに続く30歳で夭折したというハールストンという作曲家の作品も、生き生きしていてすごく良い。

 そして、そこから(自分は知らなかった)ビートルズの曲が続いて、後半の曲の作曲家についてはまだしっかり聴くに至っていないという、なかなかたっぷりと聴き応え&調べ応えがあるCDだった。

 1998年録音と、もうけっこう古めというか、25年くらい経っているCDだけど、100円で買ってしまったのが何だか申し訳ないと、ちょっと思ってしまいました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観たDVD 『近代能楽集』ノ内「葵上」 (三島由紀夫/原作)

2023年10月12日 | 映画・TV

 

 

 これは、個人的に最近ハマっている、図書館にCDを借りに行った時にDVDが置いてあったらついでに借りてきて見てみよう、ということで手に取ったDVD。

 でも、正直いうとこの時はほかの映画であまり見たいものがなく、しばらくさまよった末やっと最後に何とか見つけたのがこれだったというだけ(ジャケットも暗い、というか怖そうだし、三島由紀夫もそんなに好きなわけじゃないし)。ただ、昔『近代能楽集』は読んだことがあったと思い出して、筋もロクに思い出せないから一度どんなものが見てみようと、やっと決心がついたのだった。

 で、いざ見始めて見ると、冒頭の何やらクセのある看護婦の一人語りが、いかにも取って付けたような演劇的なセリフに感じられてちょっと引いてしまった上、いよいよ主役の六条夫人が現れてからも「もうホントにうっとうしい女だなあ、男(光)も苦しんでいる妻(葵)のためにもっとビシッと言って追い払ってやれよ」みたいにイライラして見ていたのだが、しかし過去の光と六条夫人のヨットの回想シーンが始まるくらいから、男が追い払うどころか、むしろ六条夫人のほうになびいてしまうという予想外の展開に。

 当方としては、「なんでそうなるんだよ!」と男の優柔不断ぶりに思わずずっこけはしたものの、しかしそれと同時に、その過去か現在か夢なのかもよく分からない世界の出現に、気づくと一気に引き込まれてしまいました。

 そして、ヨットが過去の(というか異界?)向こう岸の六条夫人の屋敷に着いてしまったら男は一体どうなってしまうのかというところで、妻(葵)の悲痛な声が響いてきて一旦呪縛は解け生霊は去ったようにも思えたのだが、しかしその後不審に思った男が実物の六条夫人宅に電話をかけて本人と話しているところへ、何とさっきまでいたあの女が外から病室のドアをノックして、そこに置き忘れた手袋を取ってきてくれと男に頼んでくるという、まさに尋常ならざる展開に。

 で、これはもしかしてこの男なら女の言いなりになって届けに行ってしまうパターンじゃないのかとイヤな予感がしていたら、やっぱりいそいそと届けに行くのかよ、このダメ男がぁっ! ・・・と、当方いつのまにか大興奮してしまいました。

 いやあ、でもさすがに三島由紀夫。この映画、映画というよりは半分以上舞台といったほうがいいような作りの作品で、セリフも三島の戯曲をそのまま使っているらしいのだが、二度三度と見返す度にそのセリフもどんどんしっくりしてくるし、シンプルな舞台装置と吉松隆の音楽もが相まって、すごく独特の世界を作り上げている。

 そしてこの、当然もとの能とも違うし、原作の源氏物語とも違う作品を目にしたことで、ぼくの中で3者(それと三島の戯曲そのものも含めてもいいかも)の世界のイメージが交錯して、まるで幻惑的な異世界に迷い込んだような気分になってしまいました。

 そして、今回の映画でも葵上はベッドで苦しんでいるだけであまり存在感がなかった一方で(原作でも光源氏の正妻でありながら、あまりうまく行っていなかったんだっけ?)、この六条御息所の情念の凄まじさというか、この女、原作でもこの映画でも、自分の生霊が別の場所で人を呪い殺してしまうというとんでもない事をしでかしておきながら、それに今一つ気づいていないのではないかと思わせるところがまた一層空恐ろしい。

 というか、ここでなぜか、さっきから六条御息所と我が身とを引き比べてしまったのだが、自分は人と比べてもかなり淡白な性格だなあ我ながらよく思うことがあるんだけど、このような凄まじい情念の濃さというものを前にして、ああ、自分にもこの10分の1でも情念の強さがあったら人生何か変わったかのなあ、なんてちょっと考えてしまいました。

 まあ、今さら変えられないとも思うけど。

三島由紀夫 DVD 近代能楽集 「卒塔婆小町」 「葵上」動画

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聴いたCD サン=サーンス:ピアノ協奏曲全集第2集  第3番、第5番「エジプト風」他(ジャン・フィリップ・コラール アンドレ・プレヴィン/指揮)

2023年10月08日 | クラシック

 

〔曲目〕
 ・ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 op.29
 ・ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 op.103『エジプト風』
 ・ウェディング・ケーキ(カプリス・ワルツ) op.76
 ・アフリカ幻想曲 op.89

 今日は、サン=サーンスのピアノ協奏曲集を聴いてみる。

 ピアノはジャン・フィリップ・コラールで、伴奏はプレヴィン&ロイヤル・フィルハーモニーというコンビ(録音は1986~87年)。他のピアニストの全集に比べて、この盤は『ウェディング・ケーキ』や『アフリカ幻想曲』といった同じくピアノとオケのための小品が収録されているのも特徴です。

 で、ぼくはまだサン=サーンスを聴き始めてほんの2,3年ほどなんだけど、しかし最近、これらのピアノ協奏曲の「好き度」が徐々に上がってきて、こうして聴く機会も多くなってきた。特に、今一番好きなのが、ここでも演奏されている第5番の『エジプト風』。

 そして、その『エジプト風』の何が好きなのかと言えば、その「南国っぽさ」に尽きる。

 これは、たぶん世界中のどの地域でもどの分野でも大体同じだと思うのだが、芸術・文芸というものが最も濃縮・発展していく場所というのは、緯度的にある程度決まっていて、その中心は、南・北という分け方では、どうしてもやや北方に偏ってしまう。

 しかしながら、そのやや寒い地方で発展した音楽や絵画なりの文化が、ぼく自身の個人的な肌合いでいうと、どうしても「暗い」「厳しい」と感じられてしまうことが多く、できればもっと南国的な雰囲気を持つ作家や作品に出会えないものかと、昔から夢想することが多かった。

 クラシック音楽の世界にしても、無論ヨーロッパには南欧という地域があって、それぞれの国に作曲家はいるんだけど、でも例えばスペインはスペイン風、というかラテン風にどうしてもなってしまうし、東欧のほうも緯度的には多少南であっても、そこもバルカン風だったりジプシー風だったりして、それぞれ文化的に大きな求心力があったとは言い難いし、それに何と言うか、南の明るい陽光の中の、のどかな爽やかな風みたいなものを感じさせてくれる音楽というわけでもない。

 また、20世紀初頭にはサン=サーンスと同郷のドビュッシーやラヴェルが南国風な作品を多少残してくれていて、それがこれまでぼくの知る限りでは一番「南」というものを体現した作品だったけれども、それにしたって、やっぱり素材としてもスペイン止まりだったし、サン=サーンスに比べてより「北」の目線を通した「南」だったような気がする。

 ところが、ことそれがこのサン=サーンスになると、素材的にスペインどころか一気に地中海を超えて北アフリカにまで南下してしまって、しかもそこではアフリカやアラブ風の土着の民俗の空気を纏うのではなく、ある種バカンスというか、旅行者的な気分で、現地民の実生活や感情みたいなものとは無関係に、のどかで明るい気候だけを吸収することができたかのように見える。

 これは一面では、植民地的な態度であったり、俗っぽさなどと受け取られかねないかもしれないが、しかしまさに、これまでこのような明るくて余計な重さみたいなものから解放された音楽というものを秘かに求めてきた自分からすると、こうして何度も聴き返して愛着が出てくるにつれ、まるで宝石のように貴重なものを見つけたような気分にもなってきた。

 この点、個人的には一番南の明るさと軽さを帯びていると感じるのがやっぱり「第5番」で、もうほんとにこの曲のピアノの単音の柔らかいフレーズの美しさったらタマらなくて、他の曲を聴いている時でもいつのまにかそういう軽い曲調のフレーズを心待ちにしていたり、今ではそれがさらに一歩進んで、ああ、ここはピアノもオケも重たいなあ、もっと音数を減らしたりできなかったのかなあ、なんてやや不満を感じながら聴くようにさえなってきた。

 まあ、でもそれは基本的にはやはり19世紀のピアノ協奏曲であったこれらの曲には、求める筋合いのものではないことは分かっているんだけど。

 でも、そうはいっても、例えばラヴェルやフランツ・シュミットの左手のための協奏曲のような、単音の美しさというものを備えた作品を考えると、サン=サーンスがもしも同じような片手用の協奏曲を作っていたら、きっとすごい作品が生まれたような気がするんですよね。それに、たぶんソロ作品では、サン=サーンスにも左手用作品があったと思うし。

 ・・・ともあれ、このサン=サーンス、たまたま旅行好きで北アフリカによく行っていたことが、そして気楽な旅行者マインドだったことが、これらの南の陽光のエッセンスをうまく抽出した作品を作れた理由だと思うし、またそれは19世紀末という、科学技術の発展で遠くアフリカまで旅行できる交通機関が発達した時代があっての作品ということでもあったのでしょうね。

 というか、その前にサン=サーンスって、個人的にまだ全体像そのものが掴めてなくて、フランスのベートーヴェンと呼ばれたり、一方で退屈だと言われたり、まだどうにもよく分からない人でもあります。

Piano Concerto No. 5 in F Major, Op. 103 "Egyptian": I. Allegro animato

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(最近)観たDVDまとめ ー ただの備忘録 ー

2023年10月01日 | 映画・TV

 最近、図書館でCDを借りる時にDVDも一緒に借りることを覚えたため(笑)、映画を見ることが増えております。

 というわけで、忘れないうちに一言だけ感想を(ただのメモです)。

 すごくよく出来た映画。スコセッシって、やっぱりすごかったんだなと納得。けっこう長かったが、最後まで全く飽きなかった。だが、その割には心に残らなかった。なぜなんだろう。

 見つけた時、こういう作品があるのかとびっくりした。水上瀧太郎は以前けっこう好きだった作家。実は、似たようなタイトルで『大阪』と『大阪の宿』の2つの小説がある。自分が以前読んでいたのは『大阪』のほうだったと後で気が付いた。 

 これは、テレビシリーズのDVD化だろうか。もっと別のDVDも何本かあった。谷崎なんてほとんど読んだことがないが、こういうものだと入りやすい。加藤ローサが良かった。

 

 フィリップ・マーロウものということで拾ったんだけど、ちょっと時代を感じたかなあ。

 コーエン兄弟らしい変な映画だった。でも「I Am a Man Of Constant Sorrow 」は名曲。

 正直、内容的にはビミョーにブルース誕生という話ではなかったような・・・。でも、けっこう面白かったし、名前だけ知っていたビング・クロスビーの姿を初めて見れて良かったかも。

 

 最近、ちょっと焦ってきたのは、このままボケ~ッと過ごしてしまっていると、こういう超名作を自分は見ないままで終わってしまうんじゃないか、ということ。ついに・・・、ついに初めて、オードリー・ヘプバーンってかわいいなと思ってしまいました。

 ともあれ、これからは洋画であれ邦画であれ白黒の昔の作品をどんどん見ていきたいと、いま思っています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする