On a bench ブログ

ようこそ、当ブログへ。ジローと申します。
 毎日毎日、たくさんのCDやLPを聴いて過ごしております。

聴いたCD ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」, リスト:「王の御旗」他(ブレンデル)

2022年09月26日 | クラシック

 

〔曲目〕
・ムソルグスキー:「展覧会の絵」
・リスト:「王の御旗」
     「巡礼の年第3年」より「スムスル・コルダ」
     「クリスマス・ツリー」より「夕べの鐘」
     「詩的で宗教的な調べ」より「祈り」

 これは、見つけたのは今年の春ごろだったけど、その瞬間には、聴いてみたいとは全く思わなかった盤。

 いやあ、だって『展覧会の絵』ですからね。『展覧会の絵』って、過去にも何度か書いたと思うけど、クラシック曲の中でも自分の中で「耳タコ曲」の最右翼に来るような曲で、普段聴きたいと思うことがほとんどなかったし、それにブレンデルというピアニストもそんなに面白い演奏をするタイプの人ではないと思っていたから、そんなマイナス同士の組み合わせの盤を見つけて、まさか自分が数分後にこのCDを手に取っているとは、最初全く思わなかった。

 ただ、その時、ブレンデルが『展覧会の絵』ってけっこう意外な曲弾くんだなとなんとなく思ったのと、この曲をブレンデルみたいに技巧をひけらかすことには程遠いようなピアニストが、なぜあえて弾こうとしたのだろうという疑問が湧いてきて、そこでじわじわと興味が沸いてくるという展開に。実際、この曲を前にして何か成算、というか武器みたいなものがあるのか、それともただ正面から、真面目に弾くだけなのか。そんなところを、ちょっと確かめたくなってしまった。

 ・・・というわけで、思い切って拾ってみることにしたこの盤。が、果たしてその結果は、何とめちゃくちゃハマってしまうと同時に、ブレンデルその人をも見直すことにもなってしまいました。

 いやあ、しかしこれはマジで名演だと思います。

 で、その演奏の何がスゴいかというと、一言で言うならその演奏の「こまやかさ」。 

 今、この演奏に接した後になってみると、ぼくはこの曲を、本当にこれまで単純に考えすぎていたのかもしれない。これはそもそも、ムソルグスキーが見た絵の印象を音で表した描写音楽みたいなものなんだから、例えば「古城」にしろ「こびと」にしろ、それぞれの絵の情景をどう聴き手の脳裏に思い描かせるような迫真の演奏ができるかが最大のポイントで、他にもいろいろな要素はあるだろうが、基本的にはそこから抜け出ることはないのではないかと。

 ところが、そんな、もともと演奏の工夫のしようが乏しいと思っていた曲を、ブレンデルはここで、どの部分にも非常に繊細に表情をつけながら、ニュアンス豊かな曲に変えてしまっている。

 例えば、ここにフォルテッシモのフレーズがあったとして、ふつうのピアニストならそれを何も考えずただ力を込めて平板に弾いてしまうところを、ブレンデルは熟慮の末、フォルテの中でも一音一音音量をコントロールしながら、そのフレーズを聴き手が注意力をもって追うに足るフレーズにしてしまう。

 実際、その部分をもし自分が弾いていくとしたなら、と考えながら聴くと、次の音のブレンデルの音量と、自分が出そうとしていた音量は、かなりの確率で食い違う。ブレンデルは、他のピアニストがフォルテでガンガン弾き飛ばすところを、しばしば音量をピアノにまで落としたりしながら、自然で美しい表情をそのフレーズに与えてしまう。

 中でも、ぼく自身が一番思い出すのがラストの「キエフの大門」なのだが、ぼくはこの曲がずっと苦手だった。というのが、もとのムソルグスキーのピアノ譜があまりに大味すぎて、どのピアニストの演奏でも他に工夫しようがないのかと、聴いていて苦しくなっていたから。

 ぼくが昔、一番最初に聴いたのはホロヴィッツ盤だったが、ホロヴィッツは例によってあの華々しい技巧に加えて音を足して轟音渦巻く音楽に変えていたので、間は持っていたのだが、ホロヴィッツ以外の「楽譜通り」に演奏する他の演奏だと、どうしても音符が足りずに、かなり間延びしたフレーズが結構続くことになってしまう。

 ところが、このブレンデル盤では、ここでも楽譜通りの音符だけでもって十分聴き応えのある表情をつけることに成功していて、堂々とラストを飾ってしまう。

 一体なぜこんなことができるのか、これは意識してやっていることなのか、あるいはブレンデルにとっては普通のことなのか、ぼくなんかには知る由もないが、ただ、もしかするとブレンデルはこの楽譜を、一旦「展覧会の絵」というストーリーとある程度切り離して、言うなれば「テキスト」みたいに一度虚心に見つめて、自然な音の繋がりというものを模索していったのではないか、なんてさっきから考えていた。そしてそういうことを、ある種ピアニストとしての「技術」「芸」としてやっているのか、あるいは「芸術」に没入した結果成し遂げているのか、それもよく分からないけど。

 それとあとひとつ、ホロヴィッツの名前がさっき出たついでに思い出したのだが、有名な「ホロヴィッツ・トーン」というものがあるとすれば、ここでのブレンデルの音色も粒立ちも含めてすごく気持ち良くて、きっとものすごくこだわり抜いて作り上げたトーン、いわば「ブレンデル・トーン」と言ってもいいくらい完成された音色ではないか、と今わりと真剣に思っている。

 いやあ、何か、この盤に関しては曲を離れてブレンデルのピアノの音だけ聴いていても幸せなんじゃないか、なんて感じすらするんですよね。

 ・・・と、今回のこの盤、地味な盤には違いないですが、個人的には(音色も含めて)ものすごく名演なのではないか、と思っております。

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突然、ボー・ディドリー&リトル・リチャード

2022年09月21日 | 音楽(他ジャンル)

 どうも、ジローです。

 今夜は、まったく突然にロック草創期の音楽の話題を。

 といっても、2,3日前の深夜、単にいつものようにツイッターをだらだらと見ていただけだったのですが、そこに何だか、カッコいいのかそうでないのかよく分からないような黒人のおじさんが、ステージで異様に盛り上がっているライブらしき動画の投稿が。

 で、気になってちょっと調べて見ると、それが Bo Diddley という、ロック草創期のギタリストという人物だと判明。なんでも、このボー・ディドリーとチャック・ベリーとリトル・リチャードでロック御三家とも言うらしいです。

Hey Bo Diddley - Toronto 69

 いや、しかしなんですかこのカッコよさは。見た目、何だか押し出しの強そうな、日本でいえば大阪っぽいとも言いたくなるようなおじさんですが、しかしこの音楽、中毒性がすごくある。しかも気づけば、このほとんどワン・コードだけみたいなあまりにシンプルな演奏。しかし、それでこれほどの観衆が盛り上がっている!

 この舞台は、もともと1969年にトロントで行われたジョン・レノンとオノ・ヨーコ関連のフェスティバルのひとつみたいなのだが、スーツを着て足をバタバタさせてステップを踏むところとか舞台に女性をあげて躍らせるところとかキャラ的に濃いところとか、個人的にジェームズ・ブラウンとも重なるような印象を受けます。

 ていうか、この2人を比較するとすれば、ぼくとしては断然このボー・ディドリーに加担したいんだけど。

 そして、ライヴ映像での当時の若者の風俗(というか何というか)も面白い。昨日から今日にかけて、関連動画を見まくってしまいました。この方、どう考えてもロックンロールのレジェンドだし、今の100倍有名でもいいんじゃないでしょうか。

BO DIDDLEY - ROADRUNNER / MONA (LIVE)

 で、今回はこのボー・ディドリーがメインだったんだけど、御三家の内のもうひとり、リトル・リチャードのほうも個人的に発見(チャック・ベリーだけはちょっとだけ知っていた)。

 ていうか、この超有名曲、あなたの曲だったんですか。そして、ピアニストだったの? それで、世界初の不良だったって何?

 これまで、ロックという音楽には門外漢だった自分には全く知る由もなかった分野の人だけど、しかしこのヴォーカルの迫力、滅茶苦茶パワフル、というか本当にスゴいですね。

 リトル・リチャード - ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)

 というか何というか、要するにこの辺の音楽が、ロックがR&Bやブルースから派生していく瞬間の音楽だったわけですね!

 新しいムーブメントが生まれていく瞬間特有の、すごいエネルギーみたいなものを感じました。面白かった!

 

 

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聴いたCD リヒテル:JSバッハ

2022年09月15日 | 古楽・バロック

 

〔曲目〕
 ・ソナタ第4番ニ長調 BWV963
 ・トッカータ第1番ニ短調 BWV913
 ・カプリッチョ ホ長調 BWV993「ヨハン・クリストフ・バッハをたたえて」
 ・4つのデュエット BWV802~5
 ・イタリア協奏曲ヘ長調 BWV971

 どうも最近、家のCDデッキの調子が悪い。

 ただ、調子が悪くてストレスはたまるんだけど、完全に壊れていないのがまだ捨てようと思い切れない微妙なところ。それに、買い替えるにしても、もうCDデッキをアンプにつないで、みたいな時代でもないような気もするし。

 それと、今の機種はSACDプレーヤーということなんだけど、これまで聴いた沢山のCDの中で「SACDのみ」というCDはほんの数枚で、大抵はハイブリッド。つまり、SACD対応というものが必要なのか、という疑問もあったりする。

 でも、一方で子どもの頃から音楽を聴くということはまずアンプがあって、そこにレコードプレーヤーやカセットデッキをつないで、という環境で育ったので、そこへの愛着もまだ捨てきれていないわけだけど・・・。

 それはさておき、久しぶりにリヒテルのバッハ演奏のCDを聴く。

 データによると1991年11月のドイツ、ニーダーライン地方ケンペンの教会でのライブ盤ということなのだが、ヒリテルのこういう録音はたくさんあって似たような曲目のものも多いし、それが各国から違うレーベルでいろいろ出たりしていいるので、正直何が何だか分からない。

 というわけで、これが自分が過去に聴いたことがある音源なのか、初めてなのもよく分からないのだが、しかし毎度のことながら、一旦聴き始めると、もうそんな些末なことはどうでもよくなってくるというか。

 特に、今回の曲目は「イタリア協奏曲」を除いては今一つバッハの鍵盤作品の中でもマイナーどころのラインアップだと思うのだが、しかし当然こうしてリヒテルが取り上げるだけあって(特にフーガの旋律とか)イチイチ素晴らしくて、あっという間に引き込まれてしまう。と同時に、過去に同じような盤を聴きながらも、何年も忘れてしまっていた自分を恥じるような気持になってしまう。

 で、これは過去にも何度か書いたかもしれないが、リヒテルの演奏にはある程度、しっかりと目の前の曲を今まさに弾きながらも、同時に突き放してもいるような感じがあって、そこが却って「イタリア協奏曲」なんかの耳タコ曲をも、改めて新鮮に聴かせてことにつながっているところがあるように思う。

 これが、曲にすごく没入して一生懸命弾いてしまうピアニストだと、ちょっと聴いていてくどく感じることもあると思うし、それと演奏しているピアニストと、それを聴いているひとりひとりの聴き手のその曲に対する思い入れというのは当然ながら違うわけで(演奏家のほうが曲をより理解しているにしても)、演奏家の没入が、むしろ聴き手がその曲を聴くということをジャマしてしまっている(演奏家と同調した聴き方をしないと共感できない)ということもあるように感じる。

 その点、リヒテルのような巨匠の弾き方というのは、音それ自体がしっかり自立しているので、どんな聴き手も説得できてしまう力があるのではないかと思ったりする。そして、それでいて全体のゆるぎない構成力があり、力強い打鍵と繊細な神経が同居している。

 というわけで、聴く度に毎度圧倒されてしまうのだが、その感動が、なぜか長く続かずに、不思議といつのまにか忘れてしまっているんですよねえ・・・。

↓(1曲目の BWV963の動画を見つけましたが、今回のCDよりは大分古い音源のように感じます。ということは、ずいぶん昔からのレパートリーだった、ということでしょうか)

Sviatoslav Richter plays Bach Sonata in D BWV 963

 

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聴いたCD シューマン : 謝肉祭 | アラベスク | 交響的練習曲(ガーボル・ファルカシュ)

2022年09月10日 | クラシック

 

 これは、見つけた時に、全然知らないピアニストだけど曲目が全部好きな曲なので黄金だなあと思って聴いてみたら、本当にすごくハマってしまったCD。

 ピアニストのガーボル・ファルカシュは、ハンガリー出身。国際リスト・コンクールで第1位となるなど受賞歴も多いほか、数年前には東京音楽大学で教授を務めたことがあるらしく、日本との関係も深い様子。ネット情報では、現在はハンガリーに戻っているとのことで、この盤のレーベルもフンガロトンとなっています。

 で、ここ最近のぼくのシューマン曲のなかでのイチ推しは、何といっても『交響的練習曲』。たしかこの曲を知ったのはほんの2,3年前で、特価品で中古屋に落ちていたポリーニ盤が最初だったと思うけど、それまで全く聴いたことがなかったのが、一旦存在に気づくとけっこうCDを見つけることも多くて、もう10種類近くは聴いたかもしれない。

 そして、そんな中でも、今回のガーボル・ファルカシュ盤はかなり上位に気に入ったような気がします。

 思うに、シューマンの、(けっこう沢山ありますが)、小さな曲をたくさん連ねたタイプのピアノ曲って、演奏にあたっては一つ一つの曲の性格やニュアンスを弾き分けることや、それらのつながりに気を配ることはもちろんだとして、しかしその前にまず全体の統一性というか、大きなまとまりがしっかりしていることが大事で、その二つの共存がきっと難しいのではないかと思うんだけど(あまり細部に神経を使っているように感じる演奏は、聴いていてちょっと疲れてくることがある)、この点、このガーボル・ファルカシュは、特に全体のしっかりした安定感とある種の大らかさみたいなものを感じて、それでいて細部の表現もすごく繊細に感じられるしで、もう何度も聴いたけど、その度にすごく興奮してしまう(まあ、他の演奏でもある程度は興奮するんですが)。

 それと、この『交響的練習曲』は、例えばこのCDにも収録されている『謝肉祭』みたいに各曲に表題がついているタイプではなく、ソナタみたいに抽象度が高く思えることも、好きな理由のひとつ。ぼくの中では、「半ソナタ」みたいな感じで聴いています。

 そして、他の曲、実は『謝肉祭』はかなり久しぶりに聴いたんだけど、20以上ある小曲の流れもすごく自然でニュアンスも濃やかだと思うし、もう一曲の『アラベスク』も含めて、アルバム全体の完成度もすごく高いという印象。

(・・・と思って、さて世間ではどんな評判なんだろうとさっきからネットでいろいろ探してみたのだが、しかしなぜかレビューらしいレビューすら見つからない。えっ、一体これは何でなの? もしかして、世間的には、あまり評価されていないのかな)。

 ・・・しかし、それはさておき、実はシューマンは、以前苦手な作曲家だったこともあって、まだピアノ曲に限ってもロクに聴いたことがない曲がたくさん残っている。

 自分の年齢を考えても、もうそろそろエンジンをかけて、どんどん未聴曲を聴いていきたいところではあります。

↓ (YouTubeを探すと、この盤の演奏は一応見つかったんだけど、全部小曲ごとにコマ切れになっているので、聴いてみてもかなりストレスがたまるんじゃないかとも思います。とりあえず、『交響的練習曲』の中の最初(テーマ)と最後(フィナーレ)を貼っておきましたけど)。

Symphonic Etudes, Op. 13: Thema (Andante)

Symphonic Etudes, Op. 13: No. 12, Finale (Allegro brillante)

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読んだ本 ディビッド・シム:ソフトシティ ――人間の街をつくる

2022年09月05日 | アート・文化

 

 これは、何か月前だったか、ネットで都市開発関係のサイトを見ていた時に目に飛び込んできた本。

 もう、この書名とサブタイトルだけを見ただけで「これだ!」と、思わず叫びそうになった。

 しかし、ホントに何なんだろう。最近の都心のあの、ガラスと白いパネルみたいな壁面とシルバーの金属とかばっかりでできたビルだらけの光景って。

 歩いていてゴミ箱もないしちょっと腰かけられるベンチとかもないしで、人が落ち着いてくつろげるところが全くない。その上、目に入ってくるおしゃれな店にしても、入れるのは購買力がある一定の層だけ。何だか、足ばかりか心まで疲れてくる。

 たしかに、それで昭和的なダサさ、汚さみたいなものからは脱却しつつあるのかも知れないけど、でも、どこもかしこもあんなにファッショナブルにしなければいけないのだろうか。そして、ガラスや白い壁で見た目の開放感や明るさを演出しているようにみえて、しかしそこにあるのは冷たい選別と排除だけのようにしか思えないんだけど。

 ・・・と、そんな東京の街並みの現状と正反対の世界を示しているように思えたのが、本書のジャケットのイラストだったわけでして。

 実は本書の著者、ディビッド・シムという人物は都市デザインの雄、ヤン・ゲールという人の弟子筋にあたる人らしく、

 このヤン・ゲールが、数十年前からこれまでのトップダウンの都市計画から脱却し、何よりも街の主役である人間が心地よく街を歩き、また自転車を利用できる、人間的スケールの生き生きした健康的な街を取り戻そうと活躍している建築計画家だったのだそう。

 そして、その理論は今や世界各地でプロジェクトが動き出して実践段階にも入っているようなのだが、本書では、それではどのようにしてゲールの提唱する「人間の街」を実現すればよいのかを、

 具体的に、

・街のスケールを小さく ・建物の外にスペースがあるのではなく、囲い地にして中に人が活動できるスペースを作る ・建物を低層化し、1F部分は街路と店内とが融合するような店舗に ・自転車道やベンチの整備 ・ 中央分離帯には人が一休みできるような安全地帯を・・・

 など、テーマ別に分けて様々なアイディアが提唱されています。そして、何よりも本書の中で紹介されている世界各地の街の様子を写した写真やイラストが素晴らしく、もうそれらを見ているだけでも楽しいくらい。

 いやあ、ホントにこのような変化が日本の東京、そして中小都市にどんどん起こっていけばいいんだけど。

 ただ、個人的には本当の問題は建築だけじゃなくて、至るところで子どもが走り回れたり、老人たちがゆっくり休めたりして、また緑や水辺が多い、そういう風通しのいい街ではないか、という気がしております。

↓ (たまたまYouTubeに本署の刊行記念イベントの動画を見つけました)

【編集版】『ソフトシティ』刊行記念イベント 『人間の街』から『ソフトシティ』へ

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