脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

だまされるなではなくだますつもりで交渉する

2018-05-17 | Weblog

こいつらはだめだと思う奴は、格闘技をやっていることが特別だと思わせたり、試合は殺し合いだなどとコンプレックスむき出しでほえる奴らだ。どういう事情があるのかはわからないが、たいしたことをやったわけでもないのに、たかだかアマチュアスポーツごときで、すごいことをやったんだと大きく見せて、人と張り合おうとしている奴は非常に情けない奴だと思う。
スポーツごときで何が殺し合いなのかはわからないが、こういうことを言う奴はバカで非常識だ、こういうことわけのわからない感情を投資だと勘違いしているからアメフトのような事件が起こる。私は英字新聞を見ているので、その記事には絶えず民族紛争や迫害などの記事が書かれてあるので、こういうバカなことは絶対に言えないが、たぶんこういう奴らはコソボやセルビアの歴史は知らないだろう。はっきり言ってトレーナーとして人に何かを教えるのであったら、勉強して、そして言葉を使うのだからもう少し言葉を勉強したほうがいい。

よくスポーツ指導者は勉強しろということをブログで書いているが、何を勉強するのかというとまず言葉、当たり前だが人と接するのだからしっかりと言葉を蓄えることが大事である、言葉というのは共同体を作る上では大事な事柄で、その群れのリーダーがどういう言葉を使うかによってあつまってくる人間の質や雰囲気が決まると思っている。
さらに国際感覚を磨くこと、これは21世紀のスポーツ指導者には当たり前に求められることであるが、英語をおぼえて外国人と交渉する能力が必要だ、日本人は実に英語が話せない、交渉ができないからスポーツにおいてもかなりそんをすることが多いが、外国人は日本人が思ったよりもきたないことをやってくる、これからはそういった心理戦も含めて、外国人と堂々と交渉することができる人材を育てることは大事なことである。

私も仕事などでいろいろと外国人と接してきて修羅場をくぐったことも確かだ。どこの国かは言わないがこの国は詐欺師しかしないのかと思うような国もある。韓国で皮を買ってそこで縫合すれば安いからある国でそれを縫合する計画があった。
しかしいざ話を進めると縫合するのはいいが先に金をよこせという、先に金を渡せばディスカウントしてもいいという。しかしこういう話は絶対あやしい、相手の期限をそれとなく聞いてきて、相手があせっているのがわかるとかまをかけてくる。はやくやってほしいと言えば優先的にやるから金を先に渡せなどという、相手の弱みに付け込んで来るのはまさにこいつらの常套手段である。
私はこのことをよく知っていたので決してひっかからなかったが、しかしこういう駆け引きは単純に見えるがまさに心理戦でこういう交渉でかなり鍛えられたと思っているが、こういう奴らとは通訳などを介して交渉するのではなく、直接交渉するのが一番だと思う。
たぶん私が自分の長所を言えるとしたら、かたまったり、人にぶらさがったりしなくても一人でやっていけるたくましさだと思っているが、そのたくましさはこういった経験から来ている。
昔からかわいい子には旅をさせろというが、外の世界に出て行って外国や自分と違う考え方や文化に触れるということは非常に大きいことで、それは人間の大きな成長につながると信じているが、私はわかいうちは時には外の世界に出て行ってだまされるような体験も時には必要だと思っている。そういう経験を通して鍛えられ交渉術が身につくのだと思う。


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有機的組織

2018-05-16 | Weblog

アメフトの危険極まりないタックルが物議を醸しだしている。防備な相手をしかも後ろから不意うちする反則行為をバッシングしているが、あの行為は誰が見ても不自然だ。傷害であると言っても過言ではないが、私の考え方ではこういう反則行為が起こるのはクラブの雰囲気の問題である。日頃どういう指導をしているのかはわからないが、アマチュアスポーツは勝つことよりもむしろ相手を尊重することから教えなくてはいけないと思うし、それがクーベルタンが提唱するオリンピズムである。にもかかわらず、勝つことだけを目標に競技者を追い込み、それだけやってたらいいというような雰囲気から暴力が生まれても不自然なことではない。雰囲気に問題があると言っても抽象的であるが、私がまず問題にしているのは言葉である。どういう質の言葉がそのコミュニティで語られるかと言うことはそのコミュニティの質を問う意味では重要なことだ。ボクシングで試合は殺し合いだと言うような人間、しかもトレーナーレベルでそういう発言をする人間がいるが、それしかできないアスリートは考える力がとぼしいせいか、結構言葉が稚拙で乱暴である。言葉と言うのはその群れを形成していく上では重要であり、その指導者や監督の言葉がその群れの雰囲気をつくると言ってもいいだろう。だからまず指導者は知的な言葉をつかえること、競技者ひとりびとりの問いかけに対してもきちんと言葉を選んで、むしろその人にいい影響を与えたり、話していて意味があると思われるぐらい、言葉を磨くことが指導者には求められると思う。指導者が言葉を磨き選んで話すことで、おのずとその群れの雰囲気はよくなって行く。だからその指導者の言葉のレベルと言うものはその群れの質を考える上では重要なことであり、言葉がとぼしければ、それなりの人間しかそこには集まってはこないだろうし、スポーツをする以外は有機的なコミュニティとは言えないであろう。うちのクラブはどちらかと言えばOrganic Organisation日本語でいうところの有機的組織であることを目指している。有機的組織と言うのは辞書には「組織の雰囲気が緩やかであり、しがらみも少なく自由な雰囲気の組織をさす。また明文化された規則は少なく、あっても拘束力は弱い。そのため構成員は自らが何をするべきか考えなければならない。組織内の階層は不明確であり、権限も分権化されている。不安定であったり変化の激しい環境に置かれている場合には、構成員が柔軟な発想で臨機応変に問題対処する事に有利である」と記述されているが、縦ではなく横のつながりを重視するのも組織であることの特徴である。こういう考え方ができるのはある程度のレベルが必要であり、ひとりびとりが自立していなければこういう考え方のもとにそのコミュニティを運営していくことはできない。うちのクラブはみなさんが自立した大人である。そういう自立した大人がこのクラブにおいてきちんと有機的につながってくれているから、コミュニティが倫理的で雰囲気がよく保たれているのだろうと思う。はっきり言うけどそのコミュニティを形成していく上で、その指導者の知的レベルと言うのは非常に重要だ。雰囲気をよくするというのは盛り上がることではない。私の考え方ではその群れを有機的集団にすることであり、お互いがその相互関係において刺激し、ベネフィットを得ることができるそういうコミュニティにしたいと考えている。


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One of The greatest sports

2018-05-14 | Weblog

スポーツは平等だ。競技することにあたっては何ら差別もない。よくスポーツを競技するにあたって頭髪であるとか髪のいろがどうだとか言うが、しかしそれに対して誰がそういうことを言う権利があるのだろうか?確かにジム単位で素行のわるいような人間や、髪の色あるいは刺青などお断りと言うことができるし、そのことをもって排除しても問題がないと思う。実際にここでは素行のわるそうな人間などの入会はお断りしているが、しかしスポーツは平等である、その平等であるスポーツのもとではいかなる人間であっても自由に競技することができると思うし、そういう権利を我々は持っている。人として生まれてきたからには誰でもリングに上がって競技することができる、それがスポーツにおける平等性であり、スポーツだからこそ実現できることである。

私自身紆余曲折を経てではあるが、一通りのことはやってきて、比較的今は恵まれているほうである。しかしこれでも悩みつつ生きてきたほうで、特に人種の問題ではいろいろといやな思いをしたものである。私は日本国籍で日本人を尊敬している。しかし私がチョンと陰口をたたかれても韓国人であるという立場を表明しているのは、今まで差別にあってきたおやじよりもこの立場で幸せに生きてやろうという思いがあるからだ。今ネットなどで反日ならぬ反韓のコメントが目立つようになってきた。お互いあまりにもひどいコメントに対して、もっと対話しろよ先入観が先走りしてるじゃないかと思うことも多々ある。また芸能人を非難するときに、あいつの母親は朝鮮人だとかいうようなことを平気でネットで流す人間がいるらしいが、私はこういう話を聞くたびになぜそれが関係あるのかと思い、日本にもまだまだ人種差別する人間がいるのだといやな気持になるのだが、人種間の問題と言うのは非常にデリケートである。

我々のような人間はどこに行ってもマイノリティーだ。
人に言ってもわかってもらえないし、どの国に行ってどの言葉を話そうが、かべがある、どちらかと言うとひっそりと自分の存在を隠して生きていかなくてはならない、そういう存在である。
しかし学生の時アメリカで競技した時、アメリカのボクシングはマイノリティーが多くて、そういう人種が堂々とボクシングを競技していた。特にHIは混血でも他民族の血が入り交ざっていて、自分のルーツがどこかわからない、英語だけではなくいろいろな言葉が飛び交う中で、そういうあいまいなマイノリティーな人種が堂々としかも楽しく生き生きとしてボクシングを競技している、そういう姿を見て救われたことは確かなことであり、それはボクシングと言うスポーツが懐がふかく、どんな人間でもリングに立てば平等だという考え方があるからだと思う。よく何々は紳士のスポーツだというがボクシングは関係ない、まさにリングに立つ限りはボクシングと言う競技は平等で、身分や人種のかべなど存在しないOne of The greatest sportsである。

久しぶりにハワイをたずねてアレンの所で見た試合のビデオ、その時終わって近づいてきたジウンに何かを言っていたが、すごくいい顔をしていた。たぶんこういう顔はその時本当に充実していたからできる顔で、本当に私はこのスポーツに救われたと思う。

今日の動画오직 너뿐인 나를「ただあなただけ(一筋)のわたし」と言う題名。私もかつてはボクシング一筋のわたしであったように思う


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大人が集まるクラブ

2018-05-11 | Weblog

MOBでは共同体と言うものを考える時、最近参考にしているのがアドラー心理学である。ここからは多少私の見解が入るが、フロイトをはじめ今までの心理学は人間の行動と言うものを問題にした場合その人の幼児期が今の行動に大きな影響を与えていると考える。だからその過去を振り返ってそこから人格を再形成していくような感じでカウンセリング的なことがおこなわれると思う。ただしこういった場合は過去の原因に拘泥しすぎて未来の姿が見えない。フロイト的な心理学は幼児期などの過去の体験の問題は説くが、しかしその原因を知って自分自身を取り戻せてもそこから先の何者かになれない限界があると思うが、おそらくアドラー自身もフロイトの考え方に未来への展望の限界を感じたのだと思う。確かに過去にさかのぼって原因をさぐらなければ前が見えてこないがしかし彼とフロイトたちとの大きな違いは選択できる未来である。過去を振り返るのも大事だしかしその過去にとらわれるのではなく、人間には未来があってその未来を築くためにこれから自分が何をどう選択していくかと言うことが重要だということを言うのだが、その人間の未来の選択においては共同体の役割が大きく、すなわちどういう人間たちが集まって形成している群れにつながってどういう影響を受けるかと言うことが重要である。うちのクラブはまさにそういう質のコミュニティを目指している。

私がよくスポーツ指導者は勉強しなくてはならないというのは物事を多面的に見なければ見えてこないことが多いからだ。スポーツしかしたことがない、勉強しない、本を読まない新聞も見ない、外の世界を知らないと言うような人間の価値観で共同体をまとめることは非常に危険、特にこういう格闘技のクラブはしっかりと学問的な基準を持たなければ、その群れが暴走族や愚連隊の集団となり下がるだろう。さらに日本語にも類は友を呼ぶという言葉があるようにその群れはどういう人たちが中心になって形成しているかと言うことはその責任者の言葉の質によるものだ。このことに関してはビトゲンシュタインが著書「言語ゲーム」において人間関係を使われる言葉の質と関連させているし、有名なKマクゴニガルは人間はモラルのひくいほうに流れるということを実験結果で示していたが、端的に言えば責任者は学問を重んじる、しっかりとした考え方を持って問題をおこしそうな程度のひくい人間を集めない、学のある人や社会的にしっかりした人たちも納得して来れるようなクラブづくりをしていく。そのためには彼彼女がどれぐらい知的レベルの言葉を持っているかと言うことがそのコミュニティの質につながっていくであろう。21世紀は学校や職場でかかえきれない問題がたくさんある。そういういろいろな人たちを受け入れ学校や社会に協力していく必要はある。

よく勘違いであるのが昔は素行がわるかったけど格闘技をやっておとなしくなったとかいうやつ。しかしそういったことはなぐりあいをさせて本能を満たすことができたからおとなしくなったからで、根本的には何もかわってはいない。いまだにやんちゃ話や武勇伝を得意がって話すのはまさにそのことをあらわしているが、とにかく自分たちだけが目立ちたい、能力もないのに自分がえらいと思われたい、だからやんちゃ話や武勇伝をお前らとは違うんだと言う意味で語るのだろうが、そういう態度はその威嚇した服装や髪型に出ている。人生の裏技をかしこい生き方と教え、その小さい世界で生きて順応することが社会のすべてだと勘違いさせるのはよくないこと、物事を多面的に見れないと考え方が偏ってしまう、だから言葉を磨く知性を重んじるということはコミュニティの質を上げる上では非常に大事なことである。

 


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매일 행복하시길 빕니다!

2018-05-08 | Weblog

その日トレーナーのジョージは上機嫌であった。その夜どういうわけかジョージに誘われて、俺とアレンそしてその友人である日系人と飲みに行った。行った所は忘れもしない韓国バー、アレンの話では韓国人バーはボルらしい(この店は別)。飲めない私はオレンジジュースを飲みながら話していたら、しばらくして店のおねえさんではなく裏方で仕事をしている女性が話しかけてきた。これが私とジウンの出会いであるが、彼女は日本語を流暢に話せた。こんなことを言ってはなんだが、バーの女性にしては知的な顔立ちをしている。一人だけ少し雰囲気が違うのでそれとなく聞いてみると、彼女は学生だそうで、学費を稼ぐためにおばさんの店である期間は裏方でこうして働いているそうである。うそか本当かはわからないが、とある場所で自分のことを見ていたようで、その自分がここに入って来たことに大変驚いている様子であった。

言葉は日本語で交わしたので、2人だけの会話となった。学校のこと、家族のこと、そして自分の祖国のこと、彼女はBusinessを専攻しているので、将来メインランドの企業に就職したいというようなことを言っていた。そして私がボクシングをやっていると言うと、彼女がこういう話をした。韓国に伝説ののボクサーがいた。それは金徳九というボクサーである。話はまるまる全部覚えてはいないが、聞くところによると、彼は貧しい家庭に育ったのだが、ある時ボクシングと出会い、その生活からぬけだそうとがんばる。彼の試合は壮絶な打ち合いをすることで有名であったそうであるが、彼はそのことによって名声を手にし、世界戦の切符を手に入れたのである。しかし日ごろのダメージとその世界戦の相手がまずかったのか、壮絶な打ち合いの末、彼は死んでしまったらしい。その時婚約者のお腹の中には子供がいたそうである。この試合をきっかけにボクシング協会では、15ラウンドの世界戦の試合を12ラウンドにかえたそうであるが、彼の伝説はアメリカの韓国人たちにひろく語り継がれているそうである。その話を終えると、おもむろにミネラルウオーターを自分のコップに注ぎ、聞いてきた。「ボクシングおもしろい?」。自分は「うんおもしろいよ」と返したのであるが、なぜ彼女がこの話をし、自分に質問をぶつけたのか不思議であった。

当時ここではアメリカンドリームという言葉がまだまだ健在であった時代。裸一貫で努力してチャンスをつかみビッグになっていく、そういう話はもてはやされた。映画ロッキーの名セリフで、トレーナーがロッキーに「Rocky, Do you believe America is land of oppurtunity」と言うのがあるが、まさにアメリカにはチャンスがころがっている。そういう夢を多くの人間が求めてここにやってくるのである。しかしその夢半ばにしてたおれてしまった人間もいる。このボクサーのように。後で話したことであるが、本国ではDVや差別によってのがれてきた女性や子供が実際にここで働いている。韓国人の養子が多いのも女性が社会的弱者で、未婚であったり、離婚して子供が生まれても育てることができない、だから断腸の思いで養子に出す。生きるためにこの土地を選ぶ人間もいる。今考えればそういう現実や生きる不安を、自分にぶつけたかったんじゃないのかと思っている。

今日あげた曲は그 거리(クゴリ)その道と言う意味。人間にはそれぞれ生き方がある。でもその生き方を振り返って、本当に幸せだと言えない限りは正しい生き方であるとは言えないであろう。我々は常に不安をかかえて生きている、でもそんな不安に押しつぶされて不平不満をつぶやいて自分の人生を不幸にしてしまうほどバカらしいものはない。そのバーの女性たちはすごく明るくて自分たちを盛り上げてくれた。たぶんそれはかりそめの幸せを演じているにすぎないのだろうが、しかしその幸せ感を絞り出して一生懸命明るく振る舞う彼女たちを見て生きる力を学んだ。心理学者の言葉に「おもしろいから笑うんではなくて、笑うから面白いんだ」と言う言葉がある。たいていの人間は幸福がある。家族や友人そして仕事、日常のちょっとした事に幸福はひそんでいる。私は思う何々があるから幸福なくて、我々が幸福を感じるから幸福である。そしてそのように生きたら人からもうらやましがれるような幸福な人間になれるのではないかと思う。そしてもしその幸福を感じるならば、その幸福を分け与えることでもっとさらに幸福になると信じている。


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私のちょっとした組織論

2018-05-05 | Weblog

日本人は難しい英語を使いすぎる。例えばスポーツで集中しろと言う時「concentrate!」と言っていたが、しかしこれは言いにくい。私も競技者時代言われた言葉だが、集中しろは「Focus on!」だ、そのほうが言いやすいと思う。その他「虫」と言う言葉も「bugs」ではなく「insect」と言うらしいが学校でそのように習うせいか難しい単語をつかう。日本人は難しい単語を使うが、でも英語は文法じゃないと言うのは負け惜しみだ。根拠があっていうのならそれなりの理由があるのだろうが、しかしそうでなければそういう人間はたいていできない話せない、話せないから文法のせいにしているのだろう。最近英会話のテキストを探しに本屋に行くことがあるのだが、一番多くあるのがフレーズ集だ。こんなものおぼえてどうなるんだろうとさえ思うのだが、その場面での会話集などと言うのがあって、道を聞くと時とか買い物でとかそういうシチュエーションでの決まったフレーズがのっているのだが、しかしそれをおぼえたからと言って相手が必ずそう答えるとは限らない、おまけに英語がわかりませんとか、日本語がわかる人いませんかと言うようなフレーズもあるのだからこれでは何のための本かわからない。英語のプロが選ぶワースト教材で最も多くあがっていたのがスピードラーニングと言うフレーズ集だが、まさにこれはフレーズ集は役に立たないということを言っているのだと思う。英語は文法が大事である。特に中学3年ぐらいまでの文法は話すためには最低限必要な文法で、これぐらいの文法力がなければ会話に実際にはは入って行けないので相手にされない。本当に英語をおぼえてコミュニケーションをとりたければ中学英語はマスターすべきだ。

これからスポーツではさらに間違いなく英語力が問われる。ボクシングでもそうだが、これからは学問的な考察がより必要になってくる。確かにコツをどう伝えるかと言う点では感を伝えるわけだから競技をしていたほうが有利であろうが、しかしトレーニングやメンタルの強化そして一般の人たちもジムで競技しているのだから、アンチエイジングやけがの防止、そして群れの秩序をどう守りよくしていくかはスポーツ科学や心理学と言った学問の問題であり、いろいろな側面からボクシングやその組織と言うものを見ていく必要があるような時代になった今、俺は何とかチャンピオンだという小さな肩書だけでは通用しない、きちんとその世の中のレベルにあわせることが必要である。私自身スポーツクラブを経営し管理しているが、ここにはいろいろな人が在籍しているので、中高生のクラブ程度の考え方では、群れがうまくまとまっていかない。群れの秩序を保ち雰囲気をよくするためには、まず哲学的な考え方を浸透させてCreed(信条)をもつこと、そして言葉の質をあげてそういうことが理解できる会員を集める。さらにそこで楽しく安心してトレーニングをしてもらうため、雰囲気をよくするために心理学の勉強をしたのだが、その時参考にしたのがアドラー心理学、論文は日本語ではないので英語のものを読んだのだが、かなり参考にさせてもらったと思う。よく会員の人がうちのクラブは雰囲気がいいと言ってくれる。中には子供がいい影響を与えられるからここに来させてくれている人たちもいるが、それは私がただ単にアウトローお断りと人選しているからではなく、しっかりと考えて運営しているからである。ジムは学校と言う特定された場所ではなく、社会に開かれた場である。指導者がいくらあいさつしろとか礼儀と言っても体育会程度の常識が正しい、その上言葉がつたない、無知ではまともな人間はそこには集まらないであろう。群れを有機的にするためには指導する人はかなり学問をつまなくてはならないと思う。私はこの場をスポーツと言う競技を通して安心できる場、ここで何か成長できる有機的な場として運営させたいと考えているが、そのためにはもっと客観的にいろいろな側面から自分たちを見る必要があり、改善されて行かなくてはならないだろう。英語を理解するということは多くのことが学べる。うちのクラブにはいろいろな社会人から子供が集まるのだから、もっともっといろんなことを知ってさらにここの雰囲気をよくしたいと考えている。さらに雰囲気をよくすることでトレーナーたちが教えやすくなるし、楽しくなる。そういったことは相互関係をよくし、有機的にする。そういうクラブを運営したいと思っている。

 

 


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あなたのその悔しがり方パフォーマンスです

2018-05-02 | Weblog

「あなたのその悔しがり方パフォーマンスです」

これは競技者レベルで言うことであるが、トレーニングでもなわとびとか地道なことをしない、ミットうちとかマスボクシングあるいはスパーリングではでに自分は強く見せようとするようなトレーニングを好む人間は先細りする。まずなわとびはフットワークを養うための基本的なトレーニングだ、なわとびがきらいというのは足の裏がフラットだからとびにくいのだと思うのだが、しかしボクシングは7割以上足をつかうスポーツだ、だからフットワークがおろそかになるといくらパンチ力があっても勝つことはできない。私が競技者の時の話だが、試合中にパチーンと言う音がする。それはたぶん拳があたった音でもあるが、体と体がぶつかった時の音でもある。試合と言うのは相手を倒すためにパンチをうつのだから踏み込みが重要、この踏み込みがよわいと致命的、決定打を与えることはできないのだ。なわとびが苦手、嫌いだだから跳ばないというのは競技者としては上達しない。最近うちではラダートレーニングを取り入れているが、そういう足をつかった地道なトレーニングは確実に身を結ぶ、サンドバッグやミットをバンバン打てても足がつかえないと実戦では通用しない、シャドウボクシングやスキッピングロープは地道であるが大事なトレーニング、これが嫌いだというのは足がフラットか地道なことがきらい、しかしこのことをしっかりしないと実戦では勝てない。さらに派手なトレーニングしかしない人間は自分を強く見られたいとか、人よりも優位に立ちたいという考えが強いので、目立つことがプライオリティでその場のメンツだけにこだわる。たいした努力もしていないのに負けたらほえたり、自分は一番じゃないとだめだとか、すごいパフォーマンスをしたりするのは本当に勝ちたいと思っていない、ただその場のメンツを保てばいいと思っているだけ、こういう人間に限ってすぐにおれる。しかし地道なトレーニングをしてきた人間はそう簡単にはおれない。50戦以上海外で試合をしてきたからいわせてもらうが、その競技人生で見てきた限り、何があってもすぐにおれたりはしない人間と言うのは気が強いとか、度胸があるとかそういう類ではない、地道にしんどいトレーニングをしてきた人間だ。地道な努力をしてきたので簡単にはあきらめないし、その努力が粘り強さを生み出す、そういう人間は簡単にはおれない。

Viva La Vida

Long Time Agoハワイのカラカウア通りにホテルの名前はわすれてしまったが、ホテルの最上階にクラブがあって、飲めないし、踊れないのにそこによく行った。理由はそのクラブの雰囲気がよくて眺めがよかったからである。そこに友人のジウンが私をよく探しに来た。当時はHP(携帯電話)もなかった時代だから、土曜日に寮に電話していなかったらここだとわかるぐらい、一時期はよく行った場所だ。ジウンはこういう雰囲気のいい場所でよくするのは弱いものを顧みろと言う話だ。当時韓国では女性の地位がひくいのでDVなどざらにあって、ここに流れ着いてくるのはそのDVや社会の偏見からにげてきた女性や子供たち、そういう現実を身近に見て心をわずらわせていたようである。ジムと言うのは男社会だ、ここでは武勇伝ややんちゃ話など暴力をにおわすような話は暴力的行為、裸でトレーニングするのはセクシャルハラスメントとしているが、このような男社会でもある格闘技の世界で女性や子供が威圧感や疎外感を感じることなく、トレーニングしてもらえるための配慮であり、私が考える平等で平和な群れとは女性や子供の権利を考え配慮できる群れであり、そういう群れづくりをスポーツ指導者は考えて実践していかなくてはならないと思う。

今日あげた動画はViva La Vidaと言う曲、日本語で生命万歳!生きていることに万歳できるにはその命を尊重することだ。


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うちには心臓とBrainがある。

2018-05-01 | Weblog

私はマイノリティであるのでどうしてもマイノリティの立場に立ってしまう。格闘技は男性社会なのでどうしても女性を優先に考えてしまうし、ジムの雰囲気を考える時も常連さんの立場もそうだが、わたしは特にまだ慣れていない新しい人やひとりできて単独でトレーニングをしている人たちの目線で見ているつもりである。うちのクラブは社会人が多い。だからDQNやアウトローは入会させないのだが、なぜさせないかというと人に迷惑をかける社会的弱者はかたまって存在感を示そうとする。そういう人間を認めてしまうとそういう雰囲気におされて一般の社会人がトレーニングできなくなるからだ。

忘年会でうちのチーフトレーナーが自分たちは平等に接している、でもそれでも十分ではないのでミットをもってほしかったら遠慮なくいってくれと言ったことは記憶に新しい、特にミットをもってほしかったら俺たちに言ってくれと複数で言ったことはリーダーの言葉としては自覚のある言葉である。たぶん職場でもそういうリーダーシップを発揮しているのだろうが、私がUnsung Heroesを全面的にまかせてるのは彼らが常にこういう考え方ができるからである。

それにたいして私がやっかいだと思うのはべたべたする集団、仲がいいのとべたべたするとか、かたまるということは全く別。そういう集団は仲間意識が強く、情でかたまる。客観的な考え方で物事を判断できない集団であるが、そういう人間は指導する立場や運営する立場で考えられないから常にトレーナーや管理者に不満をもっている。だいたい害になるような人間は、運営する側にたいする悪口でつながっているのだが、連れや仲間という発想でしか物事を見ることができないので、そういう人間が何人か集まってグループをつくると常識的な意見や考え方がねじまげられてしまう、そうならないためにも知性を重んじ、何事も客観的に見ていくことが正しく運営できる条件である。

うちではトレーナーのほかにメンタルアドバイザーと言う存在がある。もちろんそれは私のアドバイザーになるのだから専門のDRレベルの人であるが、ここで会員の人が気持ちよくトレーニングしてもらうため、いろいろと話を聞いてもらってそれを整理する。いわゆるクラブが健全に導かれ、雰囲気をよくしていくためには必要な存在で、トレーナーがうちの心臓ならば、メンタルトレーナーの存在はBrainと言ってもいいと思う。客観的に何かを考えるということは考察することが求められるので、ある程度の知性が必要だ、だからその集団の知的レベルがとぼしければ客観的に物事を考えることができない、そういう考え方ができないとその群れは有機的には機能しない。常に恣意的な考え方が優先する。うちのような大所帯になれば、時には見た目では判断できず、ふさわしくない人間がほんとまれだが入会してくることもある。例えば新入会者もいるのに我がもの顔で30分以上もまわりに気をつかうことなくでかい声ではなす、低姿勢で注意したらすねて悪態をついて帰っていく(おそらく低姿勢だと逆に逆切れするのだろう、たぶんこういうタイプは高圧的に注意しなくてはいけないのだろうが、ここではそういうことはしない)こういう人間は職場でも同じようなことをしているのだろう。うちはどちらかといえば責任をもって仕事をする立場の人が多いので、道徳が体育会レベルで大人の常識を無視する、未熟で人をこまらせたり、迷惑をかけるような人間は不快であるし、害になるので退会していただくようにしているが、その時私が問題があるという人間を退会させるとして、社会的立場のある人間はだいたい私の話を聞いて納得する。何も言わないが見る人は見ている。それはDQNとかアウトローのような人間と立場が違う、管理者の目で見ているからだと思う。

私自身の考え方としては自分勝手なふるまいで、人に心的ストレスを与える人間は害、言ったもの勝ちやわがままで自分の我を通すような人間よりもむしろそういう人間のために不快な思いをしている人間が何のストレスもなくトレーニングしてもらいたい。そのためにはこのクラブの雰囲気をよくすること、そしてそれは人間関係をよくすることであり、クラブにはBrainの存在は不可欠である。

 

 


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