脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

みんながみんなそうじゃないではない

2016-06-23 | Weblog

よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはどういう人たちがどういう目的を持って集まるかと言うことで、私が言うところの正しい集団と言うのはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方私が嫌いな群れる集団と言うのは価値観がせまい、教養レベルがひくい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。

そういう考え方は友達と言う考え方に出てくる。友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言うのだ。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かがないように迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きるわるい意味での弱者の生き方そのものではないか。

群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝すると言う刺激で集まるのもいいが、そういうでかいことを言って目立つ集団と言うのは中身がない。そういう集団に限って世の中ではたいしたことがないような人間がそれしかできないからとまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の教養のレベルがひくいとそういう人間たちが集まる。私はそういう奴らを灰色の人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからで、髪をど派手に染めて改造車にのっている奴はダメだと言ってみんながみんなそうじゃないなんて言わない、当たり前の感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。群れると言うのは一つのイデオロギーに向かっていないからだ。それはサルの群れと同じで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかし俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから言うと言う哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは少々のことではずれることはない。そのためには責任者が教養をつむことが大事だ。

 

 

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