風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

会津戦争の責任は春嶽と慶喜にあり? 本編

2017-10-04 03:57:08 | 歴史・民俗





私は以前の記事で、松平容保公について、もう少し柔軟性があったなら、会津の悲劇は回避できたかもしれないという意味のことを書きました。


しかしそれは、必ずしも正しくない。



なぜなら、会津藩には戦う以外の選択肢がほとんどなかったからです。




薩長、特に長州藩ですが、長州藩は会津藩に対して怨み骨髄でした。文久年間、長州テロリストによって乱された京の治安を回復するため、会津藩主松平容保公が京都守護職に就任、藩兵を引き連れ上洛します。爾来「8月18日の政変」「池田屋事件」「蛤御門の変」と、長州は大打撃を受けてしまいます。


その時の恨みを晴らす。


表向きは賊徒の征伐。しかし会津藩が賊徒ではないことは分かり切っていたこと。革命には血が必要?なるほどそれもあるかもしれませんが、一番の理由は「私怨」を晴らすことにあった。


だから長州は、会津を赦すつもりなどハナからなかったのです。





鳥羽伏見でまさかの負けを喫した後、容保公は恭順の意を示し、会津で謹慎します。薩長が「官軍」を名乗っている以上、むやみに逆らうわけにはいかない。尊王の志の高い会津公なれば当然のことでした。


これを気の毒に思った仙台藩と米沢藩は、会津に対し寛大な処置が下りるよう周旋を図るため、東北諸藩に働きかけます。この動きが最終的に「奥羽越列藩同盟」へと繋がっていくわけです。







さて、薩長側からの使者が、仙台藩にやってきました。男の名は世良修蔵。


この世良という男、それそれはヒドイ奴でした。




世良は漁師上がりの荒くれ者で、偶々読み書きが少しできたというだけで奇兵隊の幹部に抜擢されたような男でした。


こういう男ですから、武士としての礼節もなにも一切弁えてはおらず、仙台藩主・伊達慶邦公の前で足を組んで座り、「おい中将!」と仙台藩主を呼び捨てにする始末。


世良は昼間から遊郭に入り浸り、酒に酔いつぶれ、口を開けば「会津を攻めよ!」の一点張り。会津藩に寛大な処置を求める仙台側の話など、一切聞く耳を持ちませんでした。


こんな傲慢でふしだらで、およそ武士の礼節を弁えぬ男が、本当に「官軍」なのだろうか?生真面目な奥州武士たちは強い疑念を覚えたことでしょう。

それでも一応「官軍」の使者の云う事を無視するわけにもいかず、仙台藩は会津藩に兵を差し向けますが、双方とも戦う気はさらさらなく、にらみ合いの膠着状態が続くばかり。業を煮やした世良は、「反抗的な仙台藩も賊徒にして攻めてしまえ!」としたためた手紙を送ろうとするのですが、これが仙台藩士の手に渡り、激怒した仙台藩士たちに捕らえられ、阿武隈川の河原に引き出され斬首されます。

絶えに耐えていた仙台藩士たちの、堪忍袋がついに切れてしまった。


仙台藩士たちは世良を闇討ちにするのではなく、わざわざ阿武隈川の河原に引き出して、衆人環視の下首を刎ねるという挙にでました。これは奥州武士の生真面目さを表しているとともに、ある種の決意のようなものも示されていたのではないでしょうか。

こんな世良のような男が、こんなふしだらで破廉恥で傲岸不遜で、礼節を一切弁えぬ者が、官軍であるはずがない。いや、

官軍であってはならない。


畏れ多くも畏くも、天子様の御名を戴く官軍が、こんなであるはずがない。いや

こんなであってはならない。


新しい天子様は若年故に、薩長に誑かされているのに違いない。ならば我らが、「君側の奸」薩長を排除し、若き天子様をお救い申し上げねばならぬ。





世良のような男を使う時点で、薩長特に長州は、最初から会津にいくさを仕掛けるつもりであったことは明らかです。赦すつもりなど欠片もなかった。わかりますか?会津藩にはもはや、戦う以外選択肢がなかったのですよ。


例えば容保公の首と引き換えに、会津を助けてくれと嘆願したとしましょう。なるほどそこまでするのならと、さすがの長州も兵を引いたかもしれません。しかしそれでは、会津藩士たちが黙ってはいません。ただでさえ謂れなき賊徒の汚名を着せられ、腸が煮えくり返る思いをしているのです。その上藩主の命が奪われることになったら、もはや藩士たちの暴走を止めることは誰にもできなくなります。

会津藩士たちは老若男女問わず、最後の一兵卒に至るまで、玉砕覚悟の戦いを挑んてくるでしょう。いくさは泥沼化し、より酷い状況になっていたでしょう。

それが会津士魂。


もはやなにをどう選択しようとも、長州に兵を引く気がない以上、戦うしかなかった。


闘うからには徹底的にやる。会津武士の意気地を見せてやる!!



容保公はいくさなどしたくなかった。誰が自分の領国を戦場にしたいなどと思うでしょう?いくさを望んだのは会津ではない、長州なのです。



これでもまだ、容保公が頑固だったから、馬鹿殿だったから戦になったと云いますか?




抑々、松平慶永(春嶽)や一橋慶喜が、容保公に京都守護職の御役を無理矢理押しつけさえしなければ、会津の悲劇はなかったわけで、そういう意味では春嶽や慶喜にこそ、悲劇の責任があるのかもしれない。

なんてことを今更言っても、どうしようもありませんが……。

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7 コメント

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Unknown (Sarasz)
2017-10-04 11:41:55
なんとなく、それを会津にやった長州が、結局おなじことをアメリカにやられたんじゃないかという気がします。

因果応報という訳ではないけれど、鬼門東北でそれをやったことは、ある種の「型」になってしまったのかもしれませんね…。
Unknown (たま♪)
2017-10-04 20:47:59
会津と長州は今でも仲が悪いのか?的なヤフーの質問コーナーなんかでは
「それは会津以外の人が面白がってそういっているだけです」的な会津人の回答があったり。
会津人の方のブログでは戊辰戦争に対してわだかまりがあるわけではない【残虐な行為自体は戦時下のことだから、会津だけではなく、日本中のどこでもあったこと】が、逆賊として日本中から差別され続けたことに思いがあるとの会津人のコメントがありました。
また、会津人の他のブログでも「恨みは口に出さないことが大事」ともありました。会津の人ほどそういう意見を書かれていらっしゃると思います。
「長州の私怨」だの「〇〇がならず者だった」だのそんな小学生みたいな「長州悪で会津正義みたいな構図」をなぞったところで、会津の方のためになるのでしょうか?
ただ自分の怒りの発散をしたいだけにしか見えませんが、嫌な人は読まなければ良いだけですよね。
パールハーバーの時から、日本は戦争するしか道がなかったなどという意見もあります。日米安保で北朝鮮から守ってもらおうという時に、そういう過去を話題にする人もこれからは減るかもしれませんが。
過去の歴史を利用して、自分の怒りのストレス発散したい人はいつまでもしていればよいと思います。その人の自由ですから。
Unknown (薫風亭奥大道)
2017-10-04 21:54:41
Saraさん、そうなんだよね。太平洋戦争と戊辰戦争には色々な共通点があるように思う。やはり先人の犯した過ちから学ばなければならないことは多々あるね。
Unknown (薫風亭奥大道)
2017-10-04 22:03:46
たま♪さん、私はどちらが正しいとも間違っているとも言ったことはありません。ただ長いこと薩長に偏重した史観が幅を利かせていたので、揺り戻すために会津側によった史観で書いている部分はあります。
歴史は勝者によって作られる。その過程で埋もれてしまった、隠されてしまった出来事をそのままにしておいてはいけない。そこから人類は学ばなけりゃならない。
同じことを繰り返さないために。
たま♪のような反応があることは、折り込み済みとまではいわないまでも、ある程度予想はしています。はい、そうとしか思えないのならばそれでも結構、どう思われようと私はブレませんので。
知らなければならないことはまだまだある。
Unknown (薫風亭奥大道)
2017-10-05 00:10:18
これは興味深い記事です。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%81%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BD%93%E6%94%BE%E7%BD%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%9F%E9%95%B7%E5%B7%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%80%A8%E5%BF%B5%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%9B%A0/ar-AAsSvMC?li=AA570j&ocid=spartandhp#page=2

もっと詳しく知りたいですね。まだこの段階ではなんとも言えませんが、色々な展望が開けていく可能性があります。
プラスのこともマイナスのことも、出来るだけオープンに、それが最終的な解決に繋がると、私は信じる。
歴史。論点。 (ぐー)
2017-10-05 15:24:50
薫風亭さん、こんにちは。
私は、歴史の考察とか結構好きです。遠い昔、史学科で卒論出しました。でも、日本史は中学生レベルです。社会人になってからは読書もしていないから知らないことばかりで、薫風亭さんの記事を読んでは、「へえー、そういう説もあるんだー。」と新しい見方を知るのがとても面白いですし、それ以前の問題として、まずは「へえー、そんなことがあったんだー。」という所からのスタートだったりすることも多いです。とても楽しく勉強させてもらってます(ペコリ)。
かつての私も、卒論のテーマを決める際、従来の傾向である「支配する側からの史観」でモノを言うことに魅力を感じず、「歴史に埋もれがちなサイドにスポットライトをあてて、史実を分析・解釈してみる」っていう方向で書けたらいいなー、と思って、取り組んでみました。だから、「偏重というフィルターを外した、もう少し不公平のない考察をしてみたい」という思いには、とても共感できます。
Unknown (薫風亭奥大道)
2017-10-05 23:50:32
ぐーさん、ありがと。
歴史は視点ですから、どこに視点を置くかによって見え方はまったくちがってくるものです。だからできるだけ多角的な視野から眺めてみる必要があると思うんです。でも歴史は往々にして勝者の視点から作られるものだし、勝者は己に都合の悪いことは、粉飾するか隠ぺいするかしたがるものらしい。
だから、敗者の視点から揺さぶりをかけてやる必要があるとおもっているんです。
どちらか一方が善で、どちらか一方が悪だなんて言うつもりはさらさらないです。だってそれすらも、視点によってかわるんですから。
でも和解できるものならば、早く和解すべきだとは思っています。ただ和解するために、歴史的事実をうやむやにしてしまってはいけないんです。それをごっちゃにしてはいけない。

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