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『シン・ゴジラ』大ヒット驀進中のようですね。素晴らしいです。
やはり「良い」作品は、ジャンルをも超えるんですねえ。
で、結局、『シン・ゴジラ』とはなんのか?
この問いは、御覧になった一人一人が「思考」し「考察」するべきことで、その答えが一人一人違っていたとしても構わないものだと思う。
何度もいいますが、「良い」アートとは、そういうものだと思いますので。
私が思う、『シン・ゴジラ』とは、一言でいえば
【神話】です。
徹底的なリアリズムの中に、巨大な虚構をドンと置くことによって、その虚構は単なる虚構を超えて、大いなる神話性を帯びて我々の前に立ち現れた。
あくまでもSF的に捉えようとする考えもあるようで、それはそれで意義あることだとは思います。しかしそれだけでは、ゴジラのもつ「深さ」の全容は見えてこないような気がします。
庵野総監督は、あえて生物的なリアリズムを求めませんでした。
CG制作者が、ゴジラに筋肉の動きを加えようとしたところ、「そんなものはいらない」と庵野監督にバッサリ切り捨てられたとか。それは昭和29年の第1作『ゴジラ』の、ゴム製の重い着ぐるみをイメージしていたからだそうですが、やはり「生物」としてのゴジラなど、最初から描こうとはしていなかったのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、劇中のゴジラは、まるで巨大な岩がそのまま動き出したようであり、赤い光はマグマのようにも見えます。
そして、どこか苦し気です。
つまり、やはりゴジラとは、人類によって汚され、死に瀕している、苦しんでいる地球そのもの、大地そのもの、大自然そのものなんです。
大地の精霊が、本来肉体を持たない精霊が、無理矢理物質的な鎧を纏ってこの世に立ち現れた。樋口監督によれば、あのゴジラの肉体は常に崩壊と再生を繰り返しているのだとか。
だから、どんなに攻撃を受けても、一瞬崩壊したのちに、すぐに再生してしまう。
元々肉体なんて「不便」なものを持たなかった精霊が、無理矢理肉体めいたものを持ってしまった。しかもその肉体は何度「殺され」てもすぐに復活する。
こんな苦しいことはない。
その苦しみを与えたのは誰だ!?
日本人は太古の昔より、大自然の中に八百万の神々を見てきました。
その感性は現代までも途切れることなく、日本人の日常生活の中に、そのDNAに、脈々と受け継がれてきました。
だから、理屈としては分からずとも、直観的に日本人にはわかるのです。
ゴジラが「何者」であるかを。
それは理屈を超え、日本人の感性そのもの、DNAそのものに訴えかけてくるのです。
日本人共通のDNA、それは言葉を換えれば、
「神話」です。
『シン・ゴジラ』とは、現代の日本人が共有すべき「神話」なのです。
表面的にはわからないかもしれない、でも心の奥底では、みんなわかっているんですよ日本人は。きっとね。
だからこその、この大ヒット、なのだと私は解したい。
ゴジラとは、嘆き、悲しみ、怒り、苦しむ大自然の精霊、荒ぶる「神」なのです。
しかもその「神」は、人間のDNAを取り込むことによって、人類の犯し続けた「罪(sin)」をも背負い、体現する存在となった。
『シン・ゴジラ』とは「神・ゴジラ』であり、『sin・ゴジラ』である。
『シン・ゴジラ』に関する記事は、これで一旦筆を置きたいと思います。
ありがとうございました。
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大戸島に出現したゴジラ。(昭和29年の第1作『ゴジラ』より)
『シン・ゴジラ』では無かったことになっていますが、この第1作がなければ、『シン・ゴジラ』もなかった。
大地の荒ぶる神、ゴジラを生み出した田中友幸、本多猪四郎、伊福部昭、そして円谷英二の四大人に、改めて感謝を捧げます。
だから妙に可愛らしいのかも(笑)