風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

総理にならなかった男について、もうちょこっと。

2017-05-29 07:01:23 | 会津藩




リクルート事件を遡ること9年。1980年のことです。


時の総理大臣は大平正芳氏。伊東正義氏と大平正芳氏とは学生時代からの大親友だったそうで、伊東氏は大平内閣の下、内閣官房長官を拝命しており、親友を補佐しておりました。



この大平内閣に対し、野党が内閣不信任案を提出。これを決議する会議に、同じ自民党内の三木派と福田派が出席を拒否したため、不信任案が可決されてしまいます。同じ自民党内からの造反を受けての事態に、大平首相は切り札の衆議院解散に打って出ます。

世に言う、「ハプニング解散」です。



衆参同時選挙が行われることになるのですが、この選挙の途上、大平首相は突然倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまいます。

総理の急逝により、官房長官を務めていた伊藤氏が総理大臣臨時代理を拝命、選挙終了までその大任を全うされました。

そのまま次期総理の座に座ることもできたのですが、「友人が死んだばかりで、そんな気にはなれない」とこれを固辞。なんとこの方は、「2度」も総理になるチャンスがありながら、それを2度とも蹴っているのです。

なんてことだ!



先述したように大平内閣では官房長官を務めていますし、鈴木善幸内閣では外務大臣、中曽根内閣の下では自民党政調会長を務めており、特に役職に就くことが嫌いだったわけではない。


それでも、最高権力者たる総理の座に就くことを2度も拒んだ。



凡そ政治家たる者、総理の座に就くことは究極の目標であるはず、これを拒むとはどういうことか!?当時政治評論家だった舛添要一氏などはかなり厳しく批判していましたね。



伊東氏に言わせれば、おそらく


「総理になることが目的であってはダメだ。なんのために自分が総理になるのかが大事なのだ」


ということなのでしょう。


誰かの尻拭いや、傀儡になるためではなく、ましてや友人の不幸に乗じてその権力をかすめ取るような真似は、伊東氏には考えられない事だった。



大平総理の死後、総理大臣臨時代理を務めたときも、総理執務室には絶対に入ろうとせず、常に官房長官の執務室を使い続け、会議に出席する際にも絶対に総理の席には座らなかった。どこまでも「道理」を通された方でした。



信義と道理を重んじ、権力を得ることのみに拘泥するのではなく、なんのために権力を得るのかにこだわり続けた。


祖父が会津藩士であったという伊東氏。その伊東氏に、かつての会津藩士たちの鮮烈で爽やかな姿を見ることは、決して無理な事ではないでしょう。








なんのために権力を得るのか、すべての政治家に聞いてみたいことではありますねえ。




賊藩とそしられた会津から総理が出たかもしれないチャンスを逸した。しかし会津の人々はこれを残念に思いつつも、誇りに思うべきだと私は思う。




これぞまさしく会津魂。会津武士道は死なず。



会津魂これにあり!