【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

戦争の準備

2020-03-03 07:01:52 | Weblog

 アメリカは日本語学校をいくつも作りました。
 イギリスは戦傷者のための病院やリハビリテーションセンターをいくつも作りました。

【ただいま読書中】『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた ──二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯』ウラジーミル・アレクサンドロフ 著、 竹田円 訳、 白水社、2019年、4200円(税別)

 ロシア革命の嵐に追われて多数の白系ロシア人がオデッサに逃げ込んでくる緊迫した情勢から本書は始まります。その人びとの中に、スウェーデン人の妻と4人の子供を連れたアメリカ南部訛りの黒人フレデリック・トーマス氏が混じっていました。モスクワで得た莫大な財産をすべて失い、彼らは命からがら脱出船に乗り込みます。船の目的地は黒海の対岸、コンスタンティノープル。
 まるでアクション映画の最初の数分間の派手なオープニングのような始まりです。そして、話は数十年遡ります。場所はアメリカ南部。南北戦争後奴隷から解放されたトーマス夫妻が、農場を買い取りフレデリック・ブルースという名の息子に恵まれた所へ。しかし、取引相手として信頼していた白人農園主が彼らから農場をだまし取ろうとします。ここには、ぞっとするような黒人差別と、白人同士の“内輪もめ"とが複雑に絡んでいました。
 奴隷は教育を受けられませんが、フレデリックは“自由民"の子供ですから学校に通えました。そして就職も。アメリカ北部に行くという、当時の黒人としては例外的な行動をしたフレデリックは、給仕などのサービス業を転々とし、同時に音楽への情熱も持ち、とうとうヨーロッパに音楽を勉強しに行くという、当時のアメリカ人としては例外的な行動をします。そしてヨーロッパでフレデリックは「人間」として扱われるという、これまでになかった体験をします。もちろん19世紀末のヨーロッパに人種差別は堂々と存在していましたが(たとえばイギリスではアイルランド人やインド人差別、ロシアではユダヤ人差別)、黒人はあまりに少数だったため“正しい差別のやり方"が確立していなかったのでしょう。モスクワにやって来て1年、1901年にフレデリックはドイツ人のヘドウィグと結婚します。写真を見るとフレデリックはスマートでハンサムですが、20世紀初めのモスクワでも女性にはそう見えたのでしょう。最初の妻が肺炎で亡くなるとすぐに再婚、さらに愛人もできてます(で、この愛人が3番目の妻になります)。
 モスクワでフレデリックは成功の階段を昇り始めます。しかし日露戦争、1905年の第一次ロシア革命。モスクワは騒然とし始めます。なお当時サンクトペテルブルグにいたアメリカ大使は「アメリカ人は、サンクトペテルブルグに73人、モスクワに104人だけ」と本国に報告しています。フレデリックは高級レストランのメートル・デトル(ヘッド・ウェイター)として腕を磨きます。ロシアは沈没しかけていましたが、モスクワの夜は耀いていました。12年にはアクアリウム(庭園とレストランと劇場の複合型アミューズメント施設)の共同経営者に。そこが成功したので次は単独経営でナイトクラブ。事業はさらに拡大しますが、第一次世界大戦がフレデリックの邪魔をします。
 革命、そして新政府の樹立。ロシアに来ることで「人種」のレッテルを剥がすことに成功したフレデリックは、こんどは新政府によって「資本家」のレッテルを貼られてしまいます。命の危機です。そして、本書の冒頭場面に戻るわけです。
 無一文でコンスタンティノープルに到着したフレデリックは、そこでゼロからの再出発を始めます。連合軍はオスマントルコ帝国を分割し始めていて、その混乱も再出発には好都合でした。少々の無理は通りますから、というか、そもそも厳しい法律や規制などありませんから。そして、集まった各国の軍人たちは娯楽に飢えています。そして、トルコにも黒人差別はありませんでした。そもそもオスマン語には「ニグロ」に相当する単語が存在しません。しかし、事業はうまくいかず、アメリカ大使には嫌われ、難民はロシアから次々押し寄せ、前妻や詐欺師たちが足を引っ張り、もう泥沼です。しかしそれでもなんとか開店した「マキシム」というナイトクラブ(ジャズ、ロシア音楽、西欧音楽、ショーなどが売り物)が大成功。そこで起きた“スキャンダル"まで店の“演し物"として演出してしまうのには、フレデリックの経営の才能がとてつもないレベルであったことが窺えます。
 しかし、連合軍はコンスタンティノープルから撤退、新生「トルコ共和国」が建国、イスラム国家で外国人がナイトクラブを経営する道はどんどん細くなっていきました。そして、フレデリックは人生最後の日々をトルコの監獄で過ごし、無一文で死ぬことになってしまいました。アメリカのある新聞では彼はコンスタンティノープルの「ジャズのスルタン」と呼ばれています。
 「歴史の教科書」には絶対に載らないであろう人の伝記ですが、「歴史の一部分」であることは明白です。「歴史の転換点」に次々立ち合うことになるとは、運が悪いとしか言いようがありませんが、「個人の伝記」から「世界と歴史」がよく見えるのは、安全地帯にいる読者にとってはありがたい本でした。