【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

地元の理解

2019-03-27 07:03:15 | Weblog

 イージス・アショアの配備について、政府は秋田県には地元の理解が得られてから工事に入る、と明言しました。沖縄とはずいぶん扱いが違いますねえ。なぜ?

【ただいま読書中】『屍集めのフンタ』フアン・カルロス・オネッティ 著、 寺尾隆吉 訳、 現代企画室、2011年、2800円(税別)

 数箇月前に「市」に昇格したばかりのサンタ・マリアに、屍集めのフンタことラルセンが三人のくたびれた女を連れてきました。女たちは娼婦。サンタ・マリアでは、娼館を認可させようという計画が進行中だったのです。
 「サンタ・マリア」に娼館? 「マリア」違いじゃないか、なんて思って調べると、マグダラのマリアも聖人だったんですね。ついでですが、三人の女の一人は「べっぴんのマリア」という名前です。
 ところが、最初の章は三人称の記述だったのが、次の章は一人称、そしてその次はまた三人称。おいおい、この揺らぎは何なんだ、とあきれていると、次から次に登場人物が増え、入り組んだ関係と入り組んだ過去が少しずつ明らかにされ、だけどその全貌は、じとっと湿った暗闇に隠されたまま、といった感じでページは進みます。
 ラテン文学には「マジック・リアリズム」がありますが、本書は「マジック・ファンタジア」とでも呼んだらいいかな、なんだか煙幕に包まれたままあっちに行ったりこっちに行ったり、で、気がついたら最初のところにいた、なんて感じがします。
 サンタ・マリアでは、反売春宿運動が始まります。ずいぶん陰険な形ですが。ただ、このあたりになると私は「ストーリー」はある意味どうでもよくなってしまっています。熱気の中に放置された鏡が、なぜか突然粉々になった、と想像して下さい。近づくと、それぞれの欠片に、小さな物語が焼き付けられているのが見えます。それを次々眺めていると何らかの「ストーリー」がこちらの頭の中に形成されます。しかし、もしも違う順番で欠片を拾っていたら、おそらく違う「ストーリー」が形作られるでしょう。結局本書から伝わってくるのはそれぞれの破片が帯びている「熱気」だけなのかもしれません。
 もう、何が何だか。私は何らかの「マジック」にかかったのかな? さらに物語の語り手に「私たち」が登場して、私はさらに混乱します。
 やがて、(町の“良識派"の拠り所である)司祭の甥が、45口径を構えて売春宿に押し入り、そしてそのまま小屋に滞在します。司祭は尋ねてきた甥と話をした上、日曜日(説教の日)まで滞在を続けるよう求めます。いやもう、何がどうなっているのか。そして、(私にとっては)突然物語は終焉を迎えます。本は終わるのですが、私にとって「じとっとした闇」「熱気を帯びた鏡の欠片」はまだ私の心の中をじわじわと動いています。
 いやもう、何が何だか。