むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

上原城(長野県)

2019年12月30日 | 百名城以外の城
上原城うえはらじょう
別名
構造山城
築城者諏訪信満
築城年代1456年(康正2年)
指定史跡県指定史跡
場所茅野市ちの上原 地図
城郭検定出題あり

上原城は、諏訪氏五代70年余り諏訪地方を統治していましたが、1542年(天文11年)に
武田信玄によって滅ぼされ、以後武田氏によって統治されるようになりました。
この辺りは街道や峠道の集中する交通の要所であり、中腹にあった居館は「板垣平」呼ばれ、
麓の諏訪盆地には城下町を構えていました。



駐車場

駐車場には看板も設置されています。
大河ドラマ「風林火山」など放映されていた頃にはさぞかし賑わったのでしょうね。
看板を見るとここには公衆トイレも設置されていたようですが
現在は駐車スペースと看板だけです。


下馬・下乗

ここで馬を下りて入城します。
先客がいなければ、この付近で馬ならぬ、車を降りて入城することが出来ます。


堀切

下馬してすぐに見える大きな堀切。



かなり整備されているようで、とても綺麗な道です。



石仏と堀切が見えて来ました。


畝状竪掘

南東斜面を覗き込むと、畝状の堀が見えます。


堀切

右は山の出郭、左が主郭になっていて
その間を大堀切で主郭の防御をしています。


三十三番観音

紅葉した木々と、道に沿って並ぶ石仏が風情あって良い感じです。



大きな石があちこちに見えて来ました。
この先が三の郭です。


かまど石

下に回って正面から見ると竈のように口が開いているようです。


三の郭

さほど時間がかからずに三の郭に到着。
ここには金毘羅神社があり、眺めも良いので郭自体が物見のようです。




かつては、東方にある永明寺山より木管で水路を引いて飲料水が湧き出る仕組みになっていました。
現在はヒューム管に改修されているようです。


眺望

諏訪盆地や城下町が見下ろせて、正面には高遠からの出入りが見える
杖突峠や、有賀峠も見渡すことが出来ます。
そして、夜になると杖突峠側から山の中腹にポツンと見える灯りが
目の前にある街灯の明かりであったことに、ここでようやく気が付きました。


金毘羅神社

眺めの良い立地です。
諏訪盆地の民を見守るかのようで、鳥居からの見晴らしはとてもすばらしいです。
鳥居に隠れきれなかった



金毘羅神社は、1805年(文化2年)頼岳寺の鎮守神として
四国の讃岐より金毘羅大権現を誘請してこの地に祀っています。


腰郭

この腰郭を経て西の方へ向うと、更に郭群が設けられており
理昌院平と呼ばれる郭も配されています。
ちなみに、「理昌院」とは高島藩初代藩主の母の名前です。


二の郭

正面が主郭です。
この辺りの平場が二の郭になります。


物見石

二の郭には巨大な岩があります。
見上げていたら、なにやら足場板があるではないか!
物見岩とは言うが、登れるのか?



裏に周り込んでみたら…ありました!
ちゃんと登れるようになっています
とは言え、とても私は登れる気がしないので足軽に様子を見に行ってもらいました
でもね、このカメラ持って行って欲しかったなあ。
せっかく物見石に登ったのにそこからの眺めはどうなの?…



スマホから写真が送られて来ました!
こちらが物見石からの眺めです!
今は樹で視界は遮られています。
こんな足場が付いているので、勇気のある方はトライしてみて下さい。



それではいよいよ、二の郭から最頂部にある主郭へと登って行きましょう!


主郭

縄張図によると西以外の三方には土塁があるはずですが、
名残程度の高さであるのか無いのかよくわからにほどの高さになってしまっています。





大堀切

先ほど見た山の出郭との間の大堀切です。
上から見ると、こんなに切立っています。



北側を覗き込むと、下に郭群が見えます。
行ってませんが、この更に先の方に理昌院平があります。



これは何の跡でしょう?
あまり大きくないので社でもあったのでしょうか。
気になるのですが今のところわかりません。


虎口

主郭の虎口は一ヶ所で、ここからの出入りのみになります。



では、戻って中腹にある板垣平へ行ってみたいと思います。



駐車場に戻りました。
駐車場より北に延びた道のあずまやの見える辺りが、
「竜の池」という水の手であるようです。



~ 板垣平 ~


虎口

遠くからも見える上原城址の看板はここにあったんですね。
そしてここが板垣平と呼ばれる場所で、居館が置かれていた場所です。


館跡碑

この石碑がある場所が板垣平の虎口となります。
また、石碑の下はもともと土塁があった場所です。



館跡の石碑から、私有地になっていますがその平らな部分に館が建てられていました。
奥には家老屋敷がありました。
現在はわずかな石垣が残っているようです。


案内看板

上原城へ向う前に、ここを通過したのですが
こちらの方が先に出て来るので、ここを先に見てから行くということも出来るし、
大手道から登るとなるとここに車を置いて、ここから徒歩で登城することも出来ます。
この看板付近から大手道があるようですが、今回は確認して来ていないので
入口の画像がありません。



もともとここには諏訪氏の居館があった場所なのですが、
武田信玄により諏訪氏が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代を勤める
板垣信方の館となり、改築されました。
それ以来、板垣平と呼ばれています。



武田信玄が甲府との中継地点として使用したとても重要な支城であったという上原城。
杖突峠や大門はよく使う道なので我が道のようでしたが、初めて上原城、桑原城側へ来て見て
いつもと逆の景色に、新鮮な諏訪地方を見た思いです。
また、村上義清の「戸石崩れ」の際にも武田軍はここを拠点に出陣、帰陣としています。
大軍が滞在出来る機能が確保できることで多くの戦で利用されていたこを知り、
もっと早くにここを訪れていてもよかったのに、いつでも来られるなんて後回しにしていたのが
ちょっと悔やまれました。
そんなもんだね。


令和元年11月16日登城



今回の参考本
宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)
宮坂武男
戎光祥出版




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