むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

大峰城(長野県)

2019年08月13日 12時35分12秒 | 百名城以外の城
大峰城おおみねじょう
別名大峯城・大峰山城
構造山城
築城者大峰氏
築城年代不明
指定史跡
場所長野市長野大峰山 地図

善光寺の背後の山に築かれた大峰城は、天守型の展望台が建っています。
この展望台は現在閉鎖されており、周囲も木々で覆われ望見することは出来ません。
昭和37年に鉄筋コンクリートで造られた展望台建設時に逆「卍」の中に「鬼」の文字が
四つ墨書きされたカワラケが出土し、築城に際しての呪術的な儀式に使用されたものでは
ないかとされています。
遺構は一部破壊されているものの、土塁や堀切などの遺構が残っています。




終点の駐車場に到着しました。
駐車場から振り返った写真ですが、バードラインから大峰斎場方面に入り
大峰斎場から先はこのような道を登りあげますが、
道は路肩が崩れたり、穴が空いていたり、木の枝が出たりしているので
小型のRV車向きの道です。


二の曲輪

二の曲輪は駐車場になっています。
広場にはなっていますが、あまり車が往来している感じはありません。


案内看板
本来は善光寺平が見下ろせる眺望の良い場所なのですが、
視界は木々に遮られ眺望は得られず…。
確かに看板に書いてあるように緑ゆたかな森林に囲まれおります


石垣

一見、遺構なのかと思ったのですが
これはおそらく展望台建設とともに見た目を良くするために造られたものでしょう。



立派な門がありますが、その先を覗き込むと…引き返そうかと思いました^^;


展望台
シャッター付きです!
閉店ガラガラ~ですね



東側へと下る道があります。
この先横堀と曲輪に出そうですが行ってみる気になれません



主郭土壇へと登る道があります。



奥に襟のように見える土塁が残っている遺構です。


チョウと自然の博物館

1981年に収集家の方によって蝶の標本が寄贈され、約3000種類もの蝶が展示されていました。
1階と2階が博物館、3階には大峰城の紹介と出土品の展示、4階は展望台になっていたようです。


階段

本曲輪と二の曲輪を繋ぐ階段です。
草が生い茂っているわりには虫が少なく、蜘蛛の巣もありませんでした。



二の曲輪(駐車場)にはあずまやとトイレがあります。
このあずまやの裏から下る道と、曲輪が段状に続き、大手道があります。


堀切

二の曲輪にある堀切です。
右側は石垣も少し見えて、本曲輪の高い壁になっています。
この堀中は雨水を溜めておく窪地になってるそうですが、
藪に突入するのは遠慮したい。ので、中の様子の確認はしていません。



西側の曲輪と曲輪の間を区切る堀切がはっきり確認出来ます。



さて、帰ろう!と思ったところで山へ行くには虫に襲われまくるぞという
ラフな格好の男女が歩いて来ました。
一番近くても斎場だし、どこから歩いてきたのやら???
車を停められる場所も途中には無いし、車も見当たらない。
やっぱり斎場から歩いて来たのだろうか…「足はあったよね?」と確認。
「こんにちは」とはすれ違いに言ってみたけど返事は無し。
この時期ある意味、熊より怖かったぞ。



閉館になっていることは知っていましたが、見栄えの良い模擬天守があるものだと思って
とても期待して行ったのですが…夏行くものではないとわかってはいたのですが残念過ぎました。
期待していなければそれなりだったのでしょうが、見た写真がとても良かったので
久保田城伏見城を想像しながら行ってしまったのが大間違いでした。
そんな勘違いを除けば本当は、遺構も残っているし、構造や善光寺の絡みや、
川中島の戦いなどからみても面白い城跡なんですよ(^^)


令和元年8月11日登城


参考資料
信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版


甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館

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久米城(茨城県)

2019年08月05日 06時53分09秒 | 百名城以外の城
久米城くめじょう
別名竜貝城
構造山城
築城者大掾氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所常陸太田市久米町2035 地図

久米城は、佐竹の分家である佐竹北家が本拠とし、山入氏と対抗していました。
本城、西城、南城の3城からなる複合城郭で南へと続く尾根上には南の出城も構築されています。
鹿島神社付近を本城とし、切岸で郭を区切り尾根筋に郭を築き
山麓には平時の居館があり、屋敷と城下町を構えていました。



駐車場

久米城駐車場があります。
案内板や縄張図などが設置されています。


鹿島神社鳥居

鹿島神社の鳥居のあるところから登城します。



順路に従い登って行きます。
誘導の案内看板があるので道はわかりやすく、道も整備されています。
しかし、この道のコンクリートはとても滑りやすいので雨が降った後は
注意して歩かないとすってんころりんです^^;


田楽場

朱色の鳥居を目前に郭が見えて来ました。
神社の前にあるので、ここで舞を奉納したのでしょうか。


鹿島神社鳥居

緑の中に朱色の鳥居が見えて来ました。
ここでどこから散策しようかと迷いました。
順路は左へ行くようですが、ここはまず鹿島神社へご挨拶をしてからということで
鳥居をくぐって進むことにしました。


鹿島神社

東の城へやって来ました。
ここには鹿島神社があり、まずは参拝。



周囲にはいくつかの祠もあり、すべての祠にご挨拶。



鹿島神社の裏側に回ると、また順路の看板があったので
導かれるようにその方向へ進みます。


虎口

東の城本城前の虎口です。


本城

登りきったところに久米城本城跡の標柱が見えて来ました。



本城から西側を覗き込むと…深い谷です



本城から北側を覗き込むと、西の城の方向へは堀切が


角館の枝垂れ桜

秋田県仙北市から角館の枝垂れ桜が2本寄贈されました。
この枝垂れ桜は久米城を本拠とした佐竹氏が秋田に移封された後、
京の公家の娘を嫁に迎え、嫁入り道具として京都から3本の桜の鉢植えを
持ってきたというのが始まりで、佐竹氏ゆかりのこの地に
宇宙を旅した桜の種から育ったという角館の枝垂れ桜の苗木が贈られました。



順路に従い、東の城から西の城へ向かおうと思います。


虎口

東の城に入る虎口のひとつで、当時は木戸などの門があったと思われます。
虎口は土塁と壁に囲まれ、折れた構造になっているので一段上からの攻撃が可能です。



本郭から覗き込んだ堀切を経て尾根伝いに西の郭方面へと向かう道が続いています。



ここを下りきると大堀切、更にその先を登るとテレビ塔のある西の城です。



下りきって堀底に来ると西側の広い堀底に朽ちたジープがあります。
良い目印ではありますが、なぜここに?と疑問に思う。


堀切

東側を向くと西側とは大違いの幅の堀切になっています。
つまり東の城と西の城との間の大堀切の起点になる場所とも言えます。



堀底からジープの方へは後で行くとして、まずは西の城へ登る道を進んでみましょう。


テレビ塔

登りきると平場に出ました。
テレビ塔の建つこの郭が西の城になります。


西の城

この郭は「竜神平」とも言うようです。


二の曲輪(西の城)

西の城には二重堀と言われる二本の堀切と竪堀が残っています。
この堀切は右側の崖地の方に向かって竪掘になっています。


三の曲輪(西の城)

二の曲輪と三の曲輪の間にも堀切があり、北側は切立っているうえに土塁で防御しています。


土塁

順路ではこの土塁の上を歩くのですがよろけて外側に転んだら…
ちょっとこわい場所です。
まだ先は続くようですが、時間の都合で三の曲輪で引き返すことにしました。



テレビ塔の裏に物見台があるようなので行ってみようと思います。


物見台

物見台にはなんと親切に双眼鏡が設置されています。
最初は何が入っているのだろう?と思ったのですが箱を開けたら双眼鏡でした。
箱にはマジックで何か書かれていたようですが、もう文字が薄くなっていたので
箱を開けて「おお~!」と宝箱を開けた気分になりました。


眺望

これだけの眺望がありますからねえ。
そしてこの方向の奥の中央左側には、山入氏の山入城があります。
久米城は一時期山入氏に奪われ佐竹義治が奪還しています。



物見台から見た北の出城方面です。


北の出城

物見台から続く尾根伝いに進むと北の出城へ行くことが出来ます。
ちょい寄りのつもりがどんどん引き寄せられて結局物見台まで誘われて来たのですが
北の出城まで行ってるだけの時間に余裕が無く物見台からズームで見てみました。


今度はジープのあった大きな堀を西に向かって下ってみたいと思います。


ジープ

草の生えたジープ。
どうやってここまで来たのだろう???
テレビ塔があるということは、当然その資材を運んで来たであろうから
工事用の道があったということかな。
置き去りになってるのがジープってとこがちょっと軍事っぽくて
まったく似合わないというほどではないように見えてくる。



左上は本城、右上は西の城です。
しばし幻想的な空間を下って行きます。


垂直の崖

道の左側が崖になっているところまで来ました。
岩肌が見えています。


二つ目の崖

岩盤の急崖でV字谷を形成されています。


谷底

写真では高さ(約8メートル)が表現しきれてなにのですが、落ちたら確実にヤバイです!
水がちょろちょろ流れていて、水量がある時は滝のようになるのかな?と想像します。


ロープ
垂直の崖底を覗きに行くためには危険な場所を通るため、ロープが設置されています。
足を滑らせて転落したら…
ということにならないように、油断せず、しっかりとロープを握りながら歩きましょう。



二つ目の崖から引き返し、本城の東下を通って戻ることにします。


三の曲輪(本城)

主郭の東側にある本城の三の曲輪です。


堀切

主郭と三の曲輪の間には堀切があり、そこを通路(順路)としています。
鹿島神社の朱色の鳥居のところまで戻って来ました。


参道

参道まで戻って来ました。
普通のスニーカーで来てしまったので滑る滑る^^;
カメラを守るの必死でヨチヨチ歩きで下って行きました。
そろそろ登山用の靴も買わなくちゃかなあ。。。
ともかく苔と落ち葉でも滑りやすくなってますのでお気をつけあれ。


正念寺

正念寺の駐車場へやってきました。
ここにも案内看板が設置され、正念寺の裏から南の出城へと散策できるルートが
整備されています。



久米城全体を撮影出来る場所を求めて車を走らせていたら神社と案内看板を見かけたので
何か関連があるのかな?と思い寄り道してみました。
すると、こちらも鹿嶋神社でした。
こちら側からも登れるのか?と思ったのですが、距離的にも別の神社でした。


鹿島神社

こちらの鹿島神社は全国に約600社あるという鹿島市の鹿島神宮を総本山とする神社で、
江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)が大平村の鎮守として創建したと伝わります。



この階段は182段あるそうです。
見上げただけで、引き返す^^;


眺望
電柱がだいぶ傾いて写っていますが、心配なかれ。
広角レンズで久米山全体が入るように撮影した結果なので異常ではありません^^;
大堀切の部分のシルエットもはっきりわかりますね。


久米城は想像以上に広くてメリハリのあるとても面白い城でした。
案内看板や印刷物、順路などよく手入れされていて管理が出来ている良い城跡です。
ちょっと時間が足りませんでした^^;
急いで回る城跡ではなかったですね。
これを見たら、山入城にも行ってみたくなりました。また楽しみが増えたというものです。


令和元年7月13日登城


図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会
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岡城(長野県)

2019年07月31日 06時42分11秒 | 百名城以外の城
岡城おかじょう
別名岡村城・古城・小県岡城
構造平城
築城者馬場信房
築城年代1561年(永禄4年)頃
指定史跡市指定史跡場所上田市岡 地図

岡城の築城時期は不明で文献などから推測で永禄4年~7年の間に築城されたものと思われます。
村上義清の葛尾城を落してから、松代に海津城を築くまでの間の川中島進出の
重要な前線基地でもありました。
武田方の築城であることの特徴がよく見られ、東、西、北の三ヶ所の虎口には
三日月堀の伴う丸馬出がありました。
現在は宅地や水田と化され、岡城跡公園となっています。



案内看板

東の虎口付近に案内看板があります。
ここには土塁と堀が見られますが、東側にあった東の丸馬出は宅地となり
残念ながら、今は消滅しています。


駐車場

案内看板のある土塁の脇に2台分の駐車スペースがあります。
こちらに車を置いて散策しました。


縄張図

案内看板は2ヶ所設置されていて、その中に縄張図が描かれているので
それを基に散策しました。


空濠

まず、車を置いた東の虎口から見える北側の外堀が少し浅くなっていますが
横幅もあり、とても良く見えます。


標柱

外堀に沿うように高く盛られた土塁上に岡城跡の標柱が設置されています。



上に登ると公園らしくベンチや遊具があります。



更に一段高くなった場所があります。



一番高いこの場所には、あずまや、石碑、石祠があります。


岡村城の由来

岡城と呼ばれる前は岡村城と呼ばれていたのですが、
地名から名付けられたことが記されています。
この碑によると武田方馬場氏より以前築城されていたことが記されていますが
諸説あるので実際はいつ頃誰の築城なのかは解明されていません。



小高くなっているので全体的に周囲を見渡すことが出来ます。



堀に沿って北側の丸馬出に行ってみたいと思います。


北の丸馬出

住宅があるものの、なんとなく丸みのある土地であることがわかります。


主郭北の虎口
主郭への虎口にあたります。
その先の団地の中が主郭になりますが宅地になっていて遺構はほとんど何もありません。
うろうろできる状況にもないので、ここは通り過ぎるだけにしました。



主郭を囲む内堀と北西角の土塁に当たる位置で、石垣の一部が見えます。


内濠
この場所には案内看板と道祖神がある場所で、主郭を囲む西側の内堀が良く見える場所です。


主郭西の虎口

先ほどの場所から東側を見ると、西側の主郭虎口があり土塁の名残も確認出来ます。


西の丸馬出跡

この辺りに西の丸馬出があったとされていますが、現在は田んぼになっていて、
輪郭は残る…と本では読んだのですが、丸馬出はありませんでした。


濠と土塁
なんとな~く残る土塁と堀跡。


上田原合戦、川中島合戦と信玄が大きく係る重要な拠点です。
重臣である馬場美濃守が関与した城であることは間違いないようです。
三日月掘を用いた丸馬出が残っていたら…
現代であれば、かなり話題性のある城跡であったろうと想像します。

千曲川を挟み多くの城が築かれ歴史に残る戦いと、
沢山のドラマがこの辺りには溢れています。
本当はこんな簡単な紹介では済まない多くの物語があるのでいろいろ調べてると
なるほど~というエピソードがいっぱいなのです。
文章が下手くそなので、それはまた追々ということで。。。。


令和元年7月20日登城



甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館



[新装版]戦国武田の城
中田 正光
洋泉社
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山方城(茨城県)

2019年07月27日 10時12分42秒 | 百名城以外の城
山方城やまがたじょう
別名御城・御城館
構造丘城
築城者山方能登守盛利
築城年代1408年(応永15年)頃
指定史跡
場所常陸大宮市山方313 地図

山方城は、佐竹氏の重臣の山方能登守の居城跡で、御城と呼ばれ
南郷街道に沿った水上交通上の中間地点として重要地点でもありました。
御城、中ノ城、外城の三つの郭からなり、南側には山方宿がありました。
平時は本城、中ノ城に住み、戦時は高館山頂の詰城に移り住んだものと思われます。



駐車場

無料駐車場完備です。
ここから少し歩くことになりますがありがたいことです。



この先に駐車する場所が無いので車はここに置いて歩くことになります。


嘆願橋

駐車場脇にある皆沢川にかかるこの橋は、かつて農民が御城の領主に願い事をする際
ここまでしか入ることが出来ず、ここで言上したことから「嘆願橋」と呼ばれるようになりました。


南郷街道

水戸を起点に南郷(現福島県塙町、棚倉町)に至る道です。
城域内を通っていることから案内看板が設置されています。
御城展望台へは看板に従って進みます。


御城展望台入り口

この先は車での侵入は出来ません。
管理棟の係員さんの車がこちらに停められています。
足の不自由、身体の不自由な方なら、駐車スペースではありませんが、
かろうじてここの前に乗用車が一台停めさせてもらえるかなと思われます。



入口から遊歩道に入ると趣のある石畳で、城跡というよりは
やはり公園の雰囲気で迎えられます。


空堀と土塁

入口から歩き始めて間もなく、空堀と土塁が見えて来ました。


矢篠(矢竹)

藪のようになってますが、このように矢竹の群生がみられます。
矢竹は稲科の竹で、真っ直ぐで節間が長く矢の材料として用いられ、
よく山城で見かけることがあります。
御城でも城内全域に 矢竹を植えて戦に備えていたものと思われます。
ちなみにここは本城と中ノ城の間の堀切です。



御城展望台は有料です。


御城展望台

御城展望台が見えて来ました。
この展望台は山方家の子孫の方、資料だけでなく建設費の一部を寄付されています。


管理棟

9月1日まで「学びのスタンプラリー」を開催しているので、これに参加すると
団体料金で入城することが出来ます。


天守入口
現在は東京にお住まいという山方家の子孫の方々から寄贈された
山方氏関係史料は御城展望台内の展示室で見ることができます。


腰庇

天守(展望台)と石垣の隙間を埋める腰庇は、丸岡城を思い出させる造りになっています。


1階

ここで靴を脱いでスリッパに履き替えて見学します。



山方氏の子孫の方から寄贈された山方氏関係史料や、
国道118号線バイパス建設工事に伴い昭和61年に発掘調査が行われ、
その際に出土した土器類が展示されています。


縄張図

御城と高館山の詰城の縄張りです。


2階

2階には展示物はありません。
そして、にこやかにほほ笑む「地蔵菩薩立像」がこの展望台から見守っています。



破風も再現されていて、天守らしい造りや飾りがチョイスされています。
もちろん屋根には鯱鉾も載っています


中ノ城
本城と中ノ城の間の堀は藪になっていて入って行けなかったので
展望台からの眺めで確認。
畑の部分が中ノ城、その奥の住宅地が外城になります。



こちらの窓からは市街地の様子が見えます。


学びのスタンプラリー

夏休み企画「学びのスタンプラリー」開催中!
スタンプラリーの台紙をもらって展望台を入ったところでスタンプを押します。
管理棟でもらったシールを貼るのですが…私にはセンスが無いなあと痛感(>_<)
後に続いて貼った人がどう思ったか…心配です
私が訪れたこの日から開催となり、意としたわけではなかったのですが一番乗りでした^^;



晴れていたら格好良く見えたんだろうなあ。
天守に青空は重要です!


梅林

本城北側は梅林になっています。



それではそろそろ御城展望台をあとにしたいと思います。


堀切

中ノ城と外城との間の堀です。



中ノ城と外城との間の堀を進んでみると、途中で舗装路は途切れて
軽トラ1台分の幅しかない道になっていました。


夏場は山城に行くのは厳しいと思い、建物がある城跡に行こうと検索して
こちらにやってきました。
でも実はここに来る前に、入口までのつもりで覗いた山城へ「あともう少し…」と言いながら
結局登って来てしまいました。
本来の目的地であった山方城へ来た時には、だ~れもいなくて貸し切り状態だったので、
城主気分でまったりできました。


令和元年7月13日登城



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小沢城(群馬県)

2019年07月24日 06時53分15秒 | 百名城以外の城
小沢城おざわじょう
別名沼田館・沼田城
構造崖端城
築城者沼田景朝
築城年代1405年(応永12年)
指定史跡市指定史跡
場所沼田市甲2038 地図

小沢城は三浦系・沼田景朝が荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城です。
沼田氏の幕岩城へ移るまでの4代114年間、居城にしていました。



入口
四釜川の崖端に築かれた城で、入口には「沼田平八郎景森の墓」の看板があり、
従うように道を登ると小沢城(法城院)に辿りつきます。


法城院

現在は法城院があるこの場所に案内看板が設置されています。



内郭の南側(崖側)は蒟蒻畑になっています。


平和観音尊像

この辺りに内郭と中郭との間の土塁と堀、虎口があったと思われますが
今は土塁はなんとなく名残が見え、堀は見当たりません。


土塁と虎口

内郭の土塁は東側に残されているものが比較的良好に残っています。
墓地のあずまやの右側に見える土塁がしっかり残っています。


沼田大明神

沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀った神社です。
また法喜庵(法城院)を建て霊を弔いました。


沼田平八郎景森の墓

沼田景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で沼田氏最期の主将です。
この墓は、金子一族の子孫である利根村大原金子重右衛門照泰らにより作られ、
1780年(安永7)年納められたものです。


土塁

外側の土塁いは良好に残っています。
内側にあった土塁も東側に残っている土塁と見比べてもおそらく同じ位の
高さがあったのでしょうが畑になってしまったのでしょう。


虎口

間知ブロックで補強されていますがはっきりとわかる北側外の虎口です。


空堀

虎口を出ると、そこには空堀があります。
堀と土塁で高さを増しています。



堀底が道になっていますが、堀であったことがよくわかります。



内側から見た北の虎口です。


中城

この面が広いので、がっつり畑になっています。



内郭と外郭の境界となる土塁は、このように何も残っていません。


井戸

昔からあった井戸を現代でも畑に利用しているのかと思って注目してみたのですが
帰宅して縄張り図を見てみたものの、井戸の記載はありませんでした。
位置としても井戸があっても良い場所だと思ったのですが…。


東の虎口
東の虎口から右に入って行けそうだったのでちょっと様子を見に行ってみました。


東南の虎口

わずかな土塁が残っていて、奥には草で覆われていますが下に続く階段がありました。
この道は古くからあるもので南の虎口へと繋がる道であったようです。


沼田平八郎景森の墓の看板があったものの城跡への案内看板がみつからなかったので
周辺をうろうろしてから法城院へ。
何も残っていないのかと思いきや、土塁も堀も残っていて特に北側の堀と土塁、虎口のセットが
良い感じであったので収穫あり!でした。
ぜひ、北側をご覧くださいませ


令和元年7月6日登城


戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部

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荒砥城(長野県)

2019年07月22日 07時14分00秒 | 百名城以外の城
荒砥城あらとじょう
別名新砥城
構造山城
築城者山田氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所千曲市上山田 地図

村上氏の支族である山田氏に築かれた山城です。
川中島合戦の頃には武田軍と上杉軍による争奪戦が繰り広げられました。
1582年(天正10年)武田氏滅亡後、上杉景勝の川中島統治時代には屋代秀正が上杉に従いますが、
その翌年には屋代秀正が徳川家康と通じて荒砥城に籠城、上杉諸将に責められ落城したと伝えられています。



戸倉上山田温泉
戸倉上山田温泉の背後の山に荒砥城が聳えます。
「戸」の上に櫓が見えるのがおわかりいただけるでしょうか。


県道聖高原千曲線

県道聖高原千曲線を進むと見えて来る荒砥城の看板。
看板に従って右折をすると駐車場と入口はもうすぐです。
また、聖高原方面は現在工事中で全面通行止めになっています。


駐車場(下)
先ほどの地点を右折してすぐに駐車場が見えて来ます。
この上にまだ駐車場があるので、上の駐車場が満車の際はこちらを利用します。


バス停

下の駐車場まではバスが来ているようです。
本数は少ないようですが、バスはここで転回して行きました。
ちなみにお客さんは一人乗っていて、ここで降りました。


駐車場(上)

ここが車で登れる終点で、駐車場になっています。
ここからは歩いて登ることになりますが、道は整備されているので歩きやすくなっています。


千曲市城山史跡公園案内図

遊歩道の入口には案内看板があります。


トイレ

遊歩道を歩いて一度くの字に折れて、間もなく石垣とトイレが見えて来ます。


城址碑
建物と城跡碑が見えて来ました。
下がトイレ、冠木門の手前にあるのが案内所です。
また、トイレの奥が四の郭になります。


案内所

こちらで入園料300円を払い、パンフレットをもらっていざ出発です。
ここからはトイレや飲み物も無いので夏場は熱中症にならないように
水分の対策をして行きましょう。
うちわの貸し出しも行ってましたよ(^^)


三の郭

道の途中にある三の郭。
と言っても知らなければまったく見過ごすような郭です。
もちろん、公園化にともない元の形は留めていないものと思われます。


城門

この門の上に登ることが出来ます。
石垣も復元なのですが平べったい石を積み上げたとても特徴的な石垣です。





井楼櫓

狼煙台としても機能していたであろう場所でもあり、その眺望は抜群です。
さらにこの井楼櫓に登って眺めた景色はすばらしいです。


眺望

眼下には戸倉・上山田は温泉地として栄え、街並みや干曲川が一望できます。


櫓から見た本郭

城主の館と兵舎が再現されています。


パノラマ

ここから見える景色の中には多くの山城が入り込んでいます。
三角で特徴的な山には、大河ドラマの「真田丸」でおなじみの寺島進さんが演じた
出浦昌相の名が知られ、注目されるようになった出浦城があります。
出浦城も冬になったら行ってみたいと思っているところです。


兵舎

兵舎を再現して展示室としています。


映像室

荒砥城が築かれた頃の様子や戸倉上山田温泉の観光案内のビデオを上映しています。
ここでめっちゃ蚊にさされたので、この時期は虫よけはお忘れなく!


展示室

山の城と麓の城の紹介や出土品の展示をしています。


冠木門

本郭と二の郭との区切りの門です。


城門

本郭への入口です。
撮影のセットのよう…実際撮影に使われているのでセットと言っても過言ではない^^;


館と兵舎

こちらは以前訪れた時の画像です。
時間外なので扉は閉まっていて中の様子は見られませんでした。




今回は開園している時間でのリベンジだったので中の様子もちゃんと見られました。



ここに偉そうに座って記念撮影しちゃいました


裏側
裏側は食糧庫にしていたであろうという想定で再現されている造りになっています。


兵舎内部

本郭の兵舎内部はNHKの大河ドラマの収録の様子が展示されています。



NHKの大河ドラマ「風林火山」や「江」にも使用されました。


展望台

とにかく多くの山城や砦がいっぱい見えるところなので
景色が良いというだけでなく山城好きにはヨダレものです。



雨上がりで靄がかかり幻想的な雰囲気の中での登城でした。
残念な天気だなあと思ったものの、少し晴れ間も見えて来てこれもまた良い雰囲気でした。



かくれんぼ?
後ろから丸見えです^^;
この写真も以前訪れた時のものですが、風景は今とほとんど変わらないのですが、
ここに写る我子は、もう高校生になっています。



さて、そろそろ帰りましょうか。





以前訪れた時は夕方で、かろうじて受付に係員さんが居たのですが残念ながら城址は戸締りをした後でした。
それでも親切にせっかく来てくれたのだからと城址には入れてくれました。
その後我々が帰るまで待っていてくれたので入口で引き返すこともなく外からだけですが
見学することが出来ました。
今回は入園料を支払って建物内も見学して参りました。
今回は小雨の中での登城となり、ここでは天気に恵まれないのだなあと…。
それでもこれだけの景色が楽しめる場所なのでを持って散歩に来るのも
ありかなと思います。
そしてここから背後にある本城や小城は冬に出直したいと思います。


平成24年9月22日登城
令和元年7月20日再登城


甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館
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常陸太田城(茨城県)

2019年07月18日 06時48分18秒 | 百名城以外の城
常陸太田城ひたちおおたじょう
別名佐竹城・舞鶴城・青龍城
構造平山城
築城者藤原(小野崎)通延
築城年代 1109年(天仁2年)
指定史跡
場所常陸太田市中城町151 地図

常陸太田城は、小野崎通延が築城し馬坂城を居城としていた佐竹隆義が
小野崎氏を小野崎城へ追いこみ常陸太田城を入手、佐竹氏の本城としました。
佐竹氏は会津上杉討伐や関ヶ原合戦に参陣しないなど
徳川家康に反抗的態度が多かったために、秋田に国替えを命じられました。
秋田移封後は水戸藩の支庁が置かれ明治初期に廃城となりました。



西本郭

太田小学校へやって来ました。
学校はお休みで、職員室を訪ねてみたのですが先生方はいらっしゃいませんでした。
通報されないように体育館に居た保護者の方に声を掛けて、
事情(城跡を見に来たこと)を告げました。


舞鶴城址碑

西本郭の太田小学校の門を入ってすぐに城跡碑があります。


今上(昭和)陛下御駐蹕の碑

小学校裏の現存土塁とされる場所付近にある石碑は
1929年(昭和4年)に陸軍特別大演習が行われ、
その際に、天皇陛下が太田小学校にお立ち寄りになられたことを
記念して建てられたものです。


日下部父子の碑と益習館跡

水戸藩が庶民の教育機関として設けた郷校のひとつで
益習館の初代館守を務めた日下部連と、その子である伊佐治の功績を称えた碑です。



埋蔵文化財発掘調査

ここは日本たばこ産業が所有していた旧太田倉庫跡地です。
三の郭に位置する場所に来てみたら…発掘調査中でした。



住宅地にするための発掘調査のようです。



この後、9月以降は住宅地建設となっていくのでしょうか…。
そもそも工場があった場所なので今更ながら遺構がどうのという感じではないかもしれません。
しかし、ここに舞鶴城があったことを研究し、語り継いでいる方々に敬意を表したいと思います。



学校にある城址碑だけかなとあまり期待せずに行ってみたのですが、
広く城址の面影(土塁や堀)と地名など名残がのこり、発掘調査中であったりと
思いの外歴史を感じる場所じゃないか!と思いました。
三の郭から9月までに何が出て来るのか、新発見があることを期待します。


令和元年7月13日登城



改訂版 図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会
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小野崎城(茨城県)

2019年07月18日 06時47分54秒 | 百名城以外の城
小野崎城おのさきじょう
別名
構造平山城
築城者小野崎通盛
築城年代1145年―1151年(久安年間)
指定史跡
場所常陸太田市瑞竜町小野崎 地図

小野崎通盛は、小野崎に館を構えていたことから小野崎新太夫と称しました。
佐竹昌義の家臣となり、その勢力は宿老・守護代へと発展していきました。
その後佐竹領の拡大に伴い、小野崎城から櫛形城へと所領替えとなり
小野崎城は廃城となりました。



城址碑

常陸太田市立瑞竜中学校にある城跡碑の撮影許可を取りに職員室を訪ねました。
撮影許可と他に遺構がないか尋ねてみたのですが、残念ながら遺構は残っていないとのこと。
東側の一段下(里川側)から遠景で見ると城(館)を置きそうな地形であることがわかります。
しかしそれ以外城跡であったことを偲ぶ材料がみつかりませんでした。
近くには白鷺神社が目につく。
ここには今宮館跡があるらしく、入口にはバイクの先客がいました。
佐竹永義の館があった場所とされますが、現在館跡には白鷺神社の境内になっています。


城址碑以外学校敷地内の撮影は遠慮致しました。
遠景を見てその立地条件から、かつての城跡を想像しながら後にしました。


令和元年7月13日登城


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日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社
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総社城(群馬県)

2019年07月12日 08時02分50秒 | 百名城以外の城
総社城そうじゃじょう
別名植野城
構造平城
築城者秋元長朝
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所前橋市総社町総社 地図

総社に封ぜられた秋元長朝は蒼海城を放棄し、この地に築城したのが総社城です。
秋元氏は天狗岩堰の揚水灌漑工事を行い、城下に水路を引き、城下町の整備も行いました。
秋元泰朝の時代になると甲州谷村に移封され、廃城となりました。



城川公園

現在、本丸と二の丸の一部は利根川に削り取られて失われています。
また、残った二の丸部分と三の丸も宅地化が進み遺構は残っていません。



この壁、和風にはみえないですが、塀に開いた穴が狭間に見えます。^^;


案内看板
城川公園に設置されている案内看板です。


堀跡

城川公園から振り返って道の東側を見ると堀の名残なのか?と想像するにも
ちょっと難しいような二の丸跡があります。
今も造成が続いていて、その面影はもはや想像をもしがたい状況です。


物見台

給人町屋敷側から見た物見台。
住宅化が進み、現在残る遺構としてはこの物見台くらいです。


遠見山古墳
城川公民館へやってきました。
遠見山古墳を利用した物見台です。
この日は何やらイベントがあるらしく、地元の方々が何かの準備をされていたので
駐車は出来そうになかったので、車から私だけ降ろしてもらってひとりで散策へ。
※行事等何もなければ城川公民館への一時的な駐車は可とされています。



すると、そのイベントに来た?のか近くにある「前橋市総社歴史資料館」の方が
私を見つけて話しかけて下さり、総社城と秋元氏と天狗岩用水の説明をして下さいました。
現地で詳しい話が聞けてラッキーでした。
また、「前橋市総社歴史資料館」へ行けば総社城や秋元氏に関しての資料が
あるとの話でした。


天狗岩用水路

早速教えていただいた天狗岩用水路を見に来てみました。
ここは熊谷稲荷の東側を流れる水路です。
秋元氏が総社の町を豊かにしたとして二代30年余りでしたが
転封後もなお領民に愛されました。


熊谷稲荷神社・天満宮

熊谷稲荷神社があります。
秋元氏が甲州へ転封になり、高崎城主安藤重長の領地となり陣屋を構えたのも
この付近になります。



陣屋を構え、高田弥兵太代官が支配するようになると重税で農民たちは困窮し
熊谷稲荷神社に参集し、加護を祈ったそうです。
この時、江戸に直訴に行った際に助けてくれたのが秋元氏であったことも
総社の民にとってどんなに救われたことか。



前橋市総社歴史資料館の方に偶然出会えてラッキーでした。
この辺りの地元の方々はとにかく秋元氏推しなのだそうで、秋元氏愛を力説されたので
もう少し秋元氏について調べてみたくなりました。
甲州へ転封の後に館林城へ転封になっているので、場所は違うけど群馬には帰って来られたのですね。
折を見て「前橋市総社歴史資料館」を訪れてみたいと思います。
秋元氏愛にあふれた総社城訪問でした。。。。


令和元年6月16日登城


日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社
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明徳寺城(群馬県)

2019年07月10日 07時10分32秒 | 百名城以外の城
明徳寺城みょうとくじじょう
別名天神山砦・天神山城
構造丘城
築城者沼田氏
築城年代1390年―1394年(明徳年間)
指定史跡町指定史跡
場所利根郡みなかみ町後閑 地図

明徳寺城は、会津葦名氏の攻撃に備えて荘田城の沼田氏が築いた
天神山砦を改築して城を築きました。
戦国時代には北条氏と真田氏の争いに巻き込まれ、
後に小田原征伐へと発展し真田氏の領地になるが、後に廃城となりました。


みねの湯 つきよの館

「みねの湯 つきよの館」を目標にしてやって来ました。
すると矢印看板は「みねの湯 つきよの館」の方を指しているのでお邪魔させて
いただきました。


案内看板と標柱

案内看板のある「つきよの館」の駐車場から見た入口です。
左手に下る道があるのですが、草が生い茂っていて降りて行く気になれなかったのですが
その先には井戸があるようです。
また、右手には民家(つきよの館の方の家?)があるので撮影しなかったのですが
そちらは馬出(小郭)とされています。
こちらのお宅から出て来た方に駐車の許可をいただき、駐車場に車を置かせていただきました。


入口

入口と言っても、既に城郭内に立っているのですが
この位置からでも一目でわかる虎口が見えます。


空堀
虎口手前の空堀も立派そうですが竹藪になっています。


主郭虎口

土塁を切った虎口が待ち構えています。


主郭

高さのある土塁に囲まれた主郭は、3段に分かれた造りで
それぞれの郭の区切りは段差も低く、今ではそれほどはっきり
分かれているようには見えません。


土塁

東側の土塁は特に高く盛られています。
この高さ


中段

中段は現在桑畑になっていて、こちらはまだ畑として機能しているようです。



中段と上段の境界あたりには水溜りのような小さな池?がありました。
古いとは思えないのですが人工的に水が溜められているように思えるのですが…。




先ほどの池と並んで境界付近に石が並んでいます。
こちらの石は縄張図にも示されているので何らかの遺構であると思われます。
かつて明徳寺があったことからそれらに関した礎石などでしょうか…。


明徳寺跡

上段は明徳寺があった場所とされていますが、藪になっていて奥~の方に土塁が
見えるけど入って行けそうにありません。
ちなみに、虎口を入ってすぐの上段側にはお墓があります。
これもお寺であったことを示しているようです。



中段から下段へ続く道。
この先もちょっと覗いてみたのですが草むらになっていたので引き返して来ました。^^;


北西虎口

先が薄暗いのでどこまで進めるかな?と思いつつ、恐る恐る道をくだってみることに。



まだ進めるぞ!とカメラの1脚棒を武器に蜘蛛の巣と格闘しながら
下って行くと道下には腰郭が見えました。



なにやら建物が見えて来ました。
行ってみましょう!


水子地蔵尊

水子地蔵尊です。
お寺なのでこのような建物も残っています。
とりあえずご挨拶ということで手を合わせます。


腰郭
右の道のように見えるのが腰郭で、左の道が主郭から下って来た道です。



先ほどの腰郭を上から見ています。
藪でよくわからないのですが、肉眼では確認出来ます。



帰りがけに道路から見た井戸のある方向。
茂みの中に井戸があると思われます。


もう、草が生い茂ってしまっているので山城に行くのは
厳しいので平城、丘城狙いでやって来ました。
堀が良い堀なんですけど、竹がねえ~。残念。
でも、高い土塁とそれを切った虎口がとても印象的でした。


令和元年7月6日登城


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栃尾城(新潟県)

2019年07月08日 12時51分02秒 | 百名城以外の城
栃尾城とちおじょう
別名舞鶴城・大野城
構造山城
築城者芳賀禅可
築城年代室町時代初期
指定史跡県指定史跡
場所長岡市栃尾大野町 地図

上杉謙信の旗揚げの城と云われる栃尾城は、
越後守護となった宇都宮氏綱の家臣芳賀禅可が築きました。
上杉謙信が青年期を過ごした城であることでも知られていますが、
謙信の死後家督争いとなった「御館の乱」では、越後の主導権争いになり栃尾城は
景虎側に味方していたため、景勝軍に攻められ中城まで火を放たれ間もなく落城しました。
その後慶長3年に入城した堀秀治は、慶長15年に堀家取りつぶしとなり
栃尾城は廃城となりました。



駐車場

麓の諏訪神社から登るルートがあるのですが
辛いより楽な方が良いのと、この日はもう夕暮れで城の中で
日が暮れてしまいそうだったので迷うことなく中腹の駐車場からの登城です。


登城口
何年越しだろう…、念願の栃尾城登城です。
この日、予定はしてなかったのですが新発田城へ行った後思いつきで
あちこちと登城しながら最後は勢いで栃尾城を目指して来てしまいました^^;



時期的にもう草や虫と格闘するのかと覚悟していましたが
まだそこまでの状況ではなく助かりました。
右は狼煙台、左は本丸への分岐点にやって来ました。



とりあえず狼煙台は後回しにして、日が沈む前に本丸を目指さねば!
ということで本丸方面へ進むと、建物が見えて来ました。


トイレ

この建物はトイレでした。
駐車場から登って来ると、そろそろ休憩したくなる地点です。


クマさんバイバイ

本丸と二の丸の分岐点に着きました。
ここの標柱には「クマさんバイバイ」と名付けられた
熊除けが設置されていました。
せっかくなので、これを使って「人間がいるぞー!」とアピールしてみました



さて、この分岐でも本丸優先で進むことに。
あともう少しで本丸です


鶴城山

山頂に到着です\(^o^)/
そしてここは本丸です。


本丸

案内看板と鐘があります。
太鼓でもなく吊鐘でもなく、ベル?
結婚式場や教会にありそうな鐘ですが、何するものなのかな?



細長い本丸です。
目の前には石祠があるのでいつものようにまずは、お参りです。



本丸からの眺めは最高です
1000m級の山々が見えます。



眺めが良い!
足元は…目が回るほど危険な高さがお分かりいただけるでしょうか。
この角度、石垣でなくても登れそうにありません



東西は切岸になっていて、北には堀切があるので南からの一箇所だけに
虎口が付けられています。



ちょっと村上城を思い出すような眺めで、
新潟の山城はとても素敵だなあと感心してしまいます。



本丸から降りて来ました。
次は二の丸へ行ってみたいと思います。


二の丸

あずまやのある郭が二の丸です。



二の丸には石祠があります。
この郭も木を切り倒すと眺めが良さそうな郭です。



二の丸石祠の背後の土塁を超えて進むと中の丸があります。
この先は堀切で切られているのでここで引き返し、下の分岐から狼煙台の方へ
行ってみることにします。


中の丸跡

中の丸の下まで来ました。
明るく見えますが、時間はすでに午後6時になろうとしています。
この先どこまで行けるかな…。



中の丸と琵琶丸の間の大堀切。
ここは箱堀状になって郭と郭を区分けしています。
ちなみにこの上の琵琶丸の名称は楽器の琵琶の形に似ている
ことからその名前が付けられたと言われています。


土橋

堀の間を渡る見事な土橋です。


堀切

鋭角なV字カットです。
綺麗な堀切ですね。


狼煙台詰郭

この郭は馬繋ぎ場とも呼ばれ、かつては馬を繋いだ場所とも伝わるのですが
ここまで馬が土橋を渡って来れたのだろうか?と疑問に思ってしまいます。
ここに馬が居ても役に立つとは思えないので名称だけで実際にはここに
馬は繋いでいないと思われます。
※他の城でもこのような事例があります。


眺望

チラリと見える景色ですが、周囲の木々が無ければ
ここからの眺めも良く狼煙を上げるのに良好な場所だったことが想像出来ます。



馬繋ぎ場から更に奥へ。
馬繋ぎ場の土塁の高低差を横目に上に登ると上から見下ろせる形になっています。


大空壕跡と土橋

狼煙台へ向かう道の最後の大堀切です。
ここも見事な堀切で、土橋を渡しています。



この先に狼煙台があるはずですが、ちょっと先まで走って見に行ってみたのですが
狼煙台が見えなかったので、ここで断念。
諦めが肝心!と自分に言い聞かせ?(単に諦めが早いだけ)
引き返すことにしました。


駐車場

駐車場に戻って来ました。
この後、林道を進み狼煙台の真下を通過してみましたが
とても登れそうなところはありませんでした。


栃尾にはお友達が居るのですが、思い付きで車を飛ばして来たので
挨拶もせず、失礼致しました。<(_ _)>
今度はぜひ麓から案内していただけるよう、宜しくお願いいたします。
いつも「あぶらげ」ありがとうございます。
また、お邪魔します。。。


令和元年5月12日登城


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石倉城(群馬県)

2019年07月05日 06時45分16秒 | 百名城以外の城
石倉城いしくらじょう
別名崖端城
構造平城
築城者長尾憲景
築城年代1485年(文明17年)
指定史跡-
場所前橋市石倉町5丁目7−12 地図

石倉城は、蒼海城主の長尾忠房の嫡男長尾憲景が築きました。
関東の要衝であった石倉城は、上杉、武田、北条の奪い合いが続き
何度もの攻防戦が繰り返されてきました。
天正18年徳川勢の侵攻により、「もはやこれまで」と城に火を放ち城兵とともに
落城の運命を辿りました。


城址碑

石倉城二の丸公園内にある城跡碑です。


案内看板
城址碑の横に並ぶ案内看板は縄張図が記されています。
もう薄くなって見ずらいです。


石倉城之記

石倉城を後世に伝えるべく石倉史蹟愛好会が建てた「石倉城」を記した碑です。


二の丸公園

二の丸は公園と化しています。
厩橋城の前身とも伝わる石倉城は、利根川の氾濫を受けて多くを削り取られてしまい
再建をした頃には厩橋城と呼ばれるようになっていました。



この奥は河川敷になります。


厩橋城

石倉城の三の丸に築城されたという厩橋城はこの川の先に見える
県庁に位置する場所になります。



グラウンドの駐車場へ降りて来ました。
川岸側から二の丸を見上げています。
本丸は大部分が削り取られて無くなっています。


前橋県庁付近の利根川は現代になっても氾濫する場所で、
未だに危険な土地柄であることは変わりありません。
堀にするにしても、自分らがこの水害に遭ってしまっていては
敵は自然災害にあり!って感じです。^^;
にもかかわらず、また懲りずに前橋城をここに造ってしまうほど
この地に拘ったというのがなんだかよくわからない。
それでも、現在に至っても群馬県庁がここに存在するわけで、
車が水没しようともここが群馬県の中心であることはかわりない…。
大雨が降るたびに前橋県庁付近の川の氾濫が気になります。。。



令和元年6月16日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館
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村松城(新潟県)

2019年07月02日 06時31分12秒 | 百名城以外の城
村松城むらまつじょう
別名村松陣屋・松城
構造平城
築城者堀直吉
築城年代1644年(正保元年)
指定史跡
場所五泉市村松 地図

村松城址公園として整備されている村松城は、かつて堀直竒の二男直時が3万石を分けられ、
安田に陣屋を築いた後、直時の嫡男直吉がこの地に移転させ陣屋を築きました。
1850年(嘉永3年)に城主格に昇格したことで陣屋から
現在の城の形へと大改修しました。
戊辰戦争では新政府軍に火を掛けられ廃城となりました。



村松郷土資料館
村松郷土資料館の駐車場に車を置いて公園内を散策開始!




本丸と南曲輪の間の堀は駐車場から村松郷土資料館へ行く途中で見ることが出来ます。


手洗鉢
村松郷土資料館入口前にあるこの手洗鉢は、江戸時代に村松藩の藩主が将軍家菩提寺である
上野の寛永寺に寄進したものを平成11年に寛永寺の厚意により寄贈され移設したもので、
村松城の外堀に使用されていた大沢石を使用しています。


本丸
公園化している村松城は、縄張り内を道路が斜めに横断していて残念なことになってますが
形としては城跡の縄張りの様子は確認することが出来ます。


土塁
本丸の南側を見ると、本丸が土塁で囲まれていたことが分かります。
その土塁の向こうは先ほど見た本丸と南曲輪の間の堀です。



左手道路側の公園入口付近には、電車とあずまやがあります。


蒲原鉄道の車両

加茂駅から中蒲原郡村松町を経由して五泉駅までを結んでいた鉄道路線で、
大正11年に蒲原鉄道を設立、翌年村松から五泉間を開業し、
平成11年に全線廃止となりました。


枡形虎口

本丸内側から見た枡形虎口です。
見所はやっぱりこの枡形虎口でしょうか。


枡形
土塁上には塀があり、枡形の門を構えていました。
石垣造りではないのでちょっとわかりずらいと思うのですが
土塁はL字になっているのがはっきり分かります。


案内看板
城址公園の説明が記されている案内看板です。



この土塁の上に枡形門が築かれていました。


石碑

歌碑のようです。


搦手口

こちらが搦手口とされる外堀を渡る橋から枡形門までの内堀の様子です。



公園化した時の改修がどこまでなのか…遺構はどの程度残っているのか
見ただけではよくわかりません。



城跡というよりは、館の色が濃く館跡として見た方がしっくりくるかも。


内堀

北東に残る堀。
この堀は縄張図にも載っている堀なので遺構と呼べる場所です。



散策には行っていないのですが、正面奥の方は南曲輪が広がっています。


じょうせきばし

外堀の役割も兼ねている滝谷川を渡る橋。

村松藩は新潟を占領した新政府軍の追撃を恐れ、藩主を米沢に逃がすことにしました。
新政府軍が近くまで迫ると、城下に火を放って津川口から米沢に逃げたのです。
しかし、会津藩に合流した後、城下で戦闘中に捕らえられ、打ち首となりました。
村松藩は幕府側の大藩である会津藩と領地が接していることもあり激戦地だったのですね。
北越戊辰戦争も激しかったことが、こうして城さんぽをすることで学ぶこととなり
こんなにも多くの城跡が戦乱に巻き込まれていたことに驚くばかりです。

また、赤坂古戦場跡にも北越戊辰戦争の爪跡が残ります。


令和元年5月12日登城



維新の墓標 昔々 北越戊辰戦争で
渡辺れい
新潟日報事業社
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長野原城(群馬県)

2019年06月27日 06時40分29秒 | 百名城以外の城
長野原城ながのはらじょう
別名箱岩城
構造山城
築城者羽尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡場所吾妻郡長野原町長野原古城 地図
羽尾道雲入道の城であったと伝わる長野原城は、武田方であった頃の真田氏の一門である鎌原氏と
境界争いをしていました。
もともと、羽尾三兄弟の本拠地は羽根尾城で羽尾道雲入道は三兄弟の長男です。
城は南北へ鳥が羽根を広げたように縄張りされていて、吾妻地方でも代表する
要害の城です。



民家と民家の間に入口があります。
なお、写真はぐんまみらい信用組合前から撮っています。



入口には看板があるので、それに従い進みます。



民家脇にある長野原城跡の標柱。



民家と畑の間に道があるので看板の示す山の方へと進みます。



吾妻線の上の橋を渡って山の方へと道は続きます。



道は薬師堂へと続きます。
今回はここで引き返して、もう一方の入口探しに向かいます。



長野原城はこの山の上です。




大手道

先ほどの入口より国道145号線を少し西に向かい、長野原役場近くの
JRバス関東の道向かい(山側)の民家と民家の間に道があります。
こちらは何も表示はありません。
お墓の裏に道があります。



この先を登って行くと城跡にたどりつくとのこと。
この道に入る手前の家の方が声を掛けて来たので、城跡に行きたいことを告げると
行き方を教えてくださいました。
実は前記述のルートよりもこちらの方が道が良いとのアドバイスをいただきました。
この日、訪れたのが夕暮れだったため「今から行くの?」と心配されたので
「今日は下見に来たのでまた出直しますのでその時またお邪魔します」とあいさつ
して後にしました。
こちらは案内の看板は無いだけに、ご近所の方々が警戒するので
声を掛けられたらきちんと対応するようにしたほうが良いですよ。



令和元年6月23日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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丸岩城(群馬県)

2019年06月26日 06時48分12秒 | 百名城以外の城
丸岩城まるいわじょう
別名丸屋の要害
構造山城
築城者海野幸全
築城年代元亀年間
指定史跡
場所長野原町横壁  地図

丸岩城は、柳沢城の要害城で大戸方面から侵入する敵に備えて
築かれた砦です。
吾妻峡は険しく通行できなかったため、高崎と信州を結ぶ道は須賀尾峠を使われており、
その街道を見張るために丸岩城と横壁城で抑えていました。


遠望

離れた位置からも目を惹く形をしています。
まさかあんなところに?と思ってしまう形です。



どの方角から見ても、このような格好で見えます。
とても特徴的な形です。


登城口

丸岩の周囲は大岩壁に囲まれているので、この方面にとりつく入口があります。


入口

入口には看板が立っているのですぐわかると思います。


近くに来る用事があったのでまずは登城口の確認にやってきました。
この日はすでに夕暮れでしかも小雨だったので出直すことにしました。

令和元年6月23日登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

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