【榎並城】えなみじょう
【別名】江波城・十七箇所城
【構造】平城
【築城者】三好政長
【築城年代】1532年~1555年(天文年間)
【指定史跡】ー
【場所】大阪府大阪市城東区野江4丁目1−39 地図
榎並城は、榎並壮にある淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つであった。
水路の要衝に位置するだけに水害に悩まされる土地でもありました。
南北朝後期1368年(正平23年)には、楠木正成の子、正儀も在陣したことが伝えられています。
戦国時代には、細川氏の内紛で摂津各所で内乱が頻発し、細川氏に対立する三好長慶が
1549年(天文18年)の柴島城による細川晴賢・三好政長を攻めで榎並城へ敗走させています。
正勝が城内を守っていましたが、江口の里に出陣した政長は、十河一存らに攻められ、
政長は討死、正勝は榎並城を捨てて摂津瓦林城へと逃れました。
城址碑
榎並小学校の校門脇にある城址碑と案内看板です。
城址碑側面には説明も刻まれています。
案内板
猿楽発祥の地と榎並城址のことが描かれた看板が城址碑とともに設置されています。
野江水神社
榎並城を築城している最中にも水害に見舞われ、それを鎮めるために三好政長が守護神として
城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと伝わります。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際には、国家泰平を祈願したとの伝承が残っています。
令和5年7月15日登城
今回の参考本
【別名】江波城・十七箇所城
【構造】平城
【築城者】三好政長
【築城年代】1532年~1555年(天文年間)
【指定史跡】ー
【場所】大阪府大阪市城東区野江4丁目1−39 地図
榎並城は、榎並壮にある淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つであった。
水路の要衝に位置するだけに水害に悩まされる土地でもありました。
南北朝後期1368年(正平23年)には、楠木正成の子、正儀も在陣したことが伝えられています。
戦国時代には、細川氏の内紛で摂津各所で内乱が頻発し、細川氏に対立する三好長慶が
1549年(天文18年)の柴島城による細川晴賢・三好政長を攻めで榎並城へ敗走させています。
正勝が城内を守っていましたが、江口の里に出陣した政長は、十河一存らに攻められ、
政長は討死、正勝は榎並城を捨てて摂津瓦林城へと逃れました。
城址碑
榎並小学校の校門脇にある城址碑と案内看板です。
城址碑側面には説明も刻まれています。
案内板
猿楽発祥の地と榎並城址のことが描かれた看板が城址碑とともに設置されています。
野江水神社
榎並城を築城している最中にも水害に見舞われ、それを鎮めるために三好政長が守護神として
城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと伝わります。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際には、国家泰平を祈願したとの伝承が残っています。
令和5年7月15日登城
今回の参考本