日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「外国へ行き、そこで勉強するということは…」

2014-06-10 09:27:39 | 日本語学校
 曇り。

 曇りですが、怪しい雲行きです。「こいつぁ、降るな」と思わせるような怪しさです。

 空気中の水分が膨れあがって、木々の緑も膨張しているような感じです。一雨来るかな、一雨ならいいけれども、それが長雨になり、突風まで吹き、雷様もお出ましになり…などと考えていると、どうもいけません。お天気が悪いと学生達の出も悪くなってしまうのです。

 さて、学校です。

 今度の日曜日の「日本留学試験」を前に、作文だけは指導を入れずばなるまいと、テーマを決めて書かせてみたのですが。ちなみに、今の「Aクラス」には、漢字圏の学生はいません。殆どが、「ひらがな」か、あるいは、「初級Ⅰ」から始めた学生達です。

 というわけで、もちろん、設問は、まだ読めませんから、一緒に読みながら、意味を取っていきます。けれども、お国や民族、あるいは宗教の違いなどから、日本語の設問に対して思わぬような理解をしてしまうのです。順を追って言いますと、

 まず、設問が読めない。読めても意味が掴めない。意味が掴めたと誤解して書き始めてみても、設問に対する答えになっていない。設問が正しく理解できても、いつの間にか、話題が入れ替わって、自分の書きたいことを書いてしまう…。

 こういうこと(問い)なんて考えたことがないのでしょう。

 まだ、ベトナムの学生やフィリピンの学生達は、自分のことを素直に書き始めるので、いいのですが、スリランカの学生たちは、なかなかそうはいかない。難しい。よほど、自分の国は世界で一番良い国だと、脳に埋め込まれているのでしょう。下手に自分の国の悪いことなどを書いてしまうと、非国民呼ばわりされかねない。「私の国は世界で一番きれいで、外国人が大好きな国です」と、お決まりの文言を重ねておくしかないと、膝頭を叩けば、足がピンと跳ね上がるように、一様にそう書くのです。

 もちろん、全然違うのですが、「私は国のために、すべてをなげうって、尽くします」と、心にもないことを必ず書いてしまう中国人のことを思い出してしまいました。問い詰めると、驚くのです。どうして、そんなことを聞くのかと。これも、小学校、中学校、高校と、そう書くように指導を受け、それが当たり前になってしまい、だれからも文句を言われたことがないからでしょう。

 日本人なら、思っていても、気恥ずかしくて決して言えないせりふです。それで普通、日本人は、こういう文を見ると腹が立ってくるのです。本当のことを言っていない、いつもと全然違うじゃないかと。嘘つきだと思ってしまうのです。特に「現世」、「利益」という言葉の間で踊っているくせにという気がしてたまらなくなるのです。それで、つい、「そんなはずはない。自分のために働くのでしょう。お金が欲しいからでしょう。国のために働くなんて考えたことないでしょう」と言ってしまうのです。

 日本人は、本当に中国人達とは反対の教育を受けてきています(今はどうか判りませんが、「自信」を植えつけられてはいないことは同じような気がしますが)。

 国を出る前、いつも「日本人は島国根性の持ち主だ」という言葉を聞いていました。だから、「気をつけて目を広く見開いていなければならない。自分の国の欠点も長所も、他の国の欠点も長所も、私(わたくし)を入れずに見たり聞いたりしなければならない」と、そんなふうに、子どもの頃から言われていたのです。

 もちろん、学校ばかりではなく、新聞を読んでもそう。テレビなどの有識者の会談でもそう。日本人はこれこれで、いけないから、これこれしておかねばならないと、ことある毎に聞いてきました。

 けれども、外に出てみると、日本人なんてまだまだましな部類なのです。世界にはもっとひどい状態の国が山ほどありました。

 日本人は、架空の、いわゆる「理想」を描いて、それにはまだ至っていないから「これこれしなければならない」と常に言っていたのでしょう。

 しかし、外の世界では、だれも自分のことを、そういうふうに戒めているような国も民もいませんでした。

 小国は小国なりに、唯我独尊としか思えない考え方で、もとより大国は言わずもがなですが。

 もう、今では、私は、自分達のことを島国根性の持ち主だなんて言うのを止めています。この学校に来ている学生達の方が、日本人よりも、ずっとずっと島国根性の持ち主ですし、しかもそれを気づいていないのですから。同国人で少しでもそれに気づいて何か言おうものなら、「(国の欠点を)言うな」とばかりに睨みつけられているくらい。だから、同国人の目を、一番畏れている…ような人も少なくないのです。その中で、「いい人」になりたいのでしょう。そうでなければ、蔭で何をいわれるかわかったもんじゃないのでしょうから。

 こんなんじゃ、作文なんて書けやしません。

 まず、素直に自分を見、それを言ってみることが大切なのです。どの国だって欠点はあります。そしていいところもあるのです。いいところばかり吹いて、だから世界中の国の人は自分の国に来たがるなんて言えば、言えば言うほど、他の国の人から、「へえ、ほんとう?」と、却って馬鹿にされるだけです。

 自分の国を、色眼鏡を付けずに見る(もちろん、難しい。けれども、そうするように努力する。色眼鏡を付けてみているのじゃないかと疑ってみる。そういう態度が大切なのです。だいたい、色眼鏡を全く付けずに見られる人なんて、この世の中にいやしません。もし、いたら、それこそ、人間じゃない)。

 もちろん、彼らの国では、親も学校の教師も、「誇りを持つように」教育してきたのでしょうから、それを急に変えろと言っても無理なこと。それは重々判っているのですが、「本当に自分の国が他の国に劣っているところってないの?知らないの?気がつかないの?」と尋ねたくなってしまいます。

 日本だったら、一度も自分の村(多分、県庁所在地くらいは行っているでしょうが)から出たことがなく、それを聞かれて、「私の村が一番」とほのぼのと笑って答えられたら、皆は、なんと幸せな人なのだと思うことでしょう。だって、日本人だったら、高校生だって、一ヶ月くらいアルバイトをすれば、外国に行けるのですから。

 けれども、彼等は留学生であり、何かを学ぶために来ているのであり、学べば当然のことながら、自国に対する不満が出てくるはずです。出てこないというのは、勉強していないからとしか、言いようがないのですが。

 別にこれは、彼等だけというわけではありません。他の国に行けば、自分の国の良さを改めて認識するということも、当然、あります。けれども、「自分の国は良い国です」で終わってしまい、振り返ることもなければ、なんのために国を出たのか(しかも若いうちに)判らなくなってしまいます。何もしなくとも、出てみるだけでもいいとは言うけれども、それは自然に見えてくることがあろうからという親心であって、それでいいというわけではありません。

 外から見るということは、内にいる時に比べて、客観的に見える部分が、多少なりとも拡がる、深まるはずなのです。その、せっかくの機会を活かせないということは、甚だ、もったいないことなのです。彼等が、これからどこの国へ行くことになろうとも、どういう仕事をすることになろうとも、それは、必ず、生きてくると思うのです。そのためにも、一つ、殻を破って欲しい。本当にそう思います。

日々是好日

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