小雨。
雨だと、なかなか明るくなりません。朝起きでも、日が射していないと、どうも朝という気がしません。面白いですね。「体内時計」のせいなのか、それとも「慣れ」なのか。
さて、学校です。
雨の日は傘の間違いが多いので、今では各教室の前に、傘立てを置いています。以前は入り口の傘立てに皆立てていたのですが、そうなると(帰る時に)間違えて持って帰る人がいて、必ずと言っていいほど、騒ぎになっていたのです。どれが自分のやらわからなくなるのも、同じようなビニール傘ですから、しょうがないといえばしょうがないこと。誰かのせいというわけでもないのでしょうが。
各教室の前だと、その教室の人が忘れたと言うことがわかりますから、「この傘、誰の?」も言いやすい。私たちにとっても彼らにとっても、まあ、その方が都合がいいと言うことになります。
ところで、話はかわりますが、読解」の授業のことです。
だいたい、「初級」が終わり、「中級」に入りますと、嫌でも「読解」が入ってくる。しかも「初級」の時のように、学生たちの状況を斟酌してくれたものというわけでなく、普通の文章なんども入ってきますから、そこで学生たちは途端に立ち尽くすということになる。
「接続詞」や「指示語」は言わずもがな。それに、年が長けてくるとこちらも慣れてきて、だんだん「おおらか」になってくる。最初は「逆接」が捉えられればいいくらいになる。
毎度のことなのですが、「A。しかしB」は「A」がマイナスなら、「B」はプラス。反対に「A」がプラスなら「B」はマイナスと、「初級」で習った二文を飽きることなく言い続け、誰かが悟ってくれるのを待つようになる。そうすると、必ず「そのとき」は来ますから、「いつか」クラスの誰かがそれを言ってくれるようになる。勿論、その「いつか」というのも、クラスによって、速かったり遅かったりするのですが。
ただ、母国で「本を読む」という習慣がある人たちであれば、本当にこれらは蛇足です。
それから、「対比」も繰り返せば、わかってくれるようになりますし、「換言」もそう。ところが、簡単なようでいて、案外「並列」や「累加」に戸惑ってしまう人が少なくないのです。説明もしやすいので、こちらもわかっていると、簡単に思ってしまう。ところが、「問い詰めて」いくと、わかっていなかったりする。
なぜか。そのまま流れていってしまうからなのでしょう。
例えば、「『A』。しかし、『B』。また『C』。その上、『D』」なんてのがあれば、何が何だかわからなくなってしまう。この「また」や「その上」というのは難物ですね。説明に手がかかる。手がかかっても、一応説明した。で、さて、理解できているかというと、多分、できていない。こちらの顔色を見ながら、こう言ったら、先生はホッとするかなくらいの気持ちでわかると言ってくれているよう。
図に描いて説明しても、「ああ、そうか」というのは、悪くすると五分の一くらいだったりする。
以前、ちょっとばかり「読解」が苦手な人たちが揃ったクラスを持ったことがあって、そのときは、「絵」を書いていましたね。状況も「図」では通りが悪いのです。
それを思い出せば、「図」の説明で済んでいるだけましかなどとも思ってしまうのですが…。
一言付け加えて言いますと、学生たちは、皆、普通の能力を持ち、仕事でも親切さでも他の人たちに全く引けをとりません。こちらが作業などを手伝ってもらう時でも、中には一と言えば二も三も勘が働く人たちもいるのです。
そういう人たちでも、慣れないせいか、「読解」の時だけはこちらにため息をつかせる。本当に子供の時から本を読むことの必要性を、毎日のように感じさせられています。
少なくとも、日本では、教科書は日本語で書かれていますし、それを読む習慣もある。本が嫌いでも、教科書は学校教育の間は読まざるを得ませんから。
本当に不公平だなあと感じさせられることも多いのです、こんな仕事をしていますと。
とはいえ、「試験」のためには、この、いわゆる「苦役」を強いざるを得ない。時々、本当に気の毒になるのですが。
日々是好日