昨日(6月24日)
歴史勉強会を行いました。
ついにツアーガイド養成講座が始まりました。
講師は高知県歴史民俗資料館館長の宅間一之様です。
ガイド養成講座には、7名の者で参加しました。もちろん私もその中の1人です。
これからもガイドは募集していきますが、我々も講師先生方から学んで、教えられる立場になって行かなくてはいけません。
それで今回は、ガイドとしての心構えなどを教えて頂きました。
とにかく勝頼に関する知識が必要であり、なおかつ土佐の勝頼をよく知らなくてはならないという事です。
ツアー中には武田勝頼に関する質問も出るでしょうし、何より土佐の場合は、「どうして土佐に?」という問いにも答えられるようにならなくてはいけません。
この問いに答えられる方は現在少数です。
ですが、この問いに答えるべくしての勉強会なので、しっかりやらなきゃです。
館長の宅間さんの話しは大変興味深く、面白いものでした。
現在の歴史の定説というものは、そのほとんどが軍記物を参考に作られたものだが、このほとんどは、家臣によって都合よく作られたもので、疑わしいところが多いという事です。
例えば甲陽軍鑑(こうようぐんかん)に関しても疑わしい所が多すぎると指摘していました。
資料として見つかった文献とは内容が会わない点なども多いという事です。
日記などは、通常は自分に都合が悪い事は書かないという事と同じだということです。なるほど納得できます。
そういう事も有り、現在では科学的な調査などが代頭し、史跡内から木が出てきた場合でも、その木の切られた年月ごろまでが証明できる、という様な、そのような調査も行われて来ているというのです。
私たちの知らないところで、科学技術は進歩してますね
ですので、軍記物を参考にした歴史は現在は大変疑われ、
それに比べて、我々が調査の元にしている史跡郡などは、それを専門家が見た時点で年代や格などが分かり、また系図や地検帳他というものは、事実のみをまとめて簡潔に書く事から、信憑性も高く。
400年も前から所縁(ゆかり)のあるとされる伝統も有り。
物的証拠としての鏡や城跡である大崎八幡宮。系図に出てくる史跡郡との整合性などから、しっかりしていると思いました。
このような事から、歴史が大きく変わりつつある時代であると、宅間館長さんが仰られました。
大崎八幡宮は城である条件を整えた、自然の要害(ようがい)で、城の下の平らな部分で戦いが行われていた場所を土居(どい)といい。
以前までは、この大崎八幡宮の下を土居と呼んでいた事、勝頼が葬られた場所を土居屋敷と呼ぶ事など、ここにも関連が明らかな事から、
大崎八幡宮は間違いなく、城であった。という事です。
館長からは、武田勝頼に関する書籍を3冊も貸して頂いたので、どんどん知識として頭に入れて行きたいと思います。
そうする事で、今までつながらなかったキーワードが分かったり、閃(ひらめ)いたりが多くなるんじゃないかと思う。
勉強会が終わった後は、現在の最新情報などを伝えました。
最近ですが、とても驚くような発見が相次いでおりまして、
実はその事を調べるために忙しくなってきております。
この事は、大体の事が大きく判明した時点で少しづつ公開して行きたいと思っております。
その後は、玄蕃太鼓の練習でした
↓はお弁当コンテストなどイベントの様子です。今後も沢山のイベントを行って行きます。
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