出発数日前、高野山のことを別の女性と話している時に『神谷』という文字がはっきりと見えた。
その言葉の先が特定できていない。
酒殿神社のある地域は「三谷」だった。
それは「神谷」の転嫁かもしれないとよぎったが行ってみてそうではなさそうだと感じた。
ランチを取りながら地図を見ていて「紀伊神谷駅」を見つける。
南海高野線を終点近くまで登ったところにある。
高野山山門まであと一息というところ、国道370号線を途中で外れたらまっすぐ一本。
ここに向かってみよう。
「神谷」の分岐。
分岐の標識が「八坂神社」入口と示している。
何度も高野山には足を運んでいるが、これまで気づいたことはなかった目印だ。
視点が変わると目につくものは変わる。
ウシが存在感を増すまで気に留めなかった各地の八坂神社に、ここでも引っ張られた。
道が細くなっていく。
立派な作りな神社だ。
地域で大事にされているのは空気感に現れる。
神社に由緒の記載はないが、ウェブサイトに載っていて、紀ノ川の八坂神社同様に興味を引く。
これは紀州風土記に記述があるということだ。
〈当神社は、勧請年月等末詳と雖も古来の鎮座にして、當大字の氏神たり、明治6年4月、村社に列せられると記した古書あり。
又、大正の初年社務所火難のため、書類等消滅されたとある。
素戔鳴命は、天照皇大神の弟君で、祇園牛頭天王と申し上げ「祇園さん」として親しまれている。
勤請年月日は、定かではないが、弘仁年間(810―823)弘法大師が各地を修行中この地に来られた折、疫病が蔓延したため、大師が病気除け、農耕の神、歌詠みの神として御神徳のある素戔鳴命をお祀りしたのがはじまりと伝えられている。
さらにこの地では、嵯峨天皇の病気平癒の祈願をされたとの説があり、古来より五穀豊穣のため、毎年8月16日には傘鉾祭り(鬼の舞)が行われている。
又、当社は昔より「御ミクジ石ヲ以テ此ノ軽重ニ依リ願意ノ判断ヲナス信仰アリ(紀伊続風土記)」とあって、現在も近郷稀な神事としてとり行なわれ、遠近を問わず崇敬されている。
又、近年では、神域より湧き出る清水を戴き、病気平癒の御神徳を受けようとする崇敬者が多い。〉
ここは空海が開いている。
金剛峯寺を開いた時期と同じ、弘仁年間(810〜823年)らしい。
京都の八坂神社からの勧請とはされていないのだが、地域名をとって「細川の祇園さん」と呼ばれている。
最澄も空海も似たような時期に紀伊に足を運び八坂神社を開いたのは、ただ単に当時の疫病蔓延が理由だったのだろうか。
なお、彼らが祀ったのは牛頭天王ではなく素戔嗚であると考えてもおかしくはないし、それぞれの記述はそうなっている。
牛頭天王が中世神話のマイナーなヒーローとなっていくのは彼らの時代から200年近く後のことだ。