昨日書いた西暦535年に起きたらしいクラカタウの大噴火。
この噴火がどんな被害を与えたか。
ジャワ島西部には5〜6世紀にカラタンと呼ばれる高度の文明が栄えていたが、6世紀半ば以降に姿を消している。
日本書紀の記述では安閑2年(535年)正月に安閑天皇が「毎年穀物は実り国境に外敵の心配はない。」と平安な時代を示す詔を出している。
それが翌年、安閑天皇の崩御とともに即位した宣化天皇の夏の詔は、「食が天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできない。真珠が一千箱あっても凍えるのを救えない」となっており、大規模な飢饉や気候の寒冷化が起きたことを物語る。
朝鮮半島の食糧不足は日本以上に深刻だったようだ。
「三国史記」によると535年には洪水が起き、同年末には地震に見舞われた。
翌年は疫病が大流行し、広範囲の干ばつが発生した。
欽明天皇元年(540年)に7053世帯の人々が朝鮮半島や中国から渡来し、各地の国郡に配属され戸籍を編成したと日本書紀にはある。
時代から見て飢饉や伝染病を逃れて日本に渡ってきたと言えそうである。
彼らは大陸の最新の技術や文化を伝え、政治にも大きく関わって当時の日本の発展に貢献した。
中国は南北に王朝が並立した南北朝時代。
南朝の歴史書「南史」には、535年の異変が「黄色い塵が雪のように降ってきた」と記載されている。
537年8月には厳しい寒波に見舞われ北東部では降雪があり作物が被害を受け、広い範囲で2年続きの飢饉が発生した。
北部の歴史書「北史」にも530年代半ばの気象異変と飢饉の発生が記録されている。
人口の7〜8割が餓死して人々が人肉を食べていると記録された地域もある。
535年から550年の15年間は中国史の中で災害の集中した15年間だ。
東ローマ帝国では歴史家プロコピオスが「日光は一年中、輝きを失って月のようになりきわめて恐ろしい前兆だ」と「戦史」に記述している。
コンスタンティノポリスの大司教は「太陽が暗くなり毎日4時間くらいしか照らなかった。その暗さが一年半も続いた。」と「説教史」に書いている。
この異常寒波で、帝国内の農耕民族であるスラブ系民族が略奪に走っている。
536〜559年に「スラブ系民族がドナウ川の国境地帯に大挙して攻め込んで略奪のかぎりを尽くし、ローマ人を大量に奴隷にした」と前述の「戦史」にはある。
541年以降、帝国内では4度に渡ってペストが大流行した。
紀元前2世紀ごろにメキシコ高地に誕生した古代文明のテオティワカンは6世紀半ばに突如衰退を始める。
カリフォルニア州で集められた年輪のサンプル分析では535年〜550年代末まで年輪幅が極端に狭く、ほぼ20年に渡って寒冷化や乾燥化が続いたことがわかる。
テオティワカンから東に800キロほど離れたユカタン半島の発掘調査では、6世紀中期から20年〜50年以上も続いたと見られる干ばつの証拠がある。
南米のチリ、コロンビア、ペルーでも、この時期の異常気象の存在が年輪や地層から判断できる。
(参考:「歴史を変えた火山噴火」石弘之 著)