友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

井戸掘りの難しさ

2008年10月25日 19時12分19秒 | Weblog
 疲れた。腕も肩も腰も、からだ全体が痛い。今日は朝から井戸掘りだった。1メートルも掘らないのに、穴の底に水が湧き出してくるのが確認できた。余りにも順調な出だしに、これならうまくいくだろうとみんながそう思った。ところが、4メートルほど掘ったところで硬いものにぶち当たった。引き抜いて何度か挑戦するが、その手ごたえから「石」があると思った。ベテランが筒を引き抜き、打ち込むがその撥ね返りの音から、どう考えても「石」に当たったようだ。

 「もう一度場所を変えて掘り直す」とベテランの判断が下る。再度掘り直すなら、5メートル以上は離れていた方がいいような気がしたが、依頼主は最初の位置からわずか1メートルほどのところを指示したので、運良く行きますようにと祈る気持ちで再挑戦した。こちらも4メートルほどのところで硬いものにぶち当たった。最初と違うのは、「石」のような強い撥ね返りがないことだった。撥ね返りがないのに、ガンとして掘削が進まない。

 鉄製の槍のようなものを突き刺して、石を砕いてみようとしたけれど、突き刺さした鉄製の槍のようなものが抜けてこない。やっとの思いで引き抜いて、これを繰り返してみようとなったが、思いっきり突き刺せば、どんなことをしても抜けない。腕や肩や腰が張ったのはこのためだ。一体何にぶち当たったのかと、鉄製の槍のようなものを抜いてみると、ネズミ色をした粘土がくっついてきた。おそらく推測だが、この粘土層は長い間の堆積で岩のように硬く固まっているのではないだろうか。

 朝9時から初めて、途中昼食は取ったけれど、午後4時まで、「エイヤ、コラヤ」と力を振り絞ったけれど、結局井戸を掘り当てることはできなかった。目的が達成されない労働は、必要以上に疲れる。同じことをやっていても、これできれいな水がどんどん出てきたなら、疲れたなどという感覚を忘れてしまうだろう。誠に人間は想像力の生き物だ。楽しいことならば、つらいことなど苦にならないのに、うまくいかなかったばかりに疲れも何倍にもなってしまう。

 さてどうするか、ベテランは「このまましばらく様子を見よう」と言う。粘土質の岩ならば、こうして水を流し込んでおいたなら、溶けていく場合もあるというのだ。そのためには時間をおいた方が良いというわけである。火曜日に再度挑戦してみて、どうしても掘り進めないようならば、別の場所を考えみるべきだろう。しかし考えてみれば、粘土質の岩盤が続いているということは、その地層の下の水は汚れのない、良質な水であるはずだ。

 なんとしてもその下の水脈を掘り当てたいと思う。そうすれば今日の疲れも吹っ飛ぶであろう。
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