mimi-fuku通信

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「まるごとカラヤン」 ~mimifuku的評説(その2)。

2008-04-11 18:33:53 | クラシック・吹奏楽


http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/c45fbc2a147f38dd5c9e048829dd5fee
 ←のつづき。

 カラヤンの映像作品について、もう少し考えてみたい。
 カラヤン作るの映像の特異性は、楽団員の表情が映しだされないこと。
 過去のいくつかのオーケストラの映像作品を取り出して見てみたが、我が家にある一番古い映像は、ストコフスキーの映画「オーケストラの少女」。
 この映画の冒頭に、チャイコフスキーの交響曲第5番の終楽章が演奏されているが、1937年のアメリカ映像の凄さを感じさせる内容。
 演奏シーンの多くは、端整なストコフスキーの映像が多いが、曲のラスト1分。
 目まぐるしく、演奏する楽団員の姿が映し出される映像は圧巻。
 昭和12年のアメリカの文化水準の高さやストコフスキー独特のオーケストレーションは、音声も良く、カメラ・アングルも現代の水準と比べて、違和感がない。
 現在収録される、放送用のオーケストラ映像の原点は、この作品周辺にあるのだろうか?

 カラヤンの映像の中で、「まるごとカラヤン」第一部で紹介された、シューマンの交響曲第4番は、1965年の映像。
 この作品は、フランスの映画監督、アンリ・ジョルジョ・クルーゾ監督との共同制作。
 クルーゾ監督と言えば、イブ・モンタンの名作映画「恐怖の報酬」のメガホンを取ったことで著名な映像作家。
 (この映画は、カンヌ、ベルリンでの、映画賞を受賞している。1953年作品)

 この映像と、「まるごとカラヤン」第2部で放送された、<3つの映像>の大きな違いは、団員の扱い。
 ウィーン交響楽団の団員は、時には猫背で姿勢が悪かったり、楽器の配置が不揃いだったり(意図しなければ当たり前のことだが。)、現代の映像と似通った楽団員のスナップ的な映像が挿入され、自然な姿で人間を映し出している。

 それと比較するとカラヤンの映像は、カラヤンを取り巻くバイオリニスト達の映像以外は楽器を映し出すことに映像の焦点が絞れてており、演奏する奏者達の立居振舞いは、厳格な紳士の世界。
 映像の7割は、カラヤンかバイオリン奏者の動きが映し出され、残りの3割が、他の弦楽器や木管、金管楽器が時折映る程度に押さえられている。
 特に私が注目したのが木管楽器の10本の指使いが、ハッキリと確認されること。
 
この映像から推測するにカラヤンは、器楽演奏者を目指す若者達に対して、楽器演奏のテキスト的な意図があったとする見方が可能ならば、この映像スタイルには無駄がないことに気付くはずだ。

 「まるごとカラヤン」第3部に、ベートーヴェンの<田園シンフォニー>の映像の一部が放送されたが、特異に見えるこの映像も、標題音楽として子供向きの映像をカラヤンなりに意識したと考えれば、それほど非難する必要も無いように思う。
 (ディズニーの映画「ファンタジア」の中で、<田園シンフォニー>が、ストコフスキーの録音で、22分間に渡って演奏されるが、子供達にクラシック音楽の感動を伝えようとする啓蒙行動(芸術文化の育成)は、健全な教育には必要なことと思い、大人の目のみで捉える芸術批評の偏った見方と論法にも変化や順応性を持つべきと考えるし、なにより視点を絶えず変化させて順応力を高めることが、正しい芸術批評につながると信じている。ちなみに映画「ファンタジア」は、1940年(昭和15年)の作品で、驚くことにステレオ録音で記録されている。これは、映画フィルムの光学録音が適用され、9チャンネルのステレオ録音。アメリカ初公開の時は、映写機9台を同時に動かしシンクロ再生された。)

 しかし、カラヤンの映像に対する多くの方々の拒否反応を冷静に解読すると、映像の中に人間として扱われているのは、カラヤンだけで(それも神々しく)、その他の楽団員は楽器、あるいは道具としての扱いを受けていることにあるのであろう。
 
 この映像を見た楽団員の家族や知人の気持ちや反応に配慮すれば、こんな失礼な映像制作は通常の常識では考えにくい。
 ただし、音楽を映像として伝える手段として、人は道具に徹することが、カラヤンにとって最良の方法と考えたのだろうし、それは映像監督としての(決して放送用の当たり障りの無い映像とは異なる)美意識の徹底は、カラヤンも、黒澤も、ビスコンティやキューブリックも、至る姿勢は同じものなのだろう。

 特異性を否定することは簡単だが、芸術の世界において、見ただけで「その人!」が分かることは肝要なことで、この映像が否定され続ける限りは、カラヤンの打ち出した特異性の意味を持ち、違った時代には(強力な指導者を必要とする様な時代等)、こうした映像表現が、別の形で顔を覗かせるかも知れない。

 人の存在を感じさせない人工的な美の世界。
 人間を型の中に嵌め込むことで成立させたカラヤンの映像表現は、自由を謳歌する現代社会の中で奇異に映ることは当然で、しかし、その奇異の本質を明らかにせず、生理的に受け付けないと否定する批評は的を得たものには成り得ない。
 (正直私も、いつも同じ語り口の映像には困惑しているが・・・。)


 シューマンの交響曲第4番のリハーサル風景でのカラヤンを見て感じたことは、音楽の求道者の徹底した合理性。
 リハーサルの指示に迷いが無く、次から次へと矢継ぎ早に自分の頭の中で出来上がっている音楽を実現させていく作業は、どのような能力のオーケストラであろうと、理想とする音楽要求はまったく同じで、付いてこれるか、付いてこれないかの差だけなのだろうと感じた。

 また、第4楽章の最終部分(コーダ)の指示に、

 「最後に大きく盛り上がり、ニ長調に到達する部分だが、高まりが充分なのに頂点に達した途端、弱くなった。皆様に言っておくが、目的地こそ強調すべきで、頂点なき高揚は無意味だ。」
 
 いつの時代でも、いくつになっても、高い理想に従順だった、音楽の求道者57歳の時の言葉は、人生の指標になりうる。

                       ~たぶん、つづく。

 

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