銅版画制作の日々

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チェ★39歳の別れの手紙レビュー

2009-02-25 | 映画:シネコン

 CHE PARTIE 2

いよいよ後半です。ベニチオ・デル・トロ、益々ゲバラに近づいていくような気がします。パート2は、ボリビアでのチェ・ゲバラの活動が描かれています。後半の作品の方が何かしら食い入るように観てしまいました。タイトルからも分かるように、彼の最期がこのような感じだったのですね。それにしても39歳で散って行くのはあまりにも忍びないよなあ・・・・。

チェ語録

革命とは、戦うことだけではない。読み書きを学び、知識を持たずして、革命は成り立たない。そういい続けたチェ・ゲバラは革命家であると同時に、詩や文学を愛する文化人だった。ゲリラ活動中も常に書物を持ち歩き、そして自ら多くの詩や手紙を記した。

「もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と」

「革命においては、勝利か、さもなければ死しかない」

「酒は飲まない。タバコは吸う。女を好きにならないくらいなら、男をやめる。
だからといって、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を最後までまっとうできないならば、僕は革命家であることをやめる」

「勝利まで、いつまでも前進を。祖国をさもなければ死を。革命家としての熱き思いをこめて、せいいっぱいきみを抱きしめよう」

「甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は大いなる愛情に導かれている。愛のない本物の革命家なんて、考えられない」

どこまでも、見果てぬ夢と理想に突き進んだ吟遊詩人的なゲバラだったのかもしれませんね。革命家として全うした本物の革命家なのでしょう。勝利か?死か?なんて覚悟しなきゃ、ここまで言えないよね。わあ~!!凄い~~。

物語

1965年10月3日、カストロ率いるキューバ社会主義革命一党がキューバ共産党へと改組しその発足式の日、本来ならば当然中央委員席に座っている筈のチェの姿は会場のどこにもなかった。既にその年の3月、ゲバラはサトウキビ農場の視察に行くと告げて出かけたまま行方不明となっていた。噂では、カストロとの不仲説まで取りざたされる始末。高まる説明を求める声に応えて、カストロは4月1日付のカストロ宛のゲバラのを読み上げた。

フィデル

私は今 多くを思い出している

マリアの家で君と出会ったこと
革命戦争に誘われたこと
準備期間の あの緊張の日々
死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時ーーーー
死の現実を突きつけられ慄然とした
後に それは真実だと知った
真の革命であれば
勝利か死しかないのだ

私はキューバ革命でーーー
私に課せられた義務の一部は果たしたと思う

だから別れを告げる
同志と 君の人民に

私は党指導部での地位を正式に放棄する
大臣の地位も
司令官の地位も
キューバの市民権も

今 世界の他の国々がーーーー
私の ささやかな助力を求めている
君はキューバの責任者だからできないが
私にはできる

別れの時が来たのだ

もし私が異国の空の下で死を迎えてもーーー
最後の想いはキューバ人民に向かうだろう
とりわけ君に

1965年10月3日キューバ共産党発足式でカストロに読み上げたれたチェ・ゲバラの手紙

新たな戦場へ旅立とうするゲバラの決意をキューバへの溢れるばかりの愛情とともに吐露した内容だった。かってコンゴや南米の圧政を指弾したゲバラは、今またその言葉を実戦して証明しようとしていた。

66年、コンゴでの闘争から撤退したゲバラは、密かにキューバに一時帰国し、変装してラモンと名乗って妻のアレイダや4人の子どもたちと再会した。それがゲバラが過ごした家族との最後の時間となった。


11月3日、ゲバラはOAS(米州機構)の特使と偽り、ボリビアのラ・パス空港に降り立った。何とカツラをつけたおっちゃんに変装していた。

彼はゲリラたちを一人前の革命戦士にするための訓練という腹づもりだった。拠点となる農家は先んじて手配してあったが、ゲリラ戦士の志願者たちは指揮官がゲバラと知って感激した!既にゲバラは伝説的な存在になっていたのだ。

ところが早々にゲバラの目論見は崩れ始めた。支援を当てにしていたボリビア共産党の第一書記モンへ(ルー・ダイアモンド・フィリップス )が武装闘争路線に及び腰になっており、モンへは外国人のゲバラは、民衆の支持は得られないと主張。

 モンへ

ボリビアの建国者シモン・ボリバルも外国人だとゲバラは指摘したが、ソ連の意向故か?個人的な野心の故なのか?モンへは頑に武装闘争を拒否続けた。

共産党の支援が得られないまま、ゲバラは訓練を開始した。厳しい訓練に耐えかね脱走するものも現れ、彼らから政府軍にゲリラ部隊の情報が漏れていった。

ゲバラは一隊を率いて南に行軍を開始、ゲバラは都市での工作のため送り込んでいた諜報員のタニア(フランカ・ポテンテ )やフランス人、レジス・ドブレがゲバラの隊に加わった。ゲバラはドブレにボリビア解放運動への国際的支援網を組織するように、バートランド・ラッセルやジャン=ポール・サルトルの名を挙げて頼んだ。だが、ドブレは帰途政府軍に逮捕・抑留され、ボリビア政府は世界中から非難されることになる。

 タニア

3月、まだ訓練中だったゲバラの部隊は政府軍と遭遇、大勝利をおさめることになった。だがこの勝利は結果的にゲバラの悲劇を招く遠因となった。次第に力をつけていくゲリラ軍の実力を見せつけられたバリエントス政権は、アメリカの全面的支援のもと、軍の対ゲリラ態勢を急速に充実させていったのだ。アメリカは爆撃機等の兵器のみならず、ベトナムでゲリラ戦のノウハウを身につけた軍事顧問団を派遣し、ボリビア軍内部に対ゲリラ用特殊部隊の育成を進めた。

 バリエントス大統領(ヨアキム・デ・アルメイダ

キューバ革命の成功を他の国で許してはならない!それはアメリカの世界戦略であり、バティスタの失敗はカストロを殺せるときに殺さなかったことだとうそぶくバリエントス政権の至上命題でもあった。


一方、第二、第三のベトナムを!のスローガンを掲げたゲバラは、緒戦の勝利にも関わらず、山中で苦闘を続けていた。食料や医薬品の不足は兵士たちの士気を次第に蝕み、ゲバラ自身も喘息に苦しめられていた。

頼みの住民たちは悲惨な状況におかれながら、バリエントス政権の政策に甘んじ、ゲリラ部隊によそよそしい態度を崩さなかった。

また悪いことにゲバラたちはホアキンを指揮官とする隊と離れ離れになり、連絡の取れないまま分断状況におかれてしまった。員数の少ないゲリラ部隊に取ってこれは致命的だった。

政府軍は攻勢に転じた。ゲバラは炭坑労働者たちとの共闘も視野にいれていたが、政府軍はストに立ちはだかったシグロ・ペインテ鉱山の労働者に対して武力を投入、容赦なく虐殺を行った。さらにゲバラ隊との合流を目指してリオ・グランデ川に到着したホアキン隊に襲いかかり、タニアを含む全員を殲滅した。

今や、ゲバラ隊は孤立無援の状態に陥っていた。負傷兵や病人を抱え、その歩も遅々としたものになっていた。

1967年10月8日、ユロ渓谷でゲバラ隊は政府軍の攻撃を受けた。ゲバラは足に銃弾を受けながらなお、抗戦を続けたが、遂に囚われの身となってしまい、イゲラ村へと運ばれた。そして翌9日、最高司令部からの命令でゲバラの処刑が決まった。

 囚われの身となったゲバラの姿。死を覚悟はしていたのだろう。

ボリビアへ潜入してから341日目、チェ・ゲバラは革命に殉じ、その39歳の生涯を閉じた・・・・。

 

ソダーバーグ監督とデル・トロ。撮影での打ち合わせ風景

 

そしてゲバラは4人のこどもたちにこのような手紙を送っている。

この手紙を読まねばならないとき、
お父さんはそばにいられないでしょう。
世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、
いたみを感じることができるようになりなさい。
これが革命家において、最も美しい資質です。
子供たちよ、いつまでもお前たちに会いたいと思っている。
だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。

お父さんより

(チェ・ゲバラ 1965年 子供たちへの最後の手紙)

 

ゲバラとボリビアの子供たち。父としてのゲバラの優しさが見えているようだ。革命家であり、詩人であり、4人の子供たちを愛する大きな人だった。そして最後まで戦った勇敢な戦士なんだね。

アメリカという国は罪深き国ですよね。そんなアメリカ生まれのソダーバーグ監督が製作したこの作品。忠実にありのまま再現したこの「CHEシリーズ」、どこかアメリカという国への政治的メッセージなのかも・・・・・。

 

 スティーヴン・ソダーバーグ監督、そうですか?

 

皆さん勢ぞろいです。

 

オフィシャル・サイト
http://che.gyao.jp/

※友情出演で、マット・デイモンが出演。ほんの少しだけですが・・・・。

 

 

 

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1 Comments

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アメリカの (sakurai)
2009-02-25 15:17:13
共産主義に対するアレルギーと言うのは、半端じゃなかったですからね。
知り合いになったアメリカ人が「コミュニストはだめ、とにかくだめ」と繰り返すもので、「コミュニストの何がだめなの?」って聞いたら、コミュニスト、共産主義の中身は何も知りませんでした。
とにかくこれはだめなもの!と頭ごなしで、「中身はこういうことだ」と教えたら、「えーー!」とびっくりしてましたね。
何かやっつけるもの、国をひとつにまとめる恐怖の総和が共産主義・・・だと思い込んでたときの象徴だったのかもしれませんね。
そして、うまく利用されたのかもです。
今も生きてたら、今の世界をどう思うのか、聞きたいところです。
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