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東京都写真美術館

2014年10月21日 | サ行
資生堂名誉会長・福原義春

 私は、経営者として企業組織を動かすとともに、個人として非営利組織や公益法人の運営に関わってきた。さらに2000年には、公立美術館の館長として、公務員集団を率いる機会を得た。

 東京・恵比寿に、東京都写真美術館がある。1990年に開館した、日本では数少ない写真と映像専門の美術館だ。しかし、3代目館長の徳聞康快氏が逝去した後は館長不在の状態で、廃止が取りざたされたことさえあるという。

 その活性化のために、私は2000年に館長職を拝命した。当時の石原慎太郎都知事は、依頼に戸惑う私を誘って自ら館を案内し、ひとまわりすると、「もういやとは言わないだろうね」とほほ笑んだ。

 当時、公立文化施設の長に民間の経営者を据えることが一種のはやりだった。民間の手法で官僚組織を変革することが狙いだったのであろう。

 はたして就任してみると、設備や収蔵作品以上に、組織と館員の発想の硬直化に問題があると感じた。しかし、さらに観察してみると、個々は優秀で意欲もあり、見習うべきところも多かった。民が良くて官が悪いという単純な問題ではないとわかったので、さまざまな試みに着手した。

 まずは、ピラミッド型縦割り組織の弊害である情報伝達の遅さと不正確さをなんとかしようとした。問題を見つけると、館長の私から、学芸員や受付スタッフら現場の担当者に、直接電話やファクスで連絡した。上意下達の指揮系統しか知らない館員にとって、このやり方は、いわば劇薬であった。いきなり館長から連絡を受けた館員は、驚いて同僚や上司や副館長に相談し、結果的に私のビジョンは迅速かつ正確に全員に伝わるようになった。

 次に、年間入館者数という明確な目標で意識改革を図った。私の就任した年の入館者は約22万人だったが、それを30万人にするという目標を掲げた。多くの館員は到底無理だと反対したが、ビジョンが浸透すると、「ではそのために何をするか」という発想に変わった。学芸員から警備スタッフに至るまで、優れた企画、来館者のもてなしなど、アイデアを次々と出し合って実行するようになった。

 年間入場者30万人という目標は2002年度に達成し、今ではコンスタントに40万人を超えるようになった。

 財政難のために、東京都からの予算が半減する中での健闘が話題になった。しかし、これらはすべて館員の努力のたまものだ。私は単純に民の手法を官に押し付けたのではなく、官と民のいいところを見据えてビジョンを掲げ、モチベーションを高める手助けをしたにすぎない。

 開館からおよそ四半世紀が経った美術館は、〔2014年〕9月24日から2年弱の予定で大規模改修工事に入る。長い休館で皆さまにはご迷惑をおかけするが、さらに良い美術館に生まれ変わることをご期待いただき、ご容赦いただきたい。
     (朝日be、2014年08月30日)
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