犬養万葉今昔―犬養孝先生著「万葉の旅」を訪ねて

犬養孝先生名著「万葉の旅」記載の万葉故地309箇所を訪ね、先生が撮られれたのと同じ場所に立った写真撮影を目指す紀行。

★万葉故地完全踏破から揮毫歌碑全探訪へ

2008年08月11日 | 紀行アラカルト
■浦の浜木綿
紺碧の海広がる岩礁の浜
黒潮踊る熊野灘に面する小島
孔島
そこは浜木綿の野生群落地
久方ぶりにその浜に立っている
あれから何年になるのだろう
・・・・・・・・・
大学生になった初めての夏
万葉旅行
犬養孝先生引率の文学旅行だ
歌は心の音楽
人の心を歌で表現したものだ
歌は詠まれた土地を抜きにしては考えられない
現地に立ってみて 
実景を目の当たりにして 
はじめて歌の心がわかる
教室での講義もさることながら 
現地での先生の話は 真の心の糧となってゆく
あのときの孔島は 
陸続きではなかったのでは
護岸もなく 
浜の岩礁に打ち寄せる荒波は 白い歯を見せていた
あのときも 浜木綿の群落はあった
幾重にも重なった 肉厚の緑の葉
一種妖艶とも見える 白い幾筋もの花弁
紺碧の海と 青い空に 緑の葉と 白い花

人麻呂は詠う
    み熊野の 浦の浜木綿 百重なす
         心は思へど 直に逢はぬかも

(熊野灘の海辺の浜木綿の葉は幾重にも重なっている その葉が重なるように私の心はずっとずっとあなたを思っているが 直には逢えないのだ)

■「万葉の旅」を訪ねて・その後
大学時代の恩師である犬養孝先生の足跡を追って、その名著「万葉の旅」掲載の万葉故地を訪ね、同書記載の写真を、同じ場所・同じアングル・同じ雰囲気で撮影し、ついに309ヶ所のすべてを完全踏破したのは、昨年8月25日。
そのいきさつ、経過については、昨年11月14日付け日本経済新聞文化面に掲載された記事に述べた通りである。【日経記事へ】
その後、
・踏破写真を整理編集したものを「犬養万葉記念館」に寄贈
・東京での犬養先生生誕100年記念展にて写真集の展示
・リーガロイヤルホテル(大阪)での、リーガクラブ「全国309ヶ所完全踏破 ―「万葉の旅」を訪ねて」の講演
あたかも、経済人をやめて文化人になったかの如き日々が続いていた。


■揮毫歌碑を訪ねての旅へ
犬養先生が揮毫された歌碑は、全国で136基。その全貌は、先生の愛弟子山内英正氏の著書「犬養先生揮毫の万葉歌碑探訪」に詳しい。
これを片手に、歌碑写真を撮りに行こう。
歌碑は、明日香村を中心に多くあるが、遠くは埼玉・群馬、長崎唐津・五島列島に及ぶ。
さいわい、「万葉の旅」を訪ねての折に撮影したのがあるが、故地と歌碑立地は同じとは限らない。
万葉故地は歌の作者との結びつきが当然であり、1300年前の作歌場所ないし生活密着箇所である。
これに対し、歌碑は歌読みの場所での建立もあるものの、建立想起者と犬養先生の人的関係に基づく地点に建てられることがあるからである。
あらためての探訪紀行が始まった。

■第1号歌碑
先生揮毫の1号歌碑は、万葉のメッカ・甘樫丘。東よりの登り道の中腹、丁度飛鳥古都の集落が見下ろせる木陰にある。
「万葉は、その地の息吹の中にあってこそのもの」「人間が手を加えた歌碑などを建てることは、どうか」と、先生は頑なに固辞されたと聞く。
しかし、おりから巻き起こりつつある宅地開発の波、その荒波の明日香への押し寄せ、甘樫丘でのホテル建設の話。
「明日香を、万葉の故地を守るきっかけとなれば」と承諾され、歌碑建立となった
     采女の 袖吹き返す 明日香風
          都を遠み いたづらに吹く

(女官の袖を吹き返していた ここ明日香の風 都変わりで荒れ果て 簫々と吹いている)

明日香に古都保存法が適用されたのには、ここ甘樫丘で、犬養先生が、時の総理佐藤栄作に万葉故地保存の大切さを説かれたのが、その一助となったと聞く。
また、昭和天皇も明日香に見えられ、同じ甘樫丘で古代の息吹を醸し出す風物・景観の素晴らしさを実体験され、犬養節を聞かれた。
あれから幾星霜。いま、歌碑は、明日香を愛する人々の訪れを静かに見守っている。

■最新歌碑
先生が亡くなられて、今年で10年になる。その後も先生揮毫歌碑の建立は続いており、今年3月23日に最新歌碑(136基目)が誕生した。
場所は、福岡県嘉穂郡桂川町。田園風景が広がる王塚装飾古墳のかたわら。ま新しい歌碑が誇らしげに建っている。
筑紫歌壇で大伴旅人とともにあった山上憶良の官庁があった嘉麻・穂波の文化興隆の一環として建てられたものだ。先生を慕う全国の人々。大勢の人が犬養万葉の世界を伝えていこうという動きに励んでおられる。
     道の辺の 草深百合の 花笑みに
          笑ましがからに 妻といふべしや

(わたしがちょっと笑顔を見せたからと言って 妻にしたなんて言っては だめよ)

■歌碑探訪最終行
7月11・12日と神集島(かしわじま)に行った。
ここは、神功皇后の昔、三韓征伐に向かう折、神々を集めて戦勝を祈願したとして知られる伝説の島だ。万葉時代には遣新羅使が舟泊まりし、望郷の念堪えやらず詠った歌が残されている。周囲8キロ余りの島のしかるべき個所に、その歌七つの歌碑がある。唐津湾の西北、東松浦半島、湊~神集島の連絡船。ひなびた島影での旅のひととき。
      足らし比売 御船泊てけむ 松浦の海
            妹が待つべき 月は経につつ

(神功皇后の船が停泊したという松浦の海<そのマツといえば>帰るのを待っているであろう妻の月日が長くなっていることだ)

・・・・・・・・・・
そして、最後の訪問歌碑。それが、冒頭の「浦の浜木綿」だ。平成20年7月18日。
はからずも、最初の万葉旅行での訪問地、夏の孔島で最終行を迎えた。


・・・・・・・・・・
先生との出会い、万葉への思い、青春の日々、すべてが、ここから始まった。



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★万葉歌・みじかものがたり

2008年01月06日 | 紀行アラカルト
あらたしき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや吉事よごと

【因幡の雪】


あけて  天平宝字三年(759)正月
昨夜ゆうべからの雪が 見事に積もった
新春の朝日に えている
家持は 憂鬱ゆううつであった
(もう我々の時代は終わったのか 
大伴はこの国では 
 用のない氏族に成り下がったのか 
金村・狭手彦さでひこ以来の
   もののふの大伴氏は 
     どこへ行ったのか 
 ひな国守こくしゅごときに 留まってなるものか)
あらたしき春を迎えたというのに
 出てくるのは  ぐちばかり
憂憤ゆうふんを押し殺して 新年の朝賀に臨む
賀を済ませてのうたげ
一族並びに郡司ぐんじの面々が居並ぶ
みの国守 家持の計らい
宴は  歌会で始まる
それぞれが 
  旧年の内に精進した 
     われこそはを披露する 
いずれの歌も 
 新年の迎えを寿ことほぐものだ
朗々たる歌声の響くなか 
 家持は推敲を重ねていた 
順はめぐ
   最後に  国守家持が歌う
列する人々は 
  緊張のうちに耳をそば立てる 

あらたしき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや吉事よごと
《新年と 立春はつはる重なり 雪までも こんなえこと ますます積もれ》
―大伴家持―(巻二十・四五一六) 

年始に立春の重なるめでたさ  
新雪の清らかさ 
降る雪を思わせる「の」の繰り返し 
ますます積み重なれと吉事よごとの寿ぎ
歌心のみごとさ 
「吉事」と言い止めた余韻 
座に 
 感嘆のどよめきが  静かに広がった

ひとり家持は 鬱然うつぜんたる思いでいた
(あらまほし吉事 か・・・) 
歌わぬ人  家持の始まりであった
世は  藤原仲麻呂専横へと向かう


★三穂の石室ーとうとう洞窟にたどり着いたぞ

2007年10月07日 | 紀行アラカルト
ただ一つ現場にたどり着けなかった懸案
「三穂の石室」

村瀬憲夫先生の教えに従い 三度目の挑戦
神社の東方向からのアプローチという
しかし
取り付く道が無い 藪道は途中で消える
無理に登ると 先は断崖
土地の人に聞くも
 「道はあったがなぁ 行けないか分からんよ」
あきらめかけ 戻ろうとしたが
たまたま逢った 農作業の人
 「うちの畑の先に道がある」
 「上り下りはあるが 何とか道は通じている」
力を得て 道を辿る
身の丈を越す藪 綱を頼りの崖道 崩れる岩肌
やっと開けた 下方に 岩石累々の海岸
大小の岩をたどって 右方に岩の狭間を発見
「洞窟だ 石室だ 三穂の石室(いわや)だ」

石室の中へ
黙然たる岩屋 かなり大きい 
 間口6m 奥行12~3m
 高さは 10mはあろうか
洞窟の中から 三尾の海を見る
岩打つ波 石室に響く
ドドン ドドドーン これぞ百雷
ここに 本当に若子が棲んでいたのだろうか

入り口の岩に小さな松が根を張っていた


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★にぎし川ー清き瀬 いまも

2007年09月20日 | 紀行アラカルト
仁岸川。
石川県門前町剱地(つるぎぢ)にある。
金沢から特急バスで2時間。
自宅からだと特急雷鳥で約6時間。
接続可能なバスは2便。
近くに万葉故地はなく、
これはもう泊まらざるを得ない。

妹に逢わず 久しくなりぬ にぎしかは
       清き瀬ごとに 水占(みずうら)はへてな

(家持は 単身赴任で越中に来ているため 妻を都に置いてきている)
<お前に逢わず久しいが にぎし川の水が清らかなので
 無事かどうか 水占いしてみよう>

今も 清い水の流れる川である。

護岸工事がなされて「きれいになりましたネ」
と川沿いの家のおばあさんに声をかけた。
「いいや 工事前は みんな川掃除をしたが
いまは 誰もしなくなって 草は茂る ごみは引っかかる
かえって 汚れてしまいました」

家持が見たのは もっともっと清い流れだったのだ。

河口にある歌碑。なんとなく趣がある。
 

<紀行今昔>にぎし川へ
<紀行今昔>福井・石川へ



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★あぢま野ー引き裂かれた恋ゆえに

2007年09月16日 | 紀行アラカルト
中臣宅守(なかとみのやかもり)と 狭野茅上娘子(さののちがみのおとめご)。
天平10年ころ 政争に巻き込まれた宅守は あぢま野に配流。
都に残された娘子。
二人の間に交わされた恋慕の歌63首。

味真野苑に先生揮毫の歌碑がある。
二つの歌碑は せせらぎを挟んで少し離れて向き合っている。
仲を裂かれても 思いを交わしあっている 風情(ふぜい)だ。


君がゆく 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも(娘子)
<あなたの流されて行く長い道を手繰り寄せて焼いてしまいたい!天の火が欲しい!>



塵泥(ちりひぢ)の 数にもあらぬ 吾ゆえに 思いわぶらむ 妹がかなしき(宅守)
<塵や泥のような私なのに心配してくれるあなたがいる 泣けてくるなぁ>

<紀行今昔>あぢま野へ
<紀行今昔>福井・石川へ



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★完全踏破:自分へのご褒美

2007年08月29日 | 紀行アラカルト
やはり 野におけ れんげそう

平成19年8月25日
能登、「珠洲の海」を掉尾(とうび)に
「万葉の旅」を訪ねる旅は 完全踏破となった。
自分へのご褒美は せっかく能登まで来たのだからと 決めていた。

「旅亭万葉」


犬養先生の歌碑が 庭に 三基ある旅館だ。
先生の教え子で「万葉の道」の著者 扇野聖史氏ゆかりの旅館だ。
”ひとり宿泊”の困難が予想される。
予約に先立って 万葉紀行の趣旨・「満願ご褒美」の旨
お知らせのFAXを 送信した。
電話では まどろっこしくて 趣旨不伝達の虞を 思ったからである。
「そうゆうことなら」と快諾。

譲り受けたままの施設で 手は加えられていないとのこと。
2000坪の敷地に 数奇屋風の建物。客室数10。
「贅を尽くした」
とは このことか。

黄昏(たそがれ)が迫っていた。
旅装そのままに 歌碑を訪問。
一基は 枯山水の中庭の築山に
犬養先生の揮毫歌。
「たくぶすま 白山風の 寝なへども
      児ろがおそきの あろころ良しも」
配置といい 歌碑の色合いといい 周囲との溶け込み具合といい 申し分なし。

あとの二基は 貴賓室にあるとか。
とくべつに お願いして 通して頂く。
部屋の 東から南にかけて 池を廻らせた 回遊式の大庭園。
南庭の池に架けられた 石橋の傍らに 能登島の歌碑。
「とぶさ立て 舟木伐るといふ 能登の島山
      今日見れば 木立繁しも 幾代神さびそ」

東の庭の池の 中島に 机の島の歌碑。
「鹿島嶺の 机の島の 小螺(しただみ)を・・・・・・」

静寂の中に 凛とした佇まい。
すこし気取って見えたのは 貴賓室と聞かされた精か。

あとで分かったのは 貴賓室は「頭取用の部屋」だったとのこと。
はたして こんな贅沢な部屋に 泊まるの人はどれほどあるのだろうか。
宿泊者があるときは 他の客は 歌碑を見られるのか。

歌碑よ 寂しくないか。

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★机の島ーしただみ

2007年08月28日 | 紀行アラカルト
われはもや 机島来たり 先生の 号泣しとう 机島来たり

万葉紀行 最後の行程は多少難航した。
机島へ渡るすべがない。
かつてあった遊覧船も今はない。
旅館に問い合わせても 船を持っていない。
釣り船のお客は対応しているが・・・・ との返事。

観光協会にTEL。
船を出してくれる宿の調べを頼み
やっとのことで見つけてもらった。
能登島「はまづる」。
場所は能登島曲(机島に遠い)であるが 和倉温泉に船を一艘舫(もや)っているとのこと。
お世話になることとした。

すこし波は高いが 船は船着場を離れ 机島へ。
瀬嵐の先に垂れ下がるような種子島。
その先っぽに こじんまりした机島が見える。
潮の引いたとき 二つの島は つながるそうな。

島に近づいたとき 東方より 全島写真。
南・西を回り込むようにして北の着船場へ。
ポツポツと柱杭が見える。桟橋は落ちてしまっている。
鉤のついた棒で 杭を岩を手繰り寄せて着岸。

ひとり船から下りる。
水べりを廻るように かろうじて通路がある。
道もなく 草ぼうぼうかと思ったが 意外と通りやすい。
西へ回り込んだところに 歌碑はあった。
御影石の表面が 光っている。
「かしまねの 机の島の しただみを ・・・・・・」
のうたが刻み込まれている。
ここで 犬養先生は 奥さんとの渡島を思い出されて 号泣・嗚咽されたらしい。
しばし 歌碑を眺め 歌碑をなで おもむろに写真を撮る。


碑の周りは意外と草の繁茂はない。
よく見ると 草の先が尖っていない。
誰か 少し前に刈り取った人がいるのだ。
歌碑の表面が光っていたのも 磨いたのかも知れない。
歌碑を訪ねる人がいたのだ。
先生は一人ぼっちではなかったのだ。
■しただみ

歌碑の訪問を終え 船に戻ってみると
旅館主人の高木さんが 近づいてきた。
「これが しただみ ですよ」
小さな巻貝が いくつか 手の中にあった。
私も少し拾って 塩揉みしたのを 夕食の膳に出してもらった。
素朴な味だった。
犬養先生も ここへ来たとき 味わわれたに相違ない。

■私の写真

 
■「万葉の旅」写真


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★珠洲の海ーわびしさ漂う

2007年08月28日 | 紀行アラカルト
能登島を後に、珠洲へと向かう。
のと鉄道が 2年前の4月に穴水~蛸島間廃線。
穴水からはバスの乗り継ぎだ。
特急バスを使っても 和倉から珠洲鉢ヶ崎まで2時間半。
特急バスは 日に2往復。
生活者にとっても 旅行者にとっても 不便この上ない。
と 思うのは私ひとりか?
生活は 車利用が定着しており 旅行者は レンタカーだ。
免許を持たない 絶滅危惧種の 私には やはり不便。
鉢ヶ崎到着から帰りのバスまで 約2時間。
その間に 先生の撮影場所を探し 写真を撮らねばならない。

撮影場所は 三崎町寺家(じけ)海岸とある。
寺家の集落の海岸は長い。
端から探すしかない。
海岸沿いは 護岸堤防があるばかり。
波の打ち寄せる 砂浜はない。
ちいさな砂地を見つけても 苫家など ありもしない。
それでも 犬養先生のご加護。
苫家とは行かないが やっと 錆びたトタン屋根の船小屋を見つけた。
波の動きを見ながらの撮影。

これが309箇所目の写真だ。

鬱蒼とした森に抱かれた 須須神社では ひぐらしの声が 静寂に沁みていた。

■私の写真 


■「万葉の旅」写真
 

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★な、なっ、なんだ!!

2007年08月19日 | 紀行アラカルト

宿泊を終えての翌朝、フロントで精算をしているとき
目の前にある「色紙額」
うわぁっ 先生だ!!
小海線「海ノ口」駅。
ネットで宿泊先を探し、TELすると
「しばらく休業です」「近くに宿屋はありませんか」
で、紹介された宿。「和泉館」。
そこのフロントで、犬養先生に出会いました。

■私撮影(H19.5.12)


■犬養先生「万葉の旅」掲載



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★石見の海:柿本人麻呂、靡けこの山

2007年07月31日 | 紀行アラカルト
石見、いまの島根県に当たる。
柿本人麻呂が赴任先の石見から役目で上京するに際しての、
現地の妻と別れる慕情の歌がある。
長歌の絶唱は、
・・・偲(しの)ふらん 妹が門見む 靡(なび)けこの山
<恋しくてならない お前が見たい 邪魔な山よ 吹っ飛んでしまえ>
で終えている。

■371石見の海


■「万葉の旅」石見の海


■373高角山
石見のや 高角山の 木の際より わが振る袖を 妹見つらむか


■「万葉の旅」高角山


■犬養先生歌碑
都野津にある柿本神社にて


■374からの崎
つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛之崎なる ・・・
<人麻呂が石見の国から妻に別れて上京のときの歌>


■「万葉の旅」からの崎



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