2.『瞳の向こうの世界』
(本当にこのままで良いのだろうか)
ある日、日曜日の夜、耀は自室で何気なく漫画本見ながらそんな事を思った。
谷村との付き合いを始めて1ヶ月は経過したんだろうか?彼女のクラス内での友好関係を犠牲にして半ば成り立ってしまった友達以上恋人未満な関係。
「何かを犠牲しなければ、手に入らぬ幸せが現実のものになりはしても、長く続く筈はない。けれど、今はそれが現実になっていて犠牲の基での幸せが成り立ってしまっている」
そんな言葉を耀はあるインターネットのサイトで先日見つけた。記憶が確かなら、その言葉はそのサイトの管理者が観たある映画の感想か何かだった。
今、耀が手にしている幸せは、谷村をクラス内で自分と同じ悪者に仕立て上げられる形で成り立っている。こんな事が許される筈はない。
その事は、とうに彼女に伝えてはいるが、自分の思惑とは違う答えが谷村の口から出てしまっている。
「耀君は優しい良い人なんだね」
と言って、耀の事をより好いてしまったようなのだ。
普通なら「自分さえ良ければ良い」と思って、そこまで気にしない筈だと彼女は言うのだ。素直にその言葉を飲み込めば良い物を耀はどうしても飲み込めないで居た。
「どこかで自分は騙されているんじゃないか?」
「そうは言ってもいつかはきっと裏切られるんだから、これ以上この関係を深めてはいけない」
そんな声がどこかでしているのだ。
これまで、ろくに友達付き合いをした事のない耀である。信じるよりも疑うという気持ちのが強くなってしまっているのだ。
(どこか遠くへ逃げられたらどんなに良いだろう)
そうすれば、彼女は今まで通り幸せな学校生活を送れるだろう。自分みたいな半端者と付き合うことはどうあってもあっちゃいけない事だと耀が思っている時、部屋の時計の針は午前0時を指していた。
その夜、耀は妙な夢を見始めた。
大きな柱時計の前でじっと煤けた金色の振り子と針を見つめている夢。ここの所、これと同じ夢を何度も観ている。緑色をした螺旋状の階段の途中にある奇妙な柱時計。一体自分は何を待っているのだろうか、あるいは、何故、この時計を観つづけているんだろう。
そんな時だった。
「連れて行ってあげましょうか?」
不意に背後でそんな声がした。
「あなたが行きたいと思う世界に」
顔が黒く陰の様に塗りつぶされているみたいで見えないが、宙に浮いている白い衣装を身にまとった何かがそう耀に問い掛けてきている。
「広く果てしなく理想だらけの遠い遠い、あなただけが知っている世界へ…」
その喋る何かがさっと先端に星型のオブジェがついた棒を耀に向かって振りかざされ、何らかの衝撃が来るであろう、という所で、不意に耳障りな「ジリリリ」という音がして、目が覚めた。
(…朝か)
いきなり現実の世界に戻され、耀は体をゆっくりと起こして、やかましくなる目覚まし時計に手を伸ばした。
(うん?)
ひらりと小さな紙切れがヒラヒラヒラと落ちた。
(何か置いてたっけ?)
寝ぼけ眼で、落ちたものを手にした。
「今夜、君に会いに来るよ。そうだな、夜の10時位かな。自分の部屋で待っていてくれ。来る前に口笛を吹くよ。それが聴こえたら僕はきっと君の前に現れるよ。うまく会えるといいだけど…」
中途半端な大きさに切られた白い紙に、薄い青色でそう書いてあった。
(なんだろう、これ)
耀は、目を閉じて大きく欠伸を1つして手にした紙を近くの台の所に置いた…筈だったのだが、無くなっていた。
(あれ?ないの?)
確かにあったのに…と胸の中で呟くものの探している余裕もないので諦める事にした。
(変な朝だな)
空は悩みなんて何もない様に鮮やかな水色をしていた。
(嫌な事、起きなきゃいいけど)
夢の中でなら、別に少々嫌な事があってもそれが実害を与えるものではないので良いと耀は思っている。問題なのは、現実の目の前で起きる事が嫌なのだ。
(谷村は休みか)
今日は久しぶりの1人デーか…と朝のホームルームで担任が出席を取った時に、体調不良で休むという連絡があった事を呟く声を耀は聞いていた。クラスの連中は、「待ってました」といわんばかりに皮肉な笑いを耀に向けていた。
午前中の講義が終了し、昼休みとなった。
(1日ってやっぱ長げーな)
いつもの校舎の片隅で1人耀は、ざわめきに背を向けていた。
(でもまぁこれで、良かったのかもしれない)
学校のクラスという1つの華やかなパーティの中で、1人だけ「厄介な苛立ち者の対象」としている事が、自分の役割。格好よく言えば、「必要悪」とでもいうのだろうか?悪が無ければ、「善」は輝かない。自分はどうやってもその「善」側の立場にはなれないんだよな、と彼は溜息をつく。いくら、
「受け入れられない奴らが悪い」
と声を嗄らした所で、
「受け入れられるように出来ない、なれない自分自身が1番悪い」
と世間では評価されてしまうのだ。住み難い世の中だよな、と彼は毒づく。
こんな世の中が間違っているのなら、自分が理想とする世界はどんななんだろうか、不意にそんな事を彼は思った。
(誰もが出来てやれて思える事を、当り前として、どうって事無いよ、という風に出来る事だろうか?そうすれば、必然的に自分の周りにも〝友達〟という存在がついてまわる…よな)
そうすれば、少なくともこんな風に自分は1人ではないだろう、と耀は思う。今、自分が行きたい、生きたい世界はそんな世界だろうか?こんな現世を捨てて、どこかへ行けたらいいよな…と小さな子供が想い願う事を脳裏に描いてみる。
(所詮、絵に描いた餅か。考えるのも空しい)
胸の中で悪態をついた時、休みの終りを告げるチャイムが鳴り、重い腰を上げて耀はその場を後にした。
夜がやって来た。
自室で何を思う訳でもなくニュース番組を観ている時だった。急に眠気が襲ってきたので、そろそろ寝るか、と思った時だった。
(えっ、口笛の音?)
こんな時間に一体と思った時、視界が一瞬暗くなり再び明るくなると、目の前に青と水色そしてエメラルドグリーン色をした小さな水玉をちりばめたローブを身にまとい透き通った姿をした人形みたいなのが宙に浮いていた。
「やあ、僕の送った手紙を読んでくれてありがとう」
ちょっと笑顔を見せ人形がそう喋った。
「驚くのも無理ないね。紹介が遅れたが俺はお前の世界では天使って呼ばれる存在だよ。妖精って言ってもいいかもね」
一体どうなっているんだろう、夢でも見ているんだろうか?耀は自称天使を上から下までなぞるように見つめた。
「お前に良い話を持ってきたんだよ」
「良い話?」
「そうさ。昼間、お前が思った理想の世界へ案内する為に、俺はここにやって来たんだ」
理想の世界って、まさか、あれの事だろうか?いつ自分が思った事をこの天使は知ったのだろうか。耀は目を丸くしてしまった。
「見た所、お前の目には輝くなにかがあまりにも足らない。俺は、そういう人達に再び輝きを、もう少し言えば、希望を与える為に来たんだよ」
そう天使は言うと、耀の言葉を待たずに、パッとその場で星型のオブジェがついたタクトを現し出すと、大きく1振りした。すると、耀の目の前に、等身大の大きな鏡が現れた。
「他人がやるように何でもうまく出来なくて、躓いてばかりで色んな誰かに嫌われてしまう。それを必死で隠そうとしても隠し切れない…お前はそう言う奴だよね」
目の前の鏡にちょっと視線を落とすと、去年、学校に入学したての頃の耀の姿がそこにあった。あの頃、環境が変わり、自分は決して悪い人間じゃない…と思い、同じクラスになった連中にこれでもかという位に、愛想を振りまいて良い人を演じたが、所詮は一時凌ぎの付け焼刃で無残に失敗した姿がそこにあった。
「そんな人は、いつか、自分を失っていくのと同時に自信すら無くして行く。ましてや、お前みたいに出来るだけの事をした人間はね」
耀は思わずその鏡から目をそらした。思い出したくない過去を突きつけられるのは、思う以上に辛い事なのだ。
「そんなお前だからこそ、俺は力になりたい…もう一度、鏡をみて。大丈夫、もう過去のお前はそこには居ない」
恐る恐る耀は鏡を見た。
「あっ、そうそう。鍵を忘れないで」
「鍵?」
「お前の制服の上着のポケットに入ってる奴さ…」
いつしか耀は、いつも通っている学校の学生服を着ていた。
「これ?」
言われた通りすると、おとぎ話に出てくるありがちな銀色の小さな鍵があった。
「そう、それが封印をとく鍵さ。さぁ、じゃあ、鏡をまたみて…うん、そう…じゃあ、自分の目を瞳を見てみて…」
耀は言われるままに、鏡に映るどこか情けない顔をしている自分の目の部分を見つめた。
「そうそのまま…」
しばらく見ていると、耀の躰が突然固まり自由に動けなくなった。
「お前の瞳に、鍵穴が現れるよ。ほんの一瞬だから気をつけてね。そこに鍵を差し込んで、左に回すんだ…」
自分の茶色と黒の瞳を見たまま氷ついたように動けないのにどうやってやるんだよ?と彼は訊きたかったが、口すらも動かなかった。
(あれは?)
すると、そこにはいつもの制服を着ていつもの自分からは想像も出来ないくらい良い顔をした耀が微笑んでるのが見えた。
「今だっ!」
そんな声がした時、鏡の向こうの微笑んだ自分が、耀に向かって差し伸べられた手をギュッと握っていた。
「ようこそ、瞳の向こうの世界へ」
という声が、かすかに耀の耳に聴こえた時、行き成り、目の前にいつものありふれた自分の部屋が広がった。
(なんだったんだ?)
真面目な顔したキャスターが原稿を読みながら「資料」と称される映像がテレビ画面に流れ始めた。
翌日の事。
迎えたくない朝がやってきたのか…と思いながら耀はいつもの様に学校へ向かったのだが、妙な感じがした。
同じ校門に同じ白色に塗られた4階建ての校舎に2階建て体育館。どれも何の変わりも無いのに、どこか違うように思うのは気の所為だろうか?心なしか、行き違う顔ぶれもいつもと違うように思えた。
昇降口を抜け、いつもの教室に入った時だった。
(あれ?)
一瞬教室を間違えたかと思った。明らかにいつも居るクラスの連中と顔ぶれが違うのだ。
(教室間違えたかな)
廊下に出てぶら下がっている札を確認する。
2年3組。
間違いなくそこは耀のクラスだった。
(どうなってるんだ?)
有り得ない、夢でも見ているのだろうか?耀は教室に入るのに二の足を踏んでしまった。
「よう、牧原。何してんだよ、こんな所で」
(小机?)
小机 颯(コヅクエ ハヤテ)、幼年時代に親しかった友人の1人だった。しかし、そいつとはもう何年も会っていないし、どこかへ引っ越したと聞いていたのだが、間違い無く小机だった。
「何、驚いた顔してんだよ。変な奴だな」
と耀の右肩をポンと叩いた。
「あっ、あのさ、俺の席どこかな?」
いつもの自分の席には、見知らぬ誰かが座っていたのだ。
「そうだった。席替えしたんだ。お前、丁度休んでたからな」
小机はそう言うと、出席簿にぶら下がった座席表で調べた。
「あの列の前から3列目。うわ、一番、授業中遊べないところだな」
不運だなお前、と耀を小机は笑った。
「ありがとう」
自然にその言葉は出た。クラスの人間に前回礼を言ったのはいつの事だっただろうか?
「おう、来たか。大丈夫だったか?風邪って聞いたけどよ」
自分の席についた時、息を飲んでしまった。
「越中島?」
越中島 維地朗(エッチュウジマ イチロウ)、この人物もまた音信不通となっている1人だった。
「何、素っ頓狂な声出してんだよ、朝から。どうしたよ」
小机と同じ表情を越中島にも浮かべられた。
(どうなっているんだろう)
頭が高速回転しすぎておかしくなりそうだった。
「なぁ、今日の2限の英語の単語調べてきた?俺、今日当たるからやばいんだ」
今度は、井土ヶ谷 代介(イドガヤ ダイスケ)が不意にやって来た。中学2年夏に引っ越して耀の元から姿を消した人物である。
(って、そんなのやってあったっけ?)
日頃、予習も復習もしない耀である。それでも、手は何かに惹きつけられる様に鞄の中のノートに手が行っていた。
「どれかな?」
自分の意志とは違う言葉が口から出て、思わず口を塞いでしまった。
「えっとねぇ、全部かな」
「マジで?っていうか、調べてもないってパターン?」
またも自分の意志とは反する言葉が耀の口から漏れた。
「うん、正解!」
アハハハ、と井土ヶ谷は人差し指を1本立てて笑った。
「しょうがねーな。後でノートちゃんと返せよ」
気がつけば、耀は井土ヶ谷を小突いていた。
(どうなっているんだろう)
明らかに自分の意志とは反する自分自身が、途中途中で出て来ているのだ。しかし、とても楽しいのと同時に嬉しかった。不思議と嫌な気は少しもしなかった。
(これが新しい世界、〝瞳の向こうの世界〟って奴なのか?)
一応、時間割と担当教諭の顔ぶれは変わってはいなかった。しかし、後者の方はどうも同じ人間に見えても、中身が違うような感じがした。妙に、熱心に講義をしているのだ。日頃は、あまりにもひどい授業態度で、試験に出る所だけ解説するような感じだというのに、偉い違いである。また不思議な事に、その話の内容が、信じられない位、すらすらと耀の頭の中に入っていき、気だるい感じがまったくしなかったのだ。それに、周囲もそれなりに活発な感じで、講義の中の突然の質問等があったし、教室に居る全員が全てを受け入れていたのだ。
(何だか凄い所に来ちまったな)
午前中の講義から解放された耀は、ノートとテキストをトントンと机に叩き、自分の鞄にしまった。
「おい、牧原、メシ食おうぜ」
小机が耀を呼び、数人で昼休みを過ごす。こんな経験は今まであっただろうか?と自分自身の過去を振り返る暇も無く、色々と話すその瞬間1つ1つに彼はグイグイと引き込まれた。日ごろ、先ず話の中身についていきたくてもついていけないのに、ここでは全ての話にすっとついていく事が出来た。
「そう言えば、明日は、マラソン大会だよな」
共に会話をしていた井土ヶ谷が不意にそう口にした。
(えっ、マジで?)
なんでいきなりそんな…と耀に動揺が走った。
「ああ、そうだったな。まぁ良いじゃんか、1日授業潰れるんだしさ」
青井という耀の知らないクラスの男子生徒がそう口にすると、皆で頷いた。
「何キロあるの?」
恐る恐るという耀は訊いてみた。
「10キロ。忘れたのかよ。お前なら余裕だろ?」
小机が少し羨ましそうに言ってきた。
「そんなでもないぜ」
無意識のうちに耀はまたそんな言葉を口にしていた。どう見ても、「余裕」という言葉が隠れているのは間違いなかった。
「明日は晴れるらしいから、まぁ、実施で決まりだろう」
「だな」
青井と井土ヶ谷がそう言って頷きあった。
(いや、ヤバイだろう。どう考えても)
走りきれるだろうか?マラソンは耀にとっては地獄なスポーツなのだから。
明日の事を聞かされて、すっかりブルーになってしまった耀であったが、午後の授業はスムーズに進行していき、放課後を迎えていた。不思議な事に、そんな「重たい感情」は一瞬だけで、時間を経る毎に急速になくなって行った。
(なんなんだろう。この感覚)
ホームルームが終った時、思わず自分の両手を見つめ、耀は指を動かしていた。
教室を出ようとした時だった。
「牧原、今日もサッカーしていくだろ?」
井土ヶ谷が耀を呼び止めた。
「サッカー?」
部活でもやろうというのだろうか?耀は思わず目を丸くしてしまった。
「昨日の風邪でおかしくなったんじゃねーの?毎日やってる事だろ?」
行くぞ、と耀の手を引っ張る。
(って、グランドはサッカー部が使うんじゃないの?)
誘われるままに連れて行かれたのは校舎裏のグラウンドだった。ここはフリースペースとして使われているらしく、教員の許可さえ取れば自由に使っていいという事だった。
(こんな場所があったとは…ってその前に俺、サッカーなんか出来なくない?)
ボールすらまともに投げれも蹴れもしないのに、流れで来てしまったが大丈夫なんだろうか?と耀の鼓動がバクバクと音を立てる。何しろ過去に、こういうので皆と同じように出来ず色々とモメ事を起こしたトラウマさえあるのだ。
「よーし、いくぞー」
と、蹴られたボールは、明らかに自分の所に来ていると耀は思った。
こんなの返せる訳ない、と思ったのだが、またも体が自然に反応しうまく味方にボールを受け渡す事が出来た。
(うわ、出来た)
有り得ない…と飛んでいったボールを見て一瞬唖然としてしまったが、その後は、誰に何かを言われる訳でもなく、うまく周囲と強調してプレイする事が出来、楽しかった。
やがて1日が終っていった。
「何だよ、牧原、やけにうれしそうじゃねーか。顔がほころんでるぜ」
青井が不意にそう耀に言ってきた。
「えっ?そう?」
「ああ、何かいつもののお前の筈なのに、そうじゃないみたいなのな」
まぁ楽しいから良いそれでいいか、と小机が笑みを浮かべて言う。
(信じられない)
自分と言う存在が居るだけで、厄介者扱いされて、どっかいけよお前、と言わんばかりのこれまでとは180度違う現実に耀は驚くのと同時に、胸の中がとても温かくなった。
翌日。
天候は予想通りの晴れで、マラソン大会が始まった。
自分には無理だろう、と思って居た耀であるが、何故かすいすいと走れた。息は切れはしたけれど、そんなに苦しいという感じも無く、先へ先へ進む事が出来た。
(どうして、こんなにうまく行くんだろう)
これが自分が追い求めていた理想という世界なのだろうか?と走りながら耀は思う。やがてゴールに着き、番号札を貰う。
(193人中38位?冗談だろ?)
両手で番号札を見て耀は腰が抜けそうになった。いつもは、190番とか最語尾に近い数字しか出せないというのに。
「おお、凄いね。さすが、牧原だね」
やがてゴールしてきたクラスの人間達にそう言われ、耀は飛び上がりたい程、嬉しかった。こんな経験が出来るなんて、夢にも思わなかった。
色んな事が自分の思う通りにうまく行き、やってきた定期試験も今までは比べ物にならない程、高成績を修める事が出来た。
「お前は凄いな」
「頼りになるよ」
そんな言葉が多くの友人達から出て来て、ある時、耀は思わず涙ぐんでしまった事すらあった。手の届かなかった物が手に入り、これ以上のものはもう要らないとさえ思った。
1日1日が楽しくて、嫌いだった朝さえも苦でなくなった自分自身に耀はいつしか気付いていた。
ある夜の事だった。
何時もの様に耀が眠りにつき、夢を見始めた。
(ここどこかで、見たことあるな)
緑色の螺旋階段を耀は昇って行き、不意に平面となった所に出た。
大きな柱時計が目の前にあった。
「耀君、聴こえる?」
背後で声がした。
どこかで見たことあるような制服姿の女子生徒が居た。よくよく見れば、耀と同じ学校の制服である。
「ねぇ、私の事、覚えている?」
耀は静かに首を振った。
「じゃあ、谷村統子って名前に聞き覚えはある?」
少女は静かにその名前を口にすると、耀は自然に頷いていた。知らない筈なのに、どうしてだろう、と言う疑問が残る。
「もう、戻って来てくれないの?」
その問に、耀は何故か返事が出来なかった。
「今、そこにいる場所が、耀君が本当は居るべき場所じゃないと知っていても?」
「…」
耀が口を開こうとした瞬間に、目覚ましの音がしていて目覚めた。気がつけば、胸がドキドキしていた。
(一体、何だったんだろう)
あの女の子は一体誰だったんだろう?
嫌な夢見たなぁ…とその時は思い、単なる夢だろ、そんなに気にしなくてもいいじゃんか、と軽く考え、日々を過ごして行った。
しかし、その不思議な夢を見る回数が次第に増えて行った。どうも、見覚えはあるがはっきりと思い出せないその少女が自分に何かを伝えようとしているのだが、それを考えようとすると何か考えたくなくなるのだ。今更、何で、という念にかられるのだ。その訳はハッキリしない。
「お前の昔の恋人とかじゃねーの?」
友人の小机に、この夢の話をするとそんな話が出てきた。
「へぇ~牧原に恋人かぁ。いても不思議は無いよな」
なぁ、とすっかり仲良くなった青井と井土ヶ谷が共に頷いた。
(自分にそんなの居たっけ?)
解んないなぁ…と耀は首を捻った。
そんな少女の夢からは何故か突然解放され、再び耀は何の迷いも無い学校生活を送る事になった…のだが、今度は、どうも居心地の悪い場所に居る自分自身の姿を見る夢を見る様になった。それも決まって学校の教室に居る夢なのだ。
普段見かける、小机達の姿は無く、1人っきりでとても苦しい学校生活で休み時間は決まって校舎の片隅で、淋しそうにしている姿が見える。初めの内は、たった1人で学校に居るだが、その内、あの少女が頻繁に現れるようになった。
(谷村…ってあいつは)
耀の記憶に、彼女が蘇った。
その時だった。
一瞬にして、景色があの緑の螺旋階段がある所に変わり、柱時計が1つあった。
「もういい加減に、夢から覚めなよ」
背後で谷村の声がした。
「帰って来てよ。私1人を犠牲にして自分だけ良い思いをしたいの?」
谷村は泣いていた。
「私は耀君と学校で一緒に居る事で、何の犠牲もくってはいないのよ。耀君が居ない事で犠牲になってるのよ。ねぇ、お願い帰って来て」
不意に谷村が耀に手を差し伸べて来た。
「ああ、解ったよ」
そう言って、彼が手を繋いだ瞬間、また景色が変わった。
「本当に戻りたいのか?」
誰かの声がする。
「今ならまだ間に合う。毎日が幸せな日々のがきっと良い筈。その為に、お前をここに連れてきたのに…けれど、おかしいな、どうして現実の記憶が完全に消えなかったんだろうか?」
困った声がして、耀の目の前に鏡が現れた。
「耀君、お願い。早く戻ってきて」
悲しそうな顔をした谷村の顔がそこに一瞬映るとすぐに耀自身の姿が映し出された。そして、鏡の中から手が出て来て握手するみたいに握った。その時だった。「ジリリリ」と鳴る音がした。
(ん?)
耀は目覚めた。
6時45分を差すいつもの時計が目に入った。
(学校…か)
嫌だな、不意にそんな言葉が漏れた。もう忘れかけていた筈の言葉なのに。
家を出て、学校の門についた。
すると、そこには谷村が居た。
「おはよう。3日も休んじゃってゴメンね」
「ああ、風邪だったんだろ。仕方ないさ」
手を振る彼女に耀は、静かに笑ってそう返した。
「なんか良い事あったの?」
不意に谷村が訊いて来た。
「えっ?どうして?」
「何か、嬉しそうな顔してるし、少し表情が柔らかくなった感じがするよ」
「……そうかもな」
あの日の、あの夢の事はもう忘れよう。
谷村を悲しませない為に。
耀の灰色な学校生活は結局、変わる事はなかったが、その色の中に、薄い青が少しずつ混じっていった。
雲の切れ間の木漏れ日。
喩えて言うなら、あの過ごした日々はそんなところだろうか?
(完)
(本当にこのままで良いのだろうか)
ある日、日曜日の夜、耀は自室で何気なく漫画本見ながらそんな事を思った。
谷村との付き合いを始めて1ヶ月は経過したんだろうか?彼女のクラス内での友好関係を犠牲にして半ば成り立ってしまった友達以上恋人未満な関係。
「何かを犠牲しなければ、手に入らぬ幸せが現実のものになりはしても、長く続く筈はない。けれど、今はそれが現実になっていて犠牲の基での幸せが成り立ってしまっている」
そんな言葉を耀はあるインターネットのサイトで先日見つけた。記憶が確かなら、その言葉はそのサイトの管理者が観たある映画の感想か何かだった。
今、耀が手にしている幸せは、谷村をクラス内で自分と同じ悪者に仕立て上げられる形で成り立っている。こんな事が許される筈はない。
その事は、とうに彼女に伝えてはいるが、自分の思惑とは違う答えが谷村の口から出てしまっている。
「耀君は優しい良い人なんだね」
と言って、耀の事をより好いてしまったようなのだ。
普通なら「自分さえ良ければ良い」と思って、そこまで気にしない筈だと彼女は言うのだ。素直にその言葉を飲み込めば良い物を耀はどうしても飲み込めないで居た。
「どこかで自分は騙されているんじゃないか?」
「そうは言ってもいつかはきっと裏切られるんだから、これ以上この関係を深めてはいけない」
そんな声がどこかでしているのだ。
これまで、ろくに友達付き合いをした事のない耀である。信じるよりも疑うという気持ちのが強くなってしまっているのだ。
(どこか遠くへ逃げられたらどんなに良いだろう)
そうすれば、彼女は今まで通り幸せな学校生活を送れるだろう。自分みたいな半端者と付き合うことはどうあってもあっちゃいけない事だと耀が思っている時、部屋の時計の針は午前0時を指していた。
その夜、耀は妙な夢を見始めた。
大きな柱時計の前でじっと煤けた金色の振り子と針を見つめている夢。ここの所、これと同じ夢を何度も観ている。緑色をした螺旋状の階段の途中にある奇妙な柱時計。一体自分は何を待っているのだろうか、あるいは、何故、この時計を観つづけているんだろう。
そんな時だった。
「連れて行ってあげましょうか?」
不意に背後でそんな声がした。
「あなたが行きたいと思う世界に」
顔が黒く陰の様に塗りつぶされているみたいで見えないが、宙に浮いている白い衣装を身にまとった何かがそう耀に問い掛けてきている。
「広く果てしなく理想だらけの遠い遠い、あなただけが知っている世界へ…」
その喋る何かがさっと先端に星型のオブジェがついた棒を耀に向かって振りかざされ、何らかの衝撃が来るであろう、という所で、不意に耳障りな「ジリリリ」という音がして、目が覚めた。
(…朝か)
いきなり現実の世界に戻され、耀は体をゆっくりと起こして、やかましくなる目覚まし時計に手を伸ばした。
(うん?)
ひらりと小さな紙切れがヒラヒラヒラと落ちた。
(何か置いてたっけ?)
寝ぼけ眼で、落ちたものを手にした。
「今夜、君に会いに来るよ。そうだな、夜の10時位かな。自分の部屋で待っていてくれ。来る前に口笛を吹くよ。それが聴こえたら僕はきっと君の前に現れるよ。うまく会えるといいだけど…」
中途半端な大きさに切られた白い紙に、薄い青色でそう書いてあった。
(なんだろう、これ)
耀は、目を閉じて大きく欠伸を1つして手にした紙を近くの台の所に置いた…筈だったのだが、無くなっていた。
(あれ?ないの?)
確かにあったのに…と胸の中で呟くものの探している余裕もないので諦める事にした。
(変な朝だな)
空は悩みなんて何もない様に鮮やかな水色をしていた。
(嫌な事、起きなきゃいいけど)
夢の中でなら、別に少々嫌な事があってもそれが実害を与えるものではないので良いと耀は思っている。問題なのは、現実の目の前で起きる事が嫌なのだ。
(谷村は休みか)
今日は久しぶりの1人デーか…と朝のホームルームで担任が出席を取った時に、体調不良で休むという連絡があった事を呟く声を耀は聞いていた。クラスの連中は、「待ってました」といわんばかりに皮肉な笑いを耀に向けていた。
午前中の講義が終了し、昼休みとなった。
(1日ってやっぱ長げーな)
いつもの校舎の片隅で1人耀は、ざわめきに背を向けていた。
(でもまぁこれで、良かったのかもしれない)
学校のクラスという1つの華やかなパーティの中で、1人だけ「厄介な苛立ち者の対象」としている事が、自分の役割。格好よく言えば、「必要悪」とでもいうのだろうか?悪が無ければ、「善」は輝かない。自分はどうやってもその「善」側の立場にはなれないんだよな、と彼は溜息をつく。いくら、
「受け入れられない奴らが悪い」
と声を嗄らした所で、
「受け入れられるように出来ない、なれない自分自身が1番悪い」
と世間では評価されてしまうのだ。住み難い世の中だよな、と彼は毒づく。
こんな世の中が間違っているのなら、自分が理想とする世界はどんななんだろうか、不意にそんな事を彼は思った。
(誰もが出来てやれて思える事を、当り前として、どうって事無いよ、という風に出来る事だろうか?そうすれば、必然的に自分の周りにも〝友達〟という存在がついてまわる…よな)
そうすれば、少なくともこんな風に自分は1人ではないだろう、と耀は思う。今、自分が行きたい、生きたい世界はそんな世界だろうか?こんな現世を捨てて、どこかへ行けたらいいよな…と小さな子供が想い願う事を脳裏に描いてみる。
(所詮、絵に描いた餅か。考えるのも空しい)
胸の中で悪態をついた時、休みの終りを告げるチャイムが鳴り、重い腰を上げて耀はその場を後にした。
夜がやって来た。
自室で何を思う訳でもなくニュース番組を観ている時だった。急に眠気が襲ってきたので、そろそろ寝るか、と思った時だった。
(えっ、口笛の音?)
こんな時間に一体と思った時、視界が一瞬暗くなり再び明るくなると、目の前に青と水色そしてエメラルドグリーン色をした小さな水玉をちりばめたローブを身にまとい透き通った姿をした人形みたいなのが宙に浮いていた。
「やあ、僕の送った手紙を読んでくれてありがとう」
ちょっと笑顔を見せ人形がそう喋った。
「驚くのも無理ないね。紹介が遅れたが俺はお前の世界では天使って呼ばれる存在だよ。妖精って言ってもいいかもね」
一体どうなっているんだろう、夢でも見ているんだろうか?耀は自称天使を上から下までなぞるように見つめた。
「お前に良い話を持ってきたんだよ」
「良い話?」
「そうさ。昼間、お前が思った理想の世界へ案内する為に、俺はここにやって来たんだ」
理想の世界って、まさか、あれの事だろうか?いつ自分が思った事をこの天使は知ったのだろうか。耀は目を丸くしてしまった。
「見た所、お前の目には輝くなにかがあまりにも足らない。俺は、そういう人達に再び輝きを、もう少し言えば、希望を与える為に来たんだよ」
そう天使は言うと、耀の言葉を待たずに、パッとその場で星型のオブジェがついたタクトを現し出すと、大きく1振りした。すると、耀の目の前に、等身大の大きな鏡が現れた。
「他人がやるように何でもうまく出来なくて、躓いてばかりで色んな誰かに嫌われてしまう。それを必死で隠そうとしても隠し切れない…お前はそう言う奴だよね」
目の前の鏡にちょっと視線を落とすと、去年、学校に入学したての頃の耀の姿がそこにあった。あの頃、環境が変わり、自分は決して悪い人間じゃない…と思い、同じクラスになった連中にこれでもかという位に、愛想を振りまいて良い人を演じたが、所詮は一時凌ぎの付け焼刃で無残に失敗した姿がそこにあった。
「そんな人は、いつか、自分を失っていくのと同時に自信すら無くして行く。ましてや、お前みたいに出来るだけの事をした人間はね」
耀は思わずその鏡から目をそらした。思い出したくない過去を突きつけられるのは、思う以上に辛い事なのだ。
「そんなお前だからこそ、俺は力になりたい…もう一度、鏡をみて。大丈夫、もう過去のお前はそこには居ない」
恐る恐る耀は鏡を見た。
「あっ、そうそう。鍵を忘れないで」
「鍵?」
「お前の制服の上着のポケットに入ってる奴さ…」
いつしか耀は、いつも通っている学校の学生服を着ていた。
「これ?」
言われた通りすると、おとぎ話に出てくるありがちな銀色の小さな鍵があった。
「そう、それが封印をとく鍵さ。さぁ、じゃあ、鏡をまたみて…うん、そう…じゃあ、自分の目を瞳を見てみて…」
耀は言われるままに、鏡に映るどこか情けない顔をしている自分の目の部分を見つめた。
「そうそのまま…」
しばらく見ていると、耀の躰が突然固まり自由に動けなくなった。
「お前の瞳に、鍵穴が現れるよ。ほんの一瞬だから気をつけてね。そこに鍵を差し込んで、左に回すんだ…」
自分の茶色と黒の瞳を見たまま氷ついたように動けないのにどうやってやるんだよ?と彼は訊きたかったが、口すらも動かなかった。
(あれは?)
すると、そこにはいつもの制服を着ていつもの自分からは想像も出来ないくらい良い顔をした耀が微笑んでるのが見えた。
「今だっ!」
そんな声がした時、鏡の向こうの微笑んだ自分が、耀に向かって差し伸べられた手をギュッと握っていた。
「ようこそ、瞳の向こうの世界へ」
という声が、かすかに耀の耳に聴こえた時、行き成り、目の前にいつものありふれた自分の部屋が広がった。
(なんだったんだ?)
真面目な顔したキャスターが原稿を読みながら「資料」と称される映像がテレビ画面に流れ始めた。
翌日の事。
迎えたくない朝がやってきたのか…と思いながら耀はいつもの様に学校へ向かったのだが、妙な感じがした。
同じ校門に同じ白色に塗られた4階建ての校舎に2階建て体育館。どれも何の変わりも無いのに、どこか違うように思うのは気の所為だろうか?心なしか、行き違う顔ぶれもいつもと違うように思えた。
昇降口を抜け、いつもの教室に入った時だった。
(あれ?)
一瞬教室を間違えたかと思った。明らかにいつも居るクラスの連中と顔ぶれが違うのだ。
(教室間違えたかな)
廊下に出てぶら下がっている札を確認する。
2年3組。
間違いなくそこは耀のクラスだった。
(どうなってるんだ?)
有り得ない、夢でも見ているのだろうか?耀は教室に入るのに二の足を踏んでしまった。
「よう、牧原。何してんだよ、こんな所で」
(小机?)
小机 颯(コヅクエ ハヤテ)、幼年時代に親しかった友人の1人だった。しかし、そいつとはもう何年も会っていないし、どこかへ引っ越したと聞いていたのだが、間違い無く小机だった。
「何、驚いた顔してんだよ。変な奴だな」
と耀の右肩をポンと叩いた。
「あっ、あのさ、俺の席どこかな?」
いつもの自分の席には、見知らぬ誰かが座っていたのだ。
「そうだった。席替えしたんだ。お前、丁度休んでたからな」
小机はそう言うと、出席簿にぶら下がった座席表で調べた。
「あの列の前から3列目。うわ、一番、授業中遊べないところだな」
不運だなお前、と耀を小机は笑った。
「ありがとう」
自然にその言葉は出た。クラスの人間に前回礼を言ったのはいつの事だっただろうか?
「おう、来たか。大丈夫だったか?風邪って聞いたけどよ」
自分の席についた時、息を飲んでしまった。
「越中島?」
越中島 維地朗(エッチュウジマ イチロウ)、この人物もまた音信不通となっている1人だった。
「何、素っ頓狂な声出してんだよ、朝から。どうしたよ」
小机と同じ表情を越中島にも浮かべられた。
(どうなっているんだろう)
頭が高速回転しすぎておかしくなりそうだった。
「なぁ、今日の2限の英語の単語調べてきた?俺、今日当たるからやばいんだ」
今度は、井土ヶ谷 代介(イドガヤ ダイスケ)が不意にやって来た。中学2年夏に引っ越して耀の元から姿を消した人物である。
(って、そんなのやってあったっけ?)
日頃、予習も復習もしない耀である。それでも、手は何かに惹きつけられる様に鞄の中のノートに手が行っていた。
「どれかな?」
自分の意志とは違う言葉が口から出て、思わず口を塞いでしまった。
「えっとねぇ、全部かな」
「マジで?っていうか、調べてもないってパターン?」
またも自分の意志とは反する言葉が耀の口から漏れた。
「うん、正解!」
アハハハ、と井土ヶ谷は人差し指を1本立てて笑った。
「しょうがねーな。後でノートちゃんと返せよ」
気がつけば、耀は井土ヶ谷を小突いていた。
(どうなっているんだろう)
明らかに自分の意志とは反する自分自身が、途中途中で出て来ているのだ。しかし、とても楽しいのと同時に嬉しかった。不思議と嫌な気は少しもしなかった。
(これが新しい世界、〝瞳の向こうの世界〟って奴なのか?)
一応、時間割と担当教諭の顔ぶれは変わってはいなかった。しかし、後者の方はどうも同じ人間に見えても、中身が違うような感じがした。妙に、熱心に講義をしているのだ。日頃は、あまりにもひどい授業態度で、試験に出る所だけ解説するような感じだというのに、偉い違いである。また不思議な事に、その話の内容が、信じられない位、すらすらと耀の頭の中に入っていき、気だるい感じがまったくしなかったのだ。それに、周囲もそれなりに活発な感じで、講義の中の突然の質問等があったし、教室に居る全員が全てを受け入れていたのだ。
(何だか凄い所に来ちまったな)
午前中の講義から解放された耀は、ノートとテキストをトントンと机に叩き、自分の鞄にしまった。
「おい、牧原、メシ食おうぜ」
小机が耀を呼び、数人で昼休みを過ごす。こんな経験は今まであっただろうか?と自分自身の過去を振り返る暇も無く、色々と話すその瞬間1つ1つに彼はグイグイと引き込まれた。日ごろ、先ず話の中身についていきたくてもついていけないのに、ここでは全ての話にすっとついていく事が出来た。
「そう言えば、明日は、マラソン大会だよな」
共に会話をしていた井土ヶ谷が不意にそう口にした。
(えっ、マジで?)
なんでいきなりそんな…と耀に動揺が走った。
「ああ、そうだったな。まぁ良いじゃんか、1日授業潰れるんだしさ」
青井という耀の知らないクラスの男子生徒がそう口にすると、皆で頷いた。
「何キロあるの?」
恐る恐るという耀は訊いてみた。
「10キロ。忘れたのかよ。お前なら余裕だろ?」
小机が少し羨ましそうに言ってきた。
「そんなでもないぜ」
無意識のうちに耀はまたそんな言葉を口にしていた。どう見ても、「余裕」という言葉が隠れているのは間違いなかった。
「明日は晴れるらしいから、まぁ、実施で決まりだろう」
「だな」
青井と井土ヶ谷がそう言って頷きあった。
(いや、ヤバイだろう。どう考えても)
走りきれるだろうか?マラソンは耀にとっては地獄なスポーツなのだから。
明日の事を聞かされて、すっかりブルーになってしまった耀であったが、午後の授業はスムーズに進行していき、放課後を迎えていた。不思議な事に、そんな「重たい感情」は一瞬だけで、時間を経る毎に急速になくなって行った。
(なんなんだろう。この感覚)
ホームルームが終った時、思わず自分の両手を見つめ、耀は指を動かしていた。
教室を出ようとした時だった。
「牧原、今日もサッカーしていくだろ?」
井土ヶ谷が耀を呼び止めた。
「サッカー?」
部活でもやろうというのだろうか?耀は思わず目を丸くしてしまった。
「昨日の風邪でおかしくなったんじゃねーの?毎日やってる事だろ?」
行くぞ、と耀の手を引っ張る。
(って、グランドはサッカー部が使うんじゃないの?)
誘われるままに連れて行かれたのは校舎裏のグラウンドだった。ここはフリースペースとして使われているらしく、教員の許可さえ取れば自由に使っていいという事だった。
(こんな場所があったとは…ってその前に俺、サッカーなんか出来なくない?)
ボールすらまともに投げれも蹴れもしないのに、流れで来てしまったが大丈夫なんだろうか?と耀の鼓動がバクバクと音を立てる。何しろ過去に、こういうので皆と同じように出来ず色々とモメ事を起こしたトラウマさえあるのだ。
「よーし、いくぞー」
と、蹴られたボールは、明らかに自分の所に来ていると耀は思った。
こんなの返せる訳ない、と思ったのだが、またも体が自然に反応しうまく味方にボールを受け渡す事が出来た。
(うわ、出来た)
有り得ない…と飛んでいったボールを見て一瞬唖然としてしまったが、その後は、誰に何かを言われる訳でもなく、うまく周囲と強調してプレイする事が出来、楽しかった。
やがて1日が終っていった。
「何だよ、牧原、やけにうれしそうじゃねーか。顔がほころんでるぜ」
青井が不意にそう耀に言ってきた。
「えっ?そう?」
「ああ、何かいつもののお前の筈なのに、そうじゃないみたいなのな」
まぁ楽しいから良いそれでいいか、と小机が笑みを浮かべて言う。
(信じられない)
自分と言う存在が居るだけで、厄介者扱いされて、どっかいけよお前、と言わんばかりのこれまでとは180度違う現実に耀は驚くのと同時に、胸の中がとても温かくなった。
翌日。
天候は予想通りの晴れで、マラソン大会が始まった。
自分には無理だろう、と思って居た耀であるが、何故かすいすいと走れた。息は切れはしたけれど、そんなに苦しいという感じも無く、先へ先へ進む事が出来た。
(どうして、こんなにうまく行くんだろう)
これが自分が追い求めていた理想という世界なのだろうか?と走りながら耀は思う。やがてゴールに着き、番号札を貰う。
(193人中38位?冗談だろ?)
両手で番号札を見て耀は腰が抜けそうになった。いつもは、190番とか最語尾に近い数字しか出せないというのに。
「おお、凄いね。さすが、牧原だね」
やがてゴールしてきたクラスの人間達にそう言われ、耀は飛び上がりたい程、嬉しかった。こんな経験が出来るなんて、夢にも思わなかった。
色んな事が自分の思う通りにうまく行き、やってきた定期試験も今までは比べ物にならない程、高成績を修める事が出来た。
「お前は凄いな」
「頼りになるよ」
そんな言葉が多くの友人達から出て来て、ある時、耀は思わず涙ぐんでしまった事すらあった。手の届かなかった物が手に入り、これ以上のものはもう要らないとさえ思った。
1日1日が楽しくて、嫌いだった朝さえも苦でなくなった自分自身に耀はいつしか気付いていた。
ある夜の事だった。
何時もの様に耀が眠りにつき、夢を見始めた。
(ここどこかで、見たことあるな)
緑色の螺旋階段を耀は昇って行き、不意に平面となった所に出た。
大きな柱時計が目の前にあった。
「耀君、聴こえる?」
背後で声がした。
どこかで見たことあるような制服姿の女子生徒が居た。よくよく見れば、耀と同じ学校の制服である。
「ねぇ、私の事、覚えている?」
耀は静かに首を振った。
「じゃあ、谷村統子って名前に聞き覚えはある?」
少女は静かにその名前を口にすると、耀は自然に頷いていた。知らない筈なのに、どうしてだろう、と言う疑問が残る。
「もう、戻って来てくれないの?」
その問に、耀は何故か返事が出来なかった。
「今、そこにいる場所が、耀君が本当は居るべき場所じゃないと知っていても?」
「…」
耀が口を開こうとした瞬間に、目覚ましの音がしていて目覚めた。気がつけば、胸がドキドキしていた。
(一体、何だったんだろう)
あの女の子は一体誰だったんだろう?
嫌な夢見たなぁ…とその時は思い、単なる夢だろ、そんなに気にしなくてもいいじゃんか、と軽く考え、日々を過ごして行った。
しかし、その不思議な夢を見る回数が次第に増えて行った。どうも、見覚えはあるがはっきりと思い出せないその少女が自分に何かを伝えようとしているのだが、それを考えようとすると何か考えたくなくなるのだ。今更、何で、という念にかられるのだ。その訳はハッキリしない。
「お前の昔の恋人とかじゃねーの?」
友人の小机に、この夢の話をするとそんな話が出てきた。
「へぇ~牧原に恋人かぁ。いても不思議は無いよな」
なぁ、とすっかり仲良くなった青井と井土ヶ谷が共に頷いた。
(自分にそんなの居たっけ?)
解んないなぁ…と耀は首を捻った。
そんな少女の夢からは何故か突然解放され、再び耀は何の迷いも無い学校生活を送る事になった…のだが、今度は、どうも居心地の悪い場所に居る自分自身の姿を見る夢を見る様になった。それも決まって学校の教室に居る夢なのだ。
普段見かける、小机達の姿は無く、1人っきりでとても苦しい学校生活で休み時間は決まって校舎の片隅で、淋しそうにしている姿が見える。初めの内は、たった1人で学校に居るだが、その内、あの少女が頻繁に現れるようになった。
(谷村…ってあいつは)
耀の記憶に、彼女が蘇った。
その時だった。
一瞬にして、景色があの緑の螺旋階段がある所に変わり、柱時計が1つあった。
「もういい加減に、夢から覚めなよ」
背後で谷村の声がした。
「帰って来てよ。私1人を犠牲にして自分だけ良い思いをしたいの?」
谷村は泣いていた。
「私は耀君と学校で一緒に居る事で、何の犠牲もくってはいないのよ。耀君が居ない事で犠牲になってるのよ。ねぇ、お願い帰って来て」
不意に谷村が耀に手を差し伸べて来た。
「ああ、解ったよ」
そう言って、彼が手を繋いだ瞬間、また景色が変わった。
「本当に戻りたいのか?」
誰かの声がする。
「今ならまだ間に合う。毎日が幸せな日々のがきっと良い筈。その為に、お前をここに連れてきたのに…けれど、おかしいな、どうして現実の記憶が完全に消えなかったんだろうか?」
困った声がして、耀の目の前に鏡が現れた。
「耀君、お願い。早く戻ってきて」
悲しそうな顔をした谷村の顔がそこに一瞬映るとすぐに耀自身の姿が映し出された。そして、鏡の中から手が出て来て握手するみたいに握った。その時だった。「ジリリリ」と鳴る音がした。
(ん?)
耀は目覚めた。
6時45分を差すいつもの時計が目に入った。
(学校…か)
嫌だな、不意にそんな言葉が漏れた。もう忘れかけていた筈の言葉なのに。
家を出て、学校の門についた。
すると、そこには谷村が居た。
「おはよう。3日も休んじゃってゴメンね」
「ああ、風邪だったんだろ。仕方ないさ」
手を振る彼女に耀は、静かに笑ってそう返した。
「なんか良い事あったの?」
不意に谷村が訊いて来た。
「えっ?どうして?」
「何か、嬉しそうな顔してるし、少し表情が柔らかくなった感じがするよ」
「……そうかもな」
あの日の、あの夢の事はもう忘れよう。
谷村を悲しませない為に。
耀の灰色な学校生活は結局、変わる事はなかったが、その色の中に、薄い青が少しずつ混じっていった。
雲の切れ間の木漏れ日。
喩えて言うなら、あの過ごした日々はそんなところだろうか?
(完)
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