京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

新井 満さん

2021年12月06日 | 日々の暮らしの中で
日曜日のこと。新聞で新井満さんが亡くなられたことを知り、著書との縁をいただいたところだったので、深いひと息をつくことになった。
昔、友人が「千の風になって」をダビングして送ってくれたことを思い出し、繰り返し聴いていた。

                

誕生秘話。原作に「風」は1回だけだが、翻訳で6回繰り返し使ってあること。いのちは、風に、雪に、光に、雨に、鳥に、星に姿を変えて生き続ける、循環している、と捉えられること。法然院貫主や西本願寺門主さんが、「お墓が要らないなどとはけしからん」と見解を示されたという話など…、思い出す。

先ごろ、『十牛図』の内容を1話ごとに思いを展開されたブログに出あって、ずっと拝読していた。それを機に私も、夫の蔵書にあるというので新井満さんによる『自由訳 十牛図』を手にしたばかりだったのだ。


【十枚の牛の絵。失われた牛を捜し求めて、世界の果てまで。牛というのは実は自分の心のこと。自分探しの旅、悟りへの道のり。それを段階的に描いたのが「十牛図」です】(「はじめに」より)

   第一図 尋牛  牛を捜しにゆく
             ある日、私は気がついた
             心が……、ない
             身体の中にあったはずの心が
             どこにも見当たらない    
              (後略)

装飾を省いた、シンプルでやさしい言葉の選択。だが、奥は深い。原文と、その書き下し文も付されてあり、私は昔から漢文の書き下しのリズムが好きなもので、氏による書き下し文も音読する。そして1話ごと、音読で通した。両方のページをめくり返しながら。音読はいい。目で字面を追うだけで終わりそうなとき、私はいつも音読することで、先ず心をその世界に近づけていく。

原作者のコンセプトを厳守することを自らに課して訳されたそうだ。言葉は人格を映す。死をも考えたという苦悩の体験から生まれ出る言葉に、魂は宿る。読むたびに言葉は、自分の心を内に向けさせてくる。
「賜った座に坐し…周囲の人たちと連帯し すべてと共に実りゆくいのち…」 勝手に頂いてある出雲路氏の言葉に思いがいく。

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする