黒古一夫BLOG

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新規まき直し、元気です(5)――拙著の「あとがき」

2016-09-20 11:12:40 | 仕事
 昨日紹介した『立松和平の文学』、どのような経緯から書くようになったのか、その一端を「あとがき」に書いたので、刊行前だが、一人でも多くの人に「立松和平」という作家がどのような人であったのか、僕との関わりはどのようなモノだったのかを知ってもらい、そして拙著を読んでもらいたいという思いから、この欄に掲載することにした。

あとがき(『立松和平の文学』)

 同世代の作家として秘かにその作品を読んでいた立松和平と親しくなったのは、私の最初の本『北村透谷論―天空への渇望』(七九年四月 冬樹社刊)の担当編集者伊藤秋夫さんが、また立松の三冊目の単行本『ブリキの北回帰線』(七八年八月刊)の担当でもあったことによる。五年半務めた小学校の教員を辞めて入学した法政大学大学院(人文科学研究科日本文学専攻)の修士論文が本になるということで、伊藤さんとは何度も何度もお会いし、改稿や手直しを要請されたが、それらの合間に伊藤さんからは立松のそれまでの著作一覧とか、私が読んでいなかった作品のコピーを頂くということがあった。私より一歳年下で立松より一歳年上の伊藤さんとの会話によって、私はあらためて立松と同じ時代を生きているという実感を持つようになった。
 その過程を経て、拙著も刊行され、私は伊藤さんと会話に何度か登場した立松の学生運動(全共闘運動)体験を基にした『光匂い満ちてよ』(七九年)を読み、あの一九七〇年前後の「政治の季節」を共有する同世代作家の三田誠広の『僕って何』(七七年)や星野光徳の『おれたちの熱い季節』(同)、兵藤正俊の『死閒山』(七七年)や『霙の降る光景』(七九年)などの「全共闘記」(一~八)、高城修三の『闇を抱いて戦士たちよ』(七九年)らの作品を集中して読み、私は「全共闘小説の可能性と現実」という四〇枚余りの文章を師の小田切秀雄らが出し始めた「文学的立場」創刊号(一九八〇年夏号)に載せた。そして、翌年には「日常の<修羅>を生きて―立松和平論」(「流動」一九八一年六月号)という初めての「立松和平論」を書き、駆け出しの批評家として少しずつ批評の仕事をするようになった――この拙文は「流動」誌掲載と同時に立松の知るところとなり、「仕事場訪問」という企画で立松に会うことになったとき、立松から開口一番「『流動』の文章、ありがとう」との言葉を貰った――。
 爾来、立松に関わる仕事は、「『青春の輪郭』をえがき続ける」と題して『太陽の王』と『野のはずれの神様』を併せて書評した(「週刊読書人」八二年一〇月二五日号)のを皮切りに、書評を二三本、「序」にも書いたように単行本を『立松和平―疾走する「境界」』(九一年九月 六興出版刊 <増補版>副題を「疾走する文学精神」に代え、九七年一二月 随想舎刊)と、『立松和平伝説』(二〇〇二年六月 河出書房新社刊)の二冊を書き下ろし、その他『人魚の骨―初期作品集1』(九〇年一月 「作品集2」は『つつしみ深く未来へ』は二月 六興出版刊)を編集し、その1に「二十年前に立松和平を語る」という対談を、その2に「疾走する文学精神」と題して解説を書く)や合冊『遠雷』四部作(二〇〇〇年一二月 河出書房新社刊)に「時代の目撃者」と題する解説を書いたりした。さらには文庫の解説も『楽しい貧乏―無頼派作家の青春記』(廣済堂文庫)をはじめ『卵洗い』(講談社文芸文庫)、『光の雨』(新潮文庫)と書き、紀行文集『立松和平 日本を歩く』(全七巻 二〇〇六年四月 勉誠出版刊 各巻に「解説」を執筆)や『立松和平 仏教対談集』(二〇一〇年一二月 アーツアンドクラフツ刊)を編集するなど多岐にわたって行ってきた。
 その意味では、『北村透谷論』から始まり今日に至る四〇年近い私の批評家、近現代文学研究者としての仕事は、まさに作家・立松和平とともにあった、と言っても過言ではない。それ故、立松が逝って五年余り、今でも「文学的盟友」を亡くしたという思いが消えない。というのも、振り返ってみると、私は立松の仕事を「鏡」として自分の文学に関わる諸々(思想や方法)を鍛えてきたと思っているからにほかならない。その意味で、今は立松の新作が読めなくなった現実に私は非常な「寂しさ」を感じているが、その「寂しさ」の裏側には、私自身の文学観(批評眼)を鍛えてくれる立松の新しい作品が読めないからではないか、と時々思うことがある。
思い起こせば、立松も私もあの一九七〇年前後の「政治の季節」を文学的原点(発語の根拠)としてきた作家であり批評家であった。本文にも引いたが、立松は最期まで「僕の精神形成の多くは、七〇年前後の学園闘争におうところが大きい」(「鬱屈と激情」七九年)という気持を手放さない「文学の徒」であった。そうであったが故に、『光の雨』事件(盗作・盗用事件)を起こしながら、青山葬儀場で行われた立松の「お別れ会」には一〇〇〇人を超える友人・知人・関係者が集まったのだろう。これは、立松という作家及びその作品がいかに人々に愛されていたかの証明でもある。そんな立松と出会ってから亡くなるまで、私が一人の批評家として変わらず「作家と批評家」の関係を続けてこられたことを、今では誇りに思っている。
 本書は、「序」にも書いたように、立松が亡くなる直前に第一巻が刊行され、昨年(二〇一五年)の一月に最後の「別巻」が刊行された『立松和平全小説』(全三〇巻+別巻一 勉誠出版刊)の全巻に付した「解説・改題」を書き直したものである。この『全小説』は、生前の立松と何度かその「構成案」を練った末に刊行が始まった小説全集で、立松が生きて小説を書き継ぐ限り「続刊」を出し続ける、全巻の「解説」は私が担当する、という版元との約束の下で刊行が決まったものである。残念ながら刊行が始まってすぐ立松が「死病」に斃れたため、「続刊」は遺作と単行本未収録作品を集めた「別巻」一冊で終わってしまったが、『全小説』の刊行に期待し、第一巻の刊行を喜んでいた立松の顔を思い出すと、六二歳という若さで亡くなった立松の無念を今更ながらに思わないわけにはいかない。
『全小説』の「解説・解題」は、結果的に約一二〇〇枚になったが、本書はその「解説」を約八〇〇枚余に短縮し書き直したものである。一二〇〇枚を八〇〇枚に短縮するというのは、正直大変な作業であった。『全小説』の刊行が終わった直後から、立松の小説やエッセイは元より関係する作家の作品を読み直し、まとまった「作家論」として書き直す作業を始めたのだが、始めた当初はこれほど時間を要するとは思ってもいなかった。もちろん、この一年半という長い時間、本書の執筆に専念していたわけではなく、この間にここ一〇年ほどその在り様や作品内容に不満を持っていた村上春樹を批判した著『村上春樹批判』(二〇一五年四月 アーツアンドクラフツ刊)を上梓するということもあり、また二〇一二年九月から足かけ三年籍を置いた中国(武漢)の華中師範大学外国語学院日本語科大学院の教え子たちに、インターネットを利用して引き続き「論文指導」を行うということなどもあって、結構忙しい日々が送っていた。
 しかし、今は「まとまった立松和平論」としては最後になると思われる本書が、前著や『『1Q84』批判と現代作家論』(二〇一一年)、そして私の初めての紀行見聞集である『葦の髄より中国を覗く―「反日感情」見ると聞くとは大違い』(二〇一四年)を出してくれたアーツアンドクラフツの小島雄社長の尽力で刊行されることに、私としてはほっとし、また大変感謝している。出版不況と言うより「純文学」、とりわけ作家論などの「評論」が極端に売れなくなっている出版情況の下、拙著の刊行を喜んで引き受けてくれた小島社長の英断に、あらためて深甚の感謝の念を捧げたいと思う。
 そして今は、何よりも多くの人が本書を手に取ってくれ、立松文学の「楽しさ」「すばらしさ」「偉大さ」について思いを新たにしてくれることを願うばかりである。
 なお最後に、『北村透谷論』を刊行してから三七年間、幾度となく襲ってきた私の心身共の「危機」をいつも温かく見守ってきてくれた妻に「ありがとう」の言葉を寄せ、この「あとがき」を終わりにしたいと思う。
                                  猛暑の赤城山麓にて   著者