黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「ねじれ」は、僕らの意識に!(2)――原発再稼働問題

2013-07-09 08:29:17 | 近況
 昨8日、原子力規制委員会が「世界最高水準の安全性を目指す」とした原発の「新規制基準」が施行された。それに伴って関西電力(大飯3、4号基、高浜3、4号基、計4基)、四国電力(伊方3号基)、九州電力(玄海3,4号基、川内1,2号基、計4基)、北海道電力(泊1,2,3号基)の4電力会社は早々に「再稼働申請」を行った。フクシマを起こした東京電力も4電力会社と歩調を合わせて、柏崎刈羽6,7号基の再稼働申請を行うつもりだったようだが、泉田新潟県知事の強力な反対もあったためか「様子見」状態で、昨日は申請を控えたようである。
 そんな「原発再稼働」の動きを見ていると、各メディアが伝えるように、当然それは自民党(政権党)が「原発推進」を強力に推し進めようとしていることに「力を得て」行われたことであるが、表題「ねじれは、僕らの意識に!」との関係で言えば、この「原発再稼働」問題こそ、僕らの意識における「ねじれ」を如実に示すものはないのではないか。
 つまり、「再稼働」を申請された原発が存在する自治体(地域)住民の、「何十年も原発によってここの経済は成り立ってきた。もし、原発が動かなければ、たちまちのうちに<玄海集落>になってしまう」、あるいは「私らの生活は原発があって初めて成り立つものだ」といった発言が如実に示すように、原発が存在することによって保障された「現在の(豊かな)生活」をどのように維持するかを前提とする限り、つまり「経済=金儲け・豊かさ」を優先させた現在の在り方を前提とする限り、それはまた厳しい言い方になるが「未来・将来」に対して「責任を取らない生き方」ということにもなるのだが、そこに「原発再稼働」の最大の問題があるとしても、果たしてそのような生き方を是認した上でしか成り立たない「原発再稼働」を容認していいのかどうか。敢えてきつい言い方をするが、僕はそのような生き方(現実)を否定する、つまり原発に頼らない「もう一つの生き方」を追求しない限り、いつかまた「未来の人間」がフクシマを経験することになるのではないか、と思う。
 何よりも「安価」とされる原発の燃料――ウランや「死の灰」から取り出されるプルトニウム、しかしウランとプルトニウムを混合したMOX燃料さえ、核兵器の材料であるプルトニウムは原発を運転し続ける限り、どんどん溜まっていく――が100年ぐらいで枯渇すると言われていることを考えると、原発に頼るエネルギー政策は「刹那主義」と言うしかない。そして、「刹那主義」が自己中心(ジコチュウ)思考の産物であるとするならば、それは「経済最優先=金儲け主義」に通じるということであり、そのことを認めるならば、「原発再稼働反対=原発ゼロ思想」はまず自分自身の意識変革(思想転換)、つまり物質的な意味での「豊かさ」の追求を止めて、物質的には不十分でも精神的には充実した生活を望む考え方に転換しなければならないのではないか。つまり、1980年代にドイツの「緑の党」が提唱した「オルタナティヴ(もう一つの生き方)」の意味を、21世紀の現在、フクシマ後の現在にあって、僕らは真剣に考えなければならないのではないか、ということである
 アベノミクスと言われる「一時的=幻想的」な経済政策がまさに従来型の「資本主義経済」に基づくものであることを考えると、所詮それは「あぶく(バブル)」を呼び込むだけで、かつてのバブル経済によって「利益」を受けた者が一部の富裕層だけであったことを思い起こせば、僕らは「目を覚ます」しかないのではないか、と思う。
 なお、マスコミが伝える「原子力規制委員会」のメンバーのうち3人が田中委員長はじめ「旧原子力ムラ」(原発推進派の集まり)の出身であることや、今度の「新基準」に、事故が起こった場合遠隔操作で冷却操作を子ナウ「第2制御室」の設置や非常用電源の3系統目の設置、フィルター付きベント(排気)設備の設置、などが「5年猶予」になっていること、及び「避難経路」の見直しがほとんど行われていない、等を考えると、原発再稼働の動きは自民党の原発政策と同じように、フクシマ(だけでなく、スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故、等の原発事故)から何も学んでいないのではないか、と思えて仕方がない
 さらに言えば、今朝の朝日新聞の群馬県版は、今度の参議院選挙に際して「原発に関するアンケート」を行い、それによれば自民党以外の候補者は「再稼働反対」と明確に回答を寄せたが、自民党の候補者(閣僚)は「回答なし」であったと伝えている。安倍自民党総裁も各地の演説で「原発(再稼働)政策」については触れていないようで、このような「姑息」なやり方を許す僕らの意識を、まず変えることが必要だとつくづく思う。