くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

いい1年だった!!

2014-12-26 16:37:41 | 日本民家集落博物館ボランティアの日々
今年もボランティア活動をつつがなく楽しむことができました

最終日に館にいくと『門松飾り』



今年最後のお茶会も冷たい雨の中催行です


蹲の水も凍っていた12月の茶会

でも外国からの来館者がお茶を楽しんで行かれました






そして例年恒例になっている能勢の民家の元持ち主のお祖父さんと息子さんとで
能勢の民家の門松飾りをしてくださいました








毎年のこと、ありがたいことです  感謝!!

お二人に『くる年もいいことのありますように!!


徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾壹

2014-12-22 23:25:56 | はらだおさむ氏コーナー
あなたへ

日中首脳会談のとき、高倉健は死の床にあった。
その死亡が公表された11月18日、中国の報道官は、30歳以上の中国人でかれを知らない人はないと、日本の高名な俳優・高倉健の死を伝えてかれの功績を称え、名残を惜しんだ。

日本と中国が国交を正常化したのは、文革のさなかの72年であった。
そのころ習近平現主席もまだ農村に下放中であったはずだ。
文革が終わったのは76年9月の毛主席死亡のあと、10月に四人組が逮捕されたのちのことである。
その後、華国鋒政権から小平主導の改革開放路線へとギアチェンジして、毛沢東は功績第一、誤り第二と総括され、あたらしい時代を迎える。
80年代のおわり近くまで中国の政治を前面で主導していたのは胡耀邦総書記であった。中曽根総理と胸襟を開き、三千人の日本の青年・学生の訪中を(独断で)とりきめ、山崎豊子の「大地の子」執筆取材調査に便宜を図り、文革後の中国政治の全般をとりしきった(かれは89年のあのとき、憤死した)。
当時でも、いまでも、中国人にとって一番有名な日本人は高倉健であり、山口百恵である(中野良子は中国で日本より名が売れている)。
ジャ・ジャンクー監督の映画「四川のうた」(中国名:二十四城記)は改革開放のなかで展開される国営企業解体のストーリーで、山口百恵のテレビドラマ「赤い疑惑」の主題歌がとりあげられている。
ジャ監督はプレスミーティングでつぎのように語っている。
「中国で80年代を生きてきた人にとっては、山口百恵さんは共通言語です。
これまで中国の社会は、集団でどうやって生きていくかという、あまり個人が大切にされない時代で、禁欲的な社会でした。・・・そのようななかで彼女が主演した『赤い疑惑』というテレビドラマを観て、中国の大衆は、個人的なラブストーリーをこうやって語っていいのだな、とわかりました。・・・」
中国人の就学生が東京の彼女の自宅周辺をうろついて、お巡りさんから尋問を受けるということもあった。

高倉健の『君よ憤怒の河を渉れ』(中国名『追捕』)が中国で上映されたのは
1978年のこと。まだほとんどの人が人民服姿であったが、若い女子工員の服の袖からちらほらとカラーのものが見えはじめたころでもある。『追捕』のチケット代は給料の半月分ほどもしたが、それでもどの映画館もあふれんばかりの大ヒットとなり、全中国で半数以上の人が観たといわれている。
 中国の国民的スターになった高倉健の作品は、その後中国で『新幹線大爆破』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『海峡』『居酒屋兆治』が公開された。このなかでわたしが観ているのは「黄色いハンカチ」と「居酒屋」の二本だけである(『追捕』はいまユーチューブで見た)。
 中国で上映される外国映画はすべて吹き替えで、字幕ではない。
かっこいい、中国語をしゃべる高倉健に、中国の若い女性はこころ痺れる思いがしたことであろう。
 この吹き替えについて、後年その指導に当たられた‐文字どおりの老朋友からその裏話をお聞きしたことがある。
 「居酒屋」であったろうか、「ごめん」ということばを若い翻訳者が「対不起(トイプチ)」と訳した。たしかに三字、口の動きはあっている。しかし、場面はどうか、外から内へ居られますかと伺っているシーン、ここは「在家嗎(ザイチャーマ)」としてはどうか・・・と。なるほど、これは字幕の翻訳より大変な作業とおもったが、これで中国の観客がすぅーと映画の世界に入り込めるのかと感心したものである。

 いまは世界の映画界でその名を知られた大演出家のチャン・イモウは西安の映画館でこの『追捕』を食い入るように観ていた。高倉健とそのストーリーの展開、そしてそれをつくりだした日本とその映画界。まだ『黄色い大地』のカメラも撮っていない青年の張芸謀であったが、かれの瞼に高倉健が焼付いていたーそして、いつか高倉健を主人公とする映画を自分の手で作り上げたいという思いがこみあげていたのであった。
 それから20余年の年月が流れ、日中合作映画『単騎、千里を走る』(中国名『千里走単騎』)のカメラが日本(東京)と中国(雲南省麗江市)を舞台に廻りはじめた。
 日本語で「千里を走る」といえば、ついついその前に「悪事」をつけた常用語がひらめくが、この「千里走単騎」は「三国志」に由来する京劇の演目であるとか。この映画では高倉健がひとり中国の僻地に向かうことからはじまる。
その出発点となる雲南省の麗江は風光明媚の土地で、わたしも90年代はじめからいろんなグループと三度現地を訪れた。
 
 はじめは雲南省の省都昆明市にあるニエアル(中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲家)の墓地や遺跡などを訪ねたあとのオプションツアー。聶耳は1930年代に上海の映画界で活躍、日本経由でソ連へ向かう途次、神奈川県藤沢市の湘南海岸で遊泳中死亡した、享年24歳。その視察のあと、麗江へ飛んだ小型機はかなり離れた郊外に着陸したが、そこから市内までの悪路に閉口した記憶がある。
 
二回目は友人たちを誘って、麗江経由大理のたびを企画した。
 ナシ族のガイドの案内するトンパ文字の世界にすっかりはまりこんだ。
 三度目は世界遺産に認定されたあと。観光客が世界各地から押し寄せていた。玉龍雪山の最高峰は未踏の処女地とか耳にしたが、その五千メートル近くまでクルマとロープウエイを乗り継いで上がれるようになっていた。タイなどからも国際線が通じ、大勢の若者たちが押し寄せてきていた。雪が珍しいかれらはロープウエイを降りるなり雪合戦に興じ、高山病で倒れていく。わたしは酸素ボンベを握りしめ、あのラッパ旗手のように、(死んでも)離さず、であった。

 ついつい、高倉健から離れてしまった。
 映画は麗江からまだ奥地へ、奥地へと入っていく。
 チャン・イモウはできるだけ多く現地の人を登用したため、北京からの撮影隊はもちろん、通訳が足らずに監督やスタッフも立ち往生が続いたらしい。
わたしはこの映画は日本で見たので字幕であったが、なるほど、日本での撮影部分を除くシーンは現地の言葉が氾濫していた。中国でこの映画はあまりヒットしなかったようだが、どうなんだろう~吹き替えも、字幕もなかったとしたら、中国の観客でもお手上げになったのではないだろうか。
 高倉健の遺作になった「あなたへ」は、二年前の作品である。
 わたしが観たミニシネマは、中年の女性で大入り満員であった。
 かれは、中国でも日本でも、女性の心を捉えて離さない。
 この映画の副産物として、兵庫県朝来市の竹田城が天空の城-日本のマチュピチュともてはやされ、城壁の一部が崩れ落ち、入場制限の措置がとられる始末。いまはオフシーズンだが、来春にはまた高倉健を偲ぶ登山者が押しかけることであろう。
 
 あなたへ、お伝えしたいことがある。
 高倉健の亡くなる一月ほど前の10月15日、習近平総書記は作家協会をはじめとする映画、演劇、音楽、美術、書道など10団体72名の著名人を集めて「文芸工作座談会」を開催、重要講話を述べたと伝えられている。日本ではほとんど報じられていないようだが、毛沢東が延安で述べた「文芸講話」の再来である。いまは八千万人の中国共産党員の学習会、学習指導の主要テーマとなっているらしい。
 高倉健の死を惜しみ、嘆き、彼の功績を称える中国。
 日本でなら言論の自由の抑制、思想統制と騒がれるであろうこの「新文芸講話」の発表。
 そのどちらもが中国、そのうらとおもて、内と外、タテマエとホンネ。
 日中首脳会談で二年ぶりに両国政府間の交流の扉は開きはじめたが、領海に張りつめた氷を溶かすのはだれか。それはひとりとひとりの民間交流からはじまる。


あなたとわたし、大家 新年 好!     

(2014年12月14日 記)

『徒然中国』発刊されました

2014-12-13 09:36:56 | はらだおさむ氏コーナー
このブログでも、おなじみの
『徒然中国』が発刊されました

      『徒然中国』発刊
            みてきた半世紀の中国       

      著 者 : はらだおさむ
      出版元 : 桜美林大学北東アジア総合研究所
      定 価 : 1500円

 本書は日中関係学会のホームページに長年、「徒然中国」として
定期的に掲載されてきたエッセイをもとに著者原田氏が新たに手を
加え随所に写真を入れて読みやすく編集した日中間の記録である。
    (
        本書「出版後記」より)



皆様 どうぞご購入を!




 はらだ おさむ
    harax2@jttk.zaq.ne.jp

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾

2014-12-01 23:14:24 | はらだおさむ氏コーナー
モンテンルパの夜はふけて

 
もう40年ほども前になるか、業界団体の親睦旅行でマニラへ行ったことがある。あとにもさきにも、フィリッピンにはこの時にしか足を運んでいない。  
現地ガイドの案内でお上りさんよろしく、くっついて歩く。
町の広場に高山右近の像が立っていた、クリスチャン大名で有名なかれがキリシタン禁教後も棄教せず、国外追放になりここマニラに到着、イスパニアの植民地であった当地で大歓迎を受けたとの由。NHKの大河ドラマ「勘兵衛」で少しは理解も増えたいまなら、もっと熱心に耳を傾けたであろうが、そのあとのマニラ湾の夕日の美しさだけがいまも目のそこに焼きついている。
 翌日はモンテンルパ、乗馬もできる、眺望がすばらしいと誘われて出かけることになったが、だれかの、あの歌のところじゃないか、戦犯の刑務所があったところとの声に、渡辺はま子の名が、この歌が飛び出してきた。
ここに収容されていたBC級戦犯の多くは、キリノ大統領(初代)の恩赦で帰国を許されたが、NHKの紅白にまで登場した彼女の歌声は、海を越えてこの地にも伝わっていたという。
大阪万博のあとであったろうが、メンバーの胸にはまだあの戦争への「思い」が残っていた。

前にも書いたが、わたしは「小学校」を出ていない、正確に言えば「小学校という名の初等教育」を受けていないというべきだろうが、昭和16年(1941)
 4月、新設の「国民学校」一年に入学、昭和22年(1947)3月、最後の「国民学校」六年を卒業、校舎も、教師も、教科書も揃わない「新制中学」という義務教育の三年制中学校に進学した。<ほしがりません 勝つまでは>から<6・3制 野球ばかり 強くなり>の、あまり勉強をした記憶のない三年間の中学生活であった。
  わたしは6人兄弟(姉妹)の上から三番目、高校入学まで着るものは兄のお古ばかりで、タマにはサラの服買うてェ~や~とお袋を泣かせたこともあるが、友達たちも似たり寄ったり。父親が戦死や未帰還の家庭も少なくなかった。
  3年の秋10月 中華人民共和国成立、高1の1950年6月 朝鮮戦争が勃発した。戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』を読みふける日が続いた。
  いま活躍中の世界のリーダーで、このときすでに生を享けておられた方は
 もう数少なくなっていることであろう。  

24年も前になるのかと、いま改めて調べてみて驚いた。
阪大の医学部長から総長を務められ、そのあと大阪府日中友好協会の会長としてご指導いただいた山村雄一先生のことである。1990年6月10日ご逝去 享年72才とある。そんなにお若かったのか・・・といまにして思う。
  中国のあの事件で、気ぜわしい日々が続いた日中関係のなかで、当時南森町にあった大阪日中の事務局によく顔を出していただいて、事務局員と気さくに話し込んでいただいた先生。事件のあとも上海やスワトウでの投資案件で飛び回っていたわたしは、三度ほどしか機会がなかったが夜の街にもお供させていただいたことがある。
  葬儀のとき、♪海行かば みづく屍、山行かば・・・♪の葬送曲が流された。
  昭和16年(わたしは国民学校一年生)、阪大医学部卒のあと海軍軍医中尉として南方方面へ派遣、従軍されたとある。このメロディを耳にして同年輩の役員で席を外された方もおられたが、先生の遺言で流されたこの葬送曲には、この戦争で命を落された仲間たちへの先生の追慕、口惜しさが込められているのではないだろうか。このときいただいたテレホンカードには扇面に自筆の「愛 信 恕 山村雄一 落款」がカラー印刷され、その下に「故 山村雄一会長を偲ぶ 大阪府日中友好協会」とある。いまでも名刺入れから時おり取り出して見つめる、わたしの“お宝”である。

  原爆被爆者でもある平山郁夫画伯(元日中友好協会全国本部会長)の画趣は、かなりむかしからのお気に入りで、生まれ故郷の広島県瀬田町の平山郁夫美術館から、滋賀県の佐川美術館などに足を運び、薬師寺の大唐西域壁画殿の落慶法要にも駆けつけた。
  日中の全国本部会長としてもずいぶんお力添えをいただいたが、「反ファシスト戦争勝利50周年」の95年には、「世界文化遺産の南京古城壁修復日本協力委員会」の代表に就任され、以後三年間この事業の展開に尽力された。
  わたしは南京には80年代に中山陵を中心とする観光で数度出かけているが、その後建設された南京抗日館には入館していない。“南京”についてわたしなりに学習はしているが、この“参観”は気が進まない。
平山先生の「南京古城壁修復事業」ならお手伝いしたいと申し込んだのは、もうその事業も終わりに近づいたころであった。上海でドッキングした数名との共同作業、重いものは若い人が運んでくれてわたしは手空きの都度、城壁の上から周辺を見回した。夜はあたらしくできた商店街から小運河の付近まで足をのばしたが、その賑わいのなかで歴史を振り返るのは息苦しかった。

  わたしにとっての中国で、その回帰点は92年になるだろうか。
春には小平の「南巡講和」があり、秋には「天皇訪中」があった。
いずれもが中国の改革開放にとって大きなターニングポイントになるものだが、そのころから江沢民政権が設定した「愛国教育」とその基地の建設が進む。
  わたしは基本的には「歴史教育」はそれぞれの国の問題であって、他からとやかく口にすべきことではないものだと思っているが、日中友好協会設立50周年記念集会が北京で開催された2000年の秋、盧溝橋にあった愛国教育基地で731部隊のカリカチュアルな展示物に戯れる子供たちを見て、案内の北京の方にクレームを申し入れた。展示品は、日本風にいうならばこのようなチャンバラ的なものであっていいのか、ヤッタ、ヤラレタというような展示で刷り込まれた子供たちのアタマ―「対日観」はどうなるのかと・・・。

  日本での「歴史教育」はどうなのか。
  現場には即していないので詳しくは存じ上げないが、一般的には教科書に順じながら古代からスタートして、明治あたりで時間切れ、「大正・昭和~」は自分で読んどきなさい、というケースが多いとか。戦後も数十年となれば結構「歴史」になるのだが、本人がよほど意識して勉強しないかぎり、日本と周辺諸国との近・現代史は空白状況となる。
  渡辺はま子の「ああ モンテンルパの夜はふけて」は知らなくてもいいが、日本がポッダム宣言を受諾して昭和天皇の「終戦詔勅」で敗戦、連合国による「戦争責任」裁判で絞首刑を含む判決と刑の執行により、「戦後日本」のスタートが国際的に認知された。「靖国参拝」が問題になるのは、A級戦犯として処刑された「戦争犯罪者」14名の処刑30年後の78年に、「昭和天皇」の不快感も無視して宮司の一存で(ホント?)このひとたちが「合祀」されたことにはじまる。爾来問題はクリアされずに繰り返され、国際的な波紋は広がってきているが、日本の敗戦を認めたのは米・英・中であり、その戦争責任を追及したのは「連合国」の法廷であった。
  エライ日本の政治家の先生方は、わたしのような愚生のわかることをご存知でないはずはないが、となると、「靖国参拝」にこだわるのはどういうわけになるのか。
  「夢が夜開く」のは、歌の世界だけであって欲しいものである。

                  (2014年11月11日 記)