くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾七

2014-09-02 16:05:32 | はらだおさむ氏コーナー
歌は世につれ・・・


春先に急性肺炎でダウンした。
病癒えて歯科医で定期治療のとき、5年有効の予防注射をしているのにとつぶやいたら、それがカバーするのは20数パーセントの肺炎球菌のみ、原因不明が30数パーセントもあり、口腔内、鼻腔内に巣くう肺炎菌も多い。口腔も筋肉、高齢化に伴い弱ってくる、鍛えなければと新聞の朗読を勧められた。それはねぇ~・・・と口ごもると、カラオケはと。それはダメ、一杯飲みたくなりますよ、という次第でボイストレイニングのコーラスをはじめることになった。
6月から入会したコーラスは女性四十数名(ソプラノ・アルト)男性数名で、まずからだをほぐす準備体操から♪アァアァア~♪と発声練習のあと、『日本のうた』『世界のうた』(野ばら社)から三曲ほど歌う。8月はじめの例会では♪こよなく晴れた青空に・・・あぁ~長崎の鐘がなる~♪を厳粛に合唱した。
カラオケもなかったわたしたちの世代は、「うたごえ喫茶」にたむろして見知らぬ人たちとロシア民謡などを合唱したものだ。先日の例会で男性メンバーのみのコーラス披露を所望されたとき、期せずして「ともしび」を選び♪夜霧のかなたへ 別れを告げ・・・つきせぬ乙女の愛の影♪と合唱して、むかしの“乙女たち”からブラボー!と喝采をうけた。

初訪中のとき(1964年2月~4月)、公司への答礼宴でわたしが歌ったのは♪アジアの兄弟よ はらから(同胞)よ♪ではじまる「東京-北京」であった。あとでホテルに駐在のひとから中国では宴席で歌う習慣がないとたしなめられたが、まだ国交未回復の“友好貿易”の時代、♪友情のしるしは 東京-北京♪が、やがて日中の津々浦々に響くことを期待していたのでもあった。あの宴席におられた(商談ではお目にかからなかった)片腕の方(たぶん戦傷者)がニコニコとわたしを見つめておられた情景は、いまも眼底にひそんでいる。

『世界のうた』には中国のうたが三曲収録されている。
「太湖船」(中国民謡)、「羊飼いの娘」(竹内実訳詩、にはオドロイタ、『岩波漢詩紀行辞典』編著の竹内先生のこと、まことに適任だが、これは知らなかった。作曲は金 砂)と「草原情歌」(中国民謡)。前の二曲は歌ったことがない。

1976年10月、北京。
わたしたち「ベトナム経済視察団」一行は、ハノイから南寧空港経由で北京に到着したばかり、「四人組逮捕」のニュースは南寧で耳にしていた。
この視察団は南北統一直後の訪越団でビルマ(現ミャンマー)~ラオス経由でハノイに入り、ハイフォン、ホーチミン(旧サイゴン)も視察のあとまたハノイに戻って、経済団体や貿易公司などとも接触した。
Mさんは総合商社の幹部でわたしと同年、東京外大中国語科の出身であったが、東欧圏の仕事が中心ではじめての、あこがれの北京入りであった。受け入れ・接待は中国国際旅行社、その夜の訪越団のお別れ宴はわたしたちもやっと口慣れた中国料理に舌鼓を打ち、アルコールに酔いしれてきていた。歌が出はじめた、Mさんも立ち上がり「草原情歌」を口にしはじめたとき、旅行社からストップがかかった。反革命、ブルジョアの歌だ、という、団員の「友好商社」の一部のひとたちも同調、反対の輪が広がる、わたしも「友好商社」の役員だったが、何を言っている、なにが反革命、ブルジョアの歌だ、中国の民謡ではないか、「四人組逮捕」のいまでも、そんな馬鹿なことを言っているのか、と怒鳴り、睨みつけ、Mさんの腕をとり、うながして「草原情歌」を歌いはじめた。♪はるかはなれた そのまた向こう・・・♪歌声は大きくなり、合唱の輪が広がる。♪ツアイナヤオユアンデイ テイファン・・・♪と中国語の歌詞が歌いつながる。もう反対する人はいない、乾杯の声が高まり、拍手、拍手、二番、三番へと歌いつがれていった。

 中国のひとが人まえで歌わないのは、むかしのはなし。
 80年代の改革開放で、“ハエ”と一緒に入って来たテレサテンのうたが中国の人の心を捉え、カラオケのヒットチャートとあいなった。
胡耀邦時代には長老たちの要請で“中国製”のカラオケソングも大分つくられたという。いまは題名も忘れたが、70年末のベトナム懲罰戦争で中国軍が苦戦していたそのとき、傷病兵を痛む“銃後”の恋人の心情を綴った歌がカラオケになり、ずいぶんと巷で歌い継がれた。ミシン部品訪中団が湖南省を訪れたとき、長沙市の宴席でもこの歌が披露され、大いに盛り上がったことがある。
 ところが、である。
 おなじころ、杭州での宴席ではテレサテンがもてはやされ、わたしも一曲♪月亮代表我的心♪を歌わされる羽目になった。“あなたをどれほど愛しているのか・・・本気で愛しているのよ・・・やさしい月の光のように”、まことに、甘ったるい歌で、歌っているほうが恥ずかしい限りであったが、宴席の中国の人からやんやヤンヤの大喝采とあいなった。

いまのカラオケは個室が主流で目的外使用もうわさにのぼるが、まだ90年代のはじめは、さながら歌唱大会のようであった。上海でわたしがその設立をお手伝いした日本料亭「河久」の併設カラオケ「雲雀」は最新のレザーディスク数千曲が評判を呼び、本命の日本料理を凌ぐ勢い、数十名は入る会場は夕刻から満席で、なかなか順番が廻ってこない、日本からの旅行者はあきらめ気味で酒盃を重ねあう。大きなスクリーンを背にステージに上がった一番手が歌いおわると、二番手も同じ歌を選曲している。まるで歌合戦、優劣を競い合っているかのようであった。
 これはまぁいいと、しようか・・・、
 わたしが吉 幾三の「酒よ」を歌って機嫌よくステージを降りようとしとき、ひとりの中国人がわたしにここはこのように歌ったほうがいい、小節(こぶし)をこう効かせてねと実演指導をしてくれた。日本ならこれはケンカになるところだが、本人は大真面目、後で名刺を見ると日本旅行専門のガイドのようで、吉 幾三の公演にも何回も足を運んだとか・・・いまはむかし、九十年はじめの中国カラオケ事始めのころのおはなし、である。

 先日コーラス仲間(先輩)とはじめて喫茶店で駄弁った。
 わたしが小学校を出ていないと自己紹介すると、その「意味」に気づいたひとりは、そうするとオレは小学校には入学したが卒業は国民学校だったなぁとつづける。そうか、卒業は小学校だったから、あんたより二つ若いか、ともうひとりが・・・。いずれもが傘寿前後の、後期高齢者、先輩諸公からいろいろと話が出る。
 11月の宝塚市の文化祭では、各サークルが出演することになっていると。
もうわたしは出演するものとばかりに、白いシャツに黒ズボン、蝶ネクタイがなければ予備はありますよ・・・。女性は構成上少し調整もあるようだが、男子は全員出演。いま練習中の、♪お江戸日本橋♪ほか二曲と話は続く。これはもう逃れられない。

 例会の最後はいつも全員が手をつなぎ、歌を歌いながらお別れのダンス。
 ♪①いつまでも 絶えることなく 友だちでいよう・・・、③信じあう よろこびを 大切にしよう 今日の日は さようなら また会う日まで・・・♪
          (金子 昭一 作詞・作曲「今日の日はさようなら」)

 わたしの初訪中から、半世紀がたった。
 ひと と ひと、まち と まち、くに と くに、
 あのとき歌った歌を、いま一度うたおう
♪アジアの兄弟よ はらからよ アジアに光をかかげよう・・・♪

(2014年8月11日 記)


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いってらっしゃい (ku-ma)
2014-09-07 09:27:47
はらだ さま
中国へ行かれるのですね
もう、出かけられましたか?
リアルタイムの中国、教えてくださいね
よい 旅を!

コメントを投稿