くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

さくら

2013-04-17 16:25:28 | 




今年も桜の季節が終わりホッとしている

桜の開花情報を見聞きすると、落ち着かなくなる

はやく見に行かなくては!!

咲き初めも見たい

満開桜も見たい

そして 散る桜のもとではなびらにうずもれていたい

あの人や この人達と桜を見に行く

常日頃 ご無沙汰の知人とも花見をする

いい時間だが

何にも手に着かない

その季節が終わった

いや まだだ

大阪は「通り抜けの桜」が今だ

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾壹

2013-04-04 23:34:20 | はらだおさむ氏コーナー

いまは、いいたくない


この『徒然中国』も六年目に入った。
さきほどその第一号の「ときは、春」を読み返してみた。
話の中心は中国映画「胡同の理髪師」の感想であった。
北京五輪前の、消えてゆく胡同に生きる庶民の姿を描いた、心にしみる映画であった。最後はつぎの一句でしめくくっていた。

<人は老い、この世を去るが、少子化の社会は衰え、活力をなくす。
日本だけではない、中国も高齢化が急ピッチで進んでいる。
「北京五輪」にこの「高齢化問題」を掛け合わせた監督の視点は鋭い。

ときは春だが、木枯らしの舞う冬は確実にやってくるのである。
                   (08年3月30日 記)>

このとき わたしは日中ビジネスから身を退き、冊子「ひねもすちゃいな 徒然中国」を編み、記念とした。竹内 実先生(京都大学名誉教授)に序文をいただいたのであるが、そのなかに次のような一節があった。「政冷経熱」が終わりを告げようとする時期であった。

「・・・せんじつ、漢俳の作句を依頼され、苦しまぎれに一句つくった。漢字で五、七、五をならべるのが漢俳である。

  結 氷 層 層 封
  双 方 不 乏 遠 見 人
  毅 然 送 春 来
    氷結びてかさねがさね封ずるも
    双方遠見の人乏(とぼ)しからず
毅然として春を送り来(きた)る
これは陳昊蘇(ちんこうそ)・中国人民対外友好協会会長のつぎの句をうけた。
 氷 雪 喜 消 融
 一 衣 帯 水 尽 春 風
 山 海 看 花 紅
   氷雪消融するを喜ぶ
   一衣(いちい)帯水に春風を尽くし
   山海に花紅なるを看る

陳会長のご尊父は陳毅外相である。それで拙句にお名前を入れさせていただいた。(NHK中国語テキスト4月号に掲載)。・・・」

昨年来 日中関係にまたまた厚い氷が張りつめているが、お互いにこれでよしと見なしている人は限られている。「日中不再戦」を心に刻み、この数十年「日中友好運動」に参画してきた身にとって、今回はかなりきびしい試練の日が続く。四十余年前はさらに「日中国交正常化」を求めない、内外の「勢力」や「論調」とも対応しなければならないことが多い時代であった。
文革中の中国では「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」「日本軍国主義」などとの闘争が展開され、日本では台湾(中華民国)との関係が微妙であった。
「友好貿易」と「LT貿易」の両輪で進められていた日中貿易も「人事往来」はすべて香港経由で進められていたが、「中共」に対する見方には厳しいものがあった。

<中国を知り、知らせる>日中国交正常化への運動として、お寺の境内にテントを張ってはじめた「中国物産展」は官憲の妨害を乗り越え発展し始めていたあのころ、「珍宝島事件」がおこった。69年3月のこと、ウスリー川中洲のダマンスキー島(中国名珍宝島)の領有をめぐる中ソ軍隊の衝突・発砲事件である。スターリン批判に端を発するフルシチョフの動向に対し、中国はそれを「修正主義」とみなして北京のソ連大使館などに“紅衛兵”たちの襲撃などがあったと耳にすることもあったが、この「珍宝島事件」はわたしには寝耳に水であった。あんなちっぽけな島を巡って、なぜ「社会主義国」間で戦火を交わさねばならないのか、「中国物産展」の会場でこの事件の写真の取り扱いをめぐって関係者間でいろいろともめたことを思い出す。
後で知ったのだが、国防大臣林彪の煽動がこの事件に大きく関わっていたという。戦闘が続き、双方に死傷者も出て泥沼に陥りかけたその年の九月、ベトナムのホーチミン主席の葬儀に参列したコスイギン・ソ連首相が帰途北京に立ち寄り、空港で周恩来総理と会談、一応軍事的緊張は緩和されたが国境問題は先延ばしとなった。
70年は、大阪万博の年である。
国交未回復の中国は参加できず、わたしたちは茨木の公民館で開催中の中国物産展会場から万博会場へ向け、機動隊にはさまれながら“台湾館粉砕!日中国交正常化促進!”をシュプレヒコールしてデモ行進した。
そのころ、わたしの会社はすでに北京に駐在事務所を設け、上海にも長期出張の社員が滞在していて、友好貿易はそれなりに順調に展開していた。秋の広州交易会が終わり、わたしは次の上海服装交易会準備のため上海の貿易公司を訪問した。ある商品を三年間輸入契約する前提として、公司の実務責任者に工場見学を申し入れた。山東省出身で、上海解放時(49年)少年兵であった彼も上海の女性と結婚、すでにベテランのビジネスマンであったが、いま工場は七夕まつりでダメという。天井から短冊がぶら下がっていて、仕事はしていない、工場見学ダメです、と断られた。あとで社員に説明を求めると“批林批孔”運動の展開中で操業していない、とのことであった。林彪が毛沢東の暗殺に失敗、ソ連に亡命しようとしてモンゴルに墜落・死亡、「四人組」は周恩来を「孔子」になぞらえてその打倒を図っているという。あの珍宝島事件はなんであったのか、わたしたちは政争の具に使われていたに過ぎなかったのかと思い知ったのであった。

キッシンジャーの電撃的な訪中のあと、ニクソン大統領も中国を訪問した。
日中国交正常化にしり込みしていた日本の政財界も動き始めたが、台湾グループの暗躍もあり、事態はスンナリとは進まなかった。しかし、72年7月 田中内閣が成立、日中国交正常化を公約したとき、わたしたち民間の日中国交実現を求める諸団体は全国からバスを連ねて東京の日比谷公園に集結、田中内閣が正常化できない場合は、即刻倒閣運動に移ることを決議して、田中総理の国交正常化交渉を強力に支援・激励した。
9月 北京での会談は田中総理の「ご迷惑発言」で交渉は難航するが、最後は田中の熱意と毛沢東の発言で暗礁をクリアして共同声明に至る。その詰めの段階で田中は周恩来に尖閣のことを聞く。「いまは、言いたくない」この含蓄のある周恩来の言葉に田中は息を呑む。これはいま持ち出すべき問題ではない、と。中国にも、日本にもいろんな国内事情がある、それぞれの懸案事項を一挙に処理することはできないと「棚上げ」にして、日中関係は正常化され、四十年がすぎた。
昨年の「石原発言」で尖閣問題が沸騰、その国有化で日中関係が氷結した。
いま、まったくの畑違いだが『いのちの旅~「水俣学」への軌跡』(原田正純・東京新聞出版局)を読んでいて、医師や学者や行政がどう対応してきたかを知った。メディアも最初からは患者の味方でもない。
「公正な報道」と謳うそのかげで「3・11」も、「想定外発言」から原発再稼動への「世論操作」に紙面が多く割かれはじめている。
昨春の「石原発言」はアメリカのヘリテージ財団主催の会合で行われた。その事実のみは報道されているが、この財団がネオコンのシンクタンクであるとは最近まで知らなかった。調べてみるとスポンサーはアメリカの軍需産業で、アジアで領土問題や歴史問題に緊張状態を煽る政策を推進するとある。この一年、日本は防衛予算を増額、アメリカからさらなる高性能のミサイルや兵器購入の契約をしている。
中国の国内でも、何があったのか詳しくは知らないが、わたしたちの知らないところで歴史がつくられているとあれば、それは恐ろしいことである。
(2013年3月31日 記)