くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

湖水地方

2013-05-29 21:52:31 | 



湖水地方

山のない英国で千メートルを超えた山の連なる

そして湖が点在し、旅人が数多く訪れる地方


石の外壁が珍しい




ピーターラビットの作者が、移り住み自然を守りながら暮らした地方

ワーズワースが湖水地方をさまよいながら「水仙」の詩を作られたところ





静かな山と湖の地方
大勢の観光客がおとづれる
5月に入り、暖かい日が数日あり花々が満開になったそうで
どの家にも花が咲き乱れていた
気温は10度から15度程度
暖流に囲まれているイギリスは、寒さが厳しくない










英国  ロスリン礼拝堂

2013-05-28 10:25:56 | 



ロスリン

映画 「ダ・ヴィンチ・コード」で有名になった
テンプル騎士団に属していた貴族により建設
映画で使われるまでは、静かな観光客も少ない礼拝堂だったらしいが
映画で取り上げられるや、観光客でいっぱい!!

エジンバラの近郊にある小さな礼拝堂
静かな小さな人気のない礼拝堂
この街には、人工授精の羊がいる



徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾参

2013-05-27 11:07:06 | はらだおさむ氏コーナー
サンファンのふるさと

昨秋 莫言さんのノーベル文学賞受賞の報を耳にしたとき、書棚の奥からかれの短編集『白い犬とブランコ』(吉田富夫訳・NHK出版)を取り出して、この日本語版に寄せられた著者のメッセージを読んだ。川端康成の『雪国』を読んで“電光石火”のごとくに浮かんだ着想がこの短編の書き出しとなり、「それからというもの、『高密県東北郷』がわたし専属の文学領土となった。わたしもそこら中を彷徨い歩く文学乞食から、その領土の王となった」と述べている。
わたしは中国地図集を開いて、かれの領土「高密県東北郷」を探した。
それは、山東省青島市の近郊にあった。
そこはまた、わたしの“サンファンのふるさと”でもあった。

わたしが北京から夜行列車ではじめて青島へ行ったのは、“四人組”逮捕の翌年の2月、駅前旅館?に到着早々、魔法瓶を二本手渡され、ススだらけの顔を洗った。軍の飛行場に民間機が就航するのはそれから2~3年後のことである。
 中国工芸品進出口総公司山東省分公司、これが今回の商談相手、北京の総公司とは基本的に合意していたが、具体的には現地でということにあいなって、仕切り直しの商談はその夜、この駅前旅館での“歓迎宴”ではじまった。60度は優にこえる“チンタオ・マオタイ”の一気飲み、同行の社員が次からつぎへと倒され、気がつけばわたしも部屋で服を着たままダウンしていた。
 メイズクッション、とうもろこしの内皮を天日で乾燥させた繊維、それを手編みでクッションに仕上げたものであるが、これを自動車用に補強したものを輸入したい、それも日本総代理店として長期契約したい、というのが今回の商談内容であった。そのころ日本ではマイカーブ-ムのハシリではあったが、カークーラーを装着しているのは、高級車のみ。真夏のクルマに腰掛けると、飛び上がるほど熱い。竹製やいろんなマットが製造・販売されていたが、会社の自動車用品部がこのメイズクッションに目をつけ、貿易部に開発輸入、それも総代理店方式のビジネスを提案してきていたのであった。
 製造現場は、郊外の農村にあった。
 生産は地元の合作社が一括請負、農家に手作りで賃仕事させていた。
 夏になると、辺り一帯は高粱ととうもろこしで覆われているという。
 莫言の、「紅高粱」の世界である。
 チャン・イモウの映画「赤いコーリャン」がヒットし、原作者の莫言が注目されるようになるのはまだ十年ほどのちのことになるが、その世界はこの周辺にあった。

 公司との商談も順調に進み、販促にテレビコマーシャルもはじめることになった。帰国後、広告代理店との打ち合わせで商品名を「サンファン」とすることになった。語呂のよい、覚えやすいことば、サン=太陽、ファン=扇風機、意味づけはどうでもいい、メロディも、歌詞も・・・となり、外人の女性のスカートが風でそよ吹き・・・というカットをなんどもくりかえし収録さされたこのモデルは、とうとう風邪をひくということに・・・。
 「サンファン」の売れ行きは、順調であった。
 翌年の契約で、販促のひとつとして大口販売先の中国招待旅行がとりきめられた。題して「サンファンのふるさとを訪ねて」、このキャンペーンの展開にはいろんな課題が浮かび上がってきた。まず参加者への中国事情、現地事情の紹介と受け入れ先(青島)の宿泊事情の問題などである。

 莫言のノーベル文学賞受賞後に手にした彼の作品のひとつに『白檀の刑』(吉田富夫訳・中央公論新社、文庫版も)がある。その文庫版(上)の裏カバーにつぎのような一文がある。
 「清朝末期、膠州湾一帯を租借したドイツ人の暴虐の果てに妻子を奪われた孫丙は、怒り心頭し鉄道敷設現場を襲撃する。近代装備の軍隊による非道な行いの前に、人の尊厳はありえないのか。哀切なマオチャン(猫腔)が響き渡り、壮大な歴史絵巻が花開く・・・」
 この作品は単なる歴史小説ではない、スト-リー・テラーとしての莫言の能力がつぶさに展開される“おはなし”であるが、その時代背景は上記のようになる。
 そして、義和団の乱のあと清王朝は崩壊、第一次世界大戦のあと、日本はドイツに代って青島を含めた一帯の租借権を受け継ぎ、45年の敗戦までこの地を支配している。日中の国交が正常化してまだ数年のこのとき、この地には日本の生々しい痕跡が残っている。

 得意先の役員から青島の丘の上の教会はどうなっていますか、あそこで結婚式を挙げたのですがと問い合わせがあった。調べてみると、文革が終ってもまだ改革開放が進んでいない当時のこと、教会は食糧倉庫になったままであった。
 初訪問時に眺めた海岸に連なる丘稜の、赤茶色の建物の数々は南欧の風景を思わせた。駅前旅館?の朝食も、当時の中国では見かけられない目玉焼きに野菜サラダがついたパン食であったから、これはまぁいいとして、数十人の日本人をどこに泊めるか。ホテルは夏場だけにオープンしている海岸沿いの桟橋賓館しかないが、これは避暑客で超満員、受け入れ側公司の大丈夫、まかせてくださいのことばをたよりに、キャンペーンが実施されることになった。

 一年後の初秋であったか、シャンハイ・イン~ペキン・アウトとその逆コースの二団が青島で合流することになった。わたしは先に青島で待ちうけ、公司と打ち合わせをしていた。本団は迎賓館(元ドイツ総領事館)、あとは海岸沿いの別荘にと分宿することになった。歓迎宴も終わり、わたしは三十余名の方と迎賓館に宿泊した。夜も更けたころ、同宿の社員からみんなが寝付けないと騒いでいると言ってきた。なんでも廊下を軍靴で行進する音が聞こえ、ときおり“ハイール、ヒットラー”と叫ぶというのである。それも、ひとりやふたりの話ではない、寝付けない、なんとかならないかという。とにかく寝れない人を大広間に集め、夜明けまで酒盛りをする羽目になった。
 翌朝、元重光公使(アメリカの戦艦・ミズリー号上で降伏文書に署名したあの重光外務大臣の北京大使館勤務時代の)別荘の三階の畳の間に宿泊した人たちは、夜中に浴衣を着た女性が窓から海の方へスゥ~と消えて行ったとか、別のところに宿泊したひとも松風のささやきが気味悪かったと話が続く。公司の人たちは、そんなバカな、と取り上げない、気のせいですよということになったが、そう、気のせい、なにか中国に臆する気持ちがあったのかも知れない。

 莫言のほかの小説を読んでいても、かれは声高に主張するわけではないが、こころのそこに残る思いを綴り、読者に話しかけている。
 『牛、築路』(菱沼彬晃訳・岩波現代文庫)の、『牛』は少年の目を通して文革中の人民公社の一断面を描いているが「これは無産階級文化大革命の偉大なる勝利である。この事件がもし、諸悪のはびこる旧社会で発生していたなら、三百八人の患者は一人として生存を望めなかっただろう」との語りは、ことのなりゆきから見ればこれは反語であり、痛烈な批判というべきであろう。
 『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳・中央公論新社)の表カバーには「これは禁書だ 現代中国根源の禁忌に莫言が挑む」とある、いってみればその通りであるが、中国のひとりっこ政策・産児制限は、当事者でなければその思いは体感できないであろう。この本の前半は、強制的な産児制限を描く悲劇であり、後半からはコミカル風でさえあるが、中国の根っこの部分でこれからも噴出してくるような問題の提起もある。裏カバーには「堕せば命と希望が消える 産めば世界が必ず飢える」とあり、さらに莫言のつぎのようなことばが記されている。「本書を書き上げて、八つの文字が重くわたしの心にのしかかっている。それは、他人有罪、我亦有罪(他人に罪あり、我また罪あり)」。

 サンファンのふるさとは、いまも、気にかかるところである。
(2013年5月22日 記)

英国  エジンバラ 

2013-05-23 23:43:55 | 
 



エジンバラ
スコットランドの中心地 首都
現在 眞子さま エジンバラ大学に留学中
世界遺産の街並みは、素晴らしい

エジンバラ城
スコットランドに英国城王が滞在中に住まわれる城
エジンバラの街を見下ろす斜面に建っている
13世紀ごろの建物で、王位継承に必要な英国最古の王冠・王杓・剣・
継承の椅子・「運命の石」が陳列されているグレートホールを見学

外に出て城下を見下ろせば、曇り空の下 新市街と旧市街が見渡せ
夏目漱石の訪れた当時を思った!!






英国  関西国際空港~マンチェスター

2013-05-22 10:36:22 | 






5月6日(月)~14日(火)まで
英国へ

カタール航空初乗車
ドーハでの乗り換えで英国までは時間がかかるが一度乗ってみたかった航空会社
カタール国の一部分だけでも、見たい気持ちでした
さすが石油産出国、空港の広さに圧倒される
機内からターミナルまではバス移動(20分ほど)

豊かな生活ぶりが垣間見られた空港内では、品物豊富 乗り換えの人でにぎわい
高級外車が展示され、各国の電気製品や腕時計、日本製品も並んでいた

カタール航空の乗り心地は、なかなかなもの
座席の広さも、座り心地もいい
トイレの掃除が行き届いている
夜間のサービスも機内最後尾では、飲み物、サンド、スナック、
カップラーメンなどありきめ細かい

マンチェスターからグラスゴーまでのバス移動(145㌔)
途中 グレトナグリーンに立ち寄る

イングランドとスコットランドの国境にあり、その昔は「駆け落ち婚」で有名なところ
スコットランドは宣言による結婚がきでたが、イングランドでは結婚宣言をし3週間までに
司祭に反対を申し出れば、結婚不可。
そこでスコットランドの小川の渡し場の鍛冶屋のグランド・スミスさんが仲立ちになり
2人の証人をつれ、イングランドの愛する二人を結婚させていた。
もちろん1856年には法律改正で、スコットランドに3週間居住しなければ結婚できなくなるが
・・・・・

今は、小さな博物館もあり静かなかわいい街でした


グラスゴー

グラスゴーはスコットランド西岸、製鉄 造船 商業 貿易の中心地で栄えたが
今は造船所がなくなり衰退 国富論のアダムスミスがでたところ

グラスゴーのクライド川ぞいのホテル


窓からの景色







ゴールデンウィーク

2013-05-06 17:10:07 | 四季おりおり
今年のゴールデンウィークは天候に恵まれた
肌寒い日もあったが、なんとも気持ちのいい日々が続いた



私は梅田のグランフロント見学をし、




長谷川義史さんの原画展を見






三番街へ 知人お勧めの「梅蘭」の焼きそばを食べ






阪神 広島戦を応援に甲子園へ行き(まけた)




毎年見事に咲く桐の花を見に出かけ






ボランティアで民家の囲炉裏番をし




そして茶会をし










本日夜からしばらく旅に出かけます

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾弐

2013-05-03 16:38:15 | はらだおさむ氏コーナー

虚(むな)しい?中国


 大阪造幣局の桜の通り抜けがはじまったころ、在日二十数年の初対面の中国の方にお渡ししたわたしの名刺のことからこの話がはじまる。
わたしの名刺には「『徒然中国』通信 はらだ おさむ」と住所、メールアドレスが書かれている。この方とは初対面であるが、在上海の文字通りのわたしの“老朋友”のご子息で、上海から転送されてくるお孫さんの写真などを通じて熟知の間柄であった。
 会食後同席の日本人(この方とも初対面で名刺を差し上げていた)から、「徒然中国」を中国語としてみると「虚しい中国」という意味になるがとかれは話していた、ご存知でしたかと聞かれた。「徒然中国」を中国語で読むという発想はわたしの脳裏に浮かんだことはないが、漢字のほとんどは中国から渡来したもの、エ~ット度肝を抜かれたわたしは「中日辞典」をひっくりかえし、中国語に堪能な友人・知人にもメールで確認した。中国語「徒然―ツ・ラン」は、たしかに「(副)むだに、むなしく」とある。
 ネットでも「徒然中国」を検索してみた。
 「徒然中国留学日記」「正月徒然―中国滞在記」「徒然中国株投資日記」とわたしの前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」がヒットした。
 わたしはこの題字を「徒然に想う中国」の意味でつかっている。もちろん兼好法師の「徒然草」の書き出しがこの題字の発想の基になっている。お読みいただいている方も、またこの名刺を手にされた日本の方もこの発想が基になっていることは「暗黙の了解事項」であろうと思うが、名刺というものは初対面の方にお渡しするもの、特に中国の方では誤解が生じやすい、これは中国語に弱いわたしにはありがたいご指摘であった。
 老朋友には毎回お届けしているこの『徒然中国』の、最新の三号分を後日ご子息に読んでいただき、感想をいただいた。すばらしい文章です、日本語の文章の題字『徒然中国』ですから、日本語の読める中国人でもこの題字は日本語としてよく理解できますとのことであったが、わたしはやはりこの名刺はまずい、「『徒然中国』通信」を削除した新しい名刺をつくることにした。
“覆水盆に返らず”ではあるが、一月末中国の“高級知識人”北京電影(映画)大学教授の崔衛平女史(『徒然中国』其之五拾九「冬来たりなば・・・」ご参照)に差し上げたこの名刺を、彼女がなんと読み、なんと理解されたか、日本語のできない崔女史が「虚しい中国」通信を書いている「原田 修」(名刺には漢字でこう書いておいた)と記憶されているとすると、これは弱ったなぁ、と思う。いや、日中国交正常時の中国の「戦時賠償請求権の放棄」や日本の「ODA資金」などについて同女史の意見を求めた、“気に食わぬ日本人”の類と思われたかもしれないが・・・。

 わたしはいまの中国について、ときには腹立たしい気分になることもあるが、“虚しい中国”と思ったことはない。
 小平の「南巡講話」のあとのこの二十余年、中国経済は大きく発展し、いまやアメリカに追いつき、追い越そうとする世界の大国になった。
 しかし、三十数年前の文革直後の中国はどうであったろうか。

 華国鋒政権時代、日本に大量のプラント発注が舞い込んだことがある。
 わたしの会社にも自動車部品関連のプラントの引き合いが舞い込み、総公司副総経理を団長とする視察団が日本の工場を見学、技術者同士で綿密な打ち合わせを行い、来春さくらの咲くころ正式に調印しましょうと仮発注書を取り交わした。しかし、かれらが帰国後ほどなく、他社のプラント商談をふくめ一斉にキャンセルとなり、日本側の延べ払い提案にも応じない。キャンセルの理由も、説明もない。会社の北京事務所から当の公司の窓口にせめてメ-カ-に対する書状でもと求めたがそれにも応じない。わたしの大学の先輩になるメ-カ-の担当部長は役員から追及されて責任問題になってきていた。わたしは北京に飛んで副総経理に面談を求めた。やっとのことでアポが取れたとき、わたしは録音器を懐にしのばせて公司に赴いた。謝罪の言葉は一切なかった、国の方針による、の一言のみであった。通訳を交えたそのやりとりの録音は帰国後メ-カ-の役員に届けられ、担当部長の責任問題は回避されたが、中国とのお付き合いはしばらく見合わすと通告された。

 文革が終わって、はじめて中国の紡績関連の工場を見学したときのこと。
 自動織機は動いているが、従業員は三々五々工場の片隅にとぐろを巻いてタバコをくゆらせ、寝そべっている。糸が切れようが、油が飛んでシミができようがおかまいなし、B級品の山が次々と出来上がっていく。だれもが機械を止めて修復しようとはしない。
 わたしは工場長にこんなことでどうするんですか、と難詰した。
 かれは「四人組」のせいと、両手を広げる。
 わたしは思わず、大声を張り上げた。
 江青がここに来てオシャカの製品を作れと指示したのか、あなたのアタマが
「四人組」に毒されているのではないか、こんな生産状況ではつきあいができない、キャンセルだとドヤシつけた。
 なげやりな現場、荒んだ青年たちの行動に、わたしはどうしようもない怒りと悲しみにとらわれた。もうこんな中国にはつきあえないと「虚しい」気持ちがこみ上げてきた。わたしは中国ビジネスから足を洗おうと思った。

 前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」に「老学者の涙」という話を載せている。少し長くなるが、その一節をご紹介したい。
 「77年の秋であったろうか、わたしは青島から上海行きの夜行寝台車に乗っていた。コンパートメントはふたりの華僑と老人(中国人)そしてわたしの4人が同室であった。上段のふたりははやばやと寝てしまい、わたしは手酌でホットウイスキーを舐めながら文庫本を読んでいた。老人もなにやら口に含みながら読書に余念がない、どうも洋書のようである。タヨリナイ英語で自己紹介しながら、ウイスキーを勧める。彼の英語もたどたどしい、見るとはなしに彼の本をのぞいて見るとドイツ語のよう、ドイツ語は話せるかと聞いてきたが、ナイン。それから差しつ差されつの、英語、中国語チャンポンの会話が始まる。
彼は石油関連の地質学者のようであった。これから上海の国際会議に出席する、家は無錫にあった、3代続く学者の家であったがいまはもうない・・・とはなしが続く。もうどの辺だろうか、カーテンを少し開けてみるが漆黒の闇。と突然かれが外を見やりながら泣きはじめた。この暗闇のなかにも農民がいる、毛沢東も周恩来も、小平もこの人民たちの幸せを願って革命をしたはずなのに、この10年の文革ですべてがダメになってしまった、わたしの教え子や部下たちは全部いなくなってしまった、わたしはもう70に近い、もう一度中国が栄光を取り戻す日を見ることが出来るだろうか。
 わたしはツタナイ英語と中国語でかれを慰め、励まさねばならなかった。
 日本は明治革命後も民主国家をつくれず、逆に中国などを侵略、敗戦ですべてを失ってしまった。しかし、日本人はいま新しい社会をつくろうと頑張っている、あなたの国もこの困難を乗り越えて必ず素晴らしい社会を作り上げますよ、きっと・・・。
 老人はわたしの手を握り締め、中国のため、あなたたち日本の方は力を貸してください、お願いしますよ、とつぶやくのであった。
 わたしは所用で南京で下車、この老学者と別れた。
 わたしはもう一度中国で仕事をしようと決意したのであった」

 「虚しい中国」は、もう、さようならである。

(2013年4月24日 記)