くに楽

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古文書徒然(五)

2013-07-29 09:32:51 | はらだおさむ氏コーナー
クサい おはなし(2)
ウンコはいつから肥料になったのか。
 日本や中国など水耕栽培農業(稲作)のあったところは比較的早く野グソと縁が切れたが、西欧では街中に撒き散らかされて伝染病の発生源となり、ロンドン留学中の漱石はそれが原因で鬱(ウツ)になったとも耳にする。
 日本で稲作栽培にウンコが肥料として使われたのは鎌倉時代以降といわれているが、それが経済的に意味をもつようになるのは江戸時代、江戸や大坂などの都市の形成と綿・菜種など経済作物の登場以後のことである。
 町方では下屎の処理が衛生上の観点からも必要になってくる。

 安永三年(1774)の御触では、その前文において「往古ハ」の書き出しで、下屎をめぐる経過を概述している。最初は百姓が「勝手宜場所」で「家々江相対仕」、「下屎価として菜・大根之類」を渡して下屎を集めていた。ところが町方人口の増大につれ、農作業の合間の屎取りでは間に合いかねることもしばしば起こり、下屎処理の急掃除人が出現、「直段せり上、全急掃除人中買仕候故、高直ニ相成」と説明している(『大阪編年史』第11巻P166)。
しかし百姓も「同様請入候」と町方へ出かけて下屎を処理する「直取引」(直請)を続けている(寛永6年=1629、西成郡江口村に「大坂買屎」)。
明暦・万治期(1655~1660)、急掃除人の「町方下屎仲間」が大坂町奉行の公認仲間となり、元禄期(1688~1704)ごろまで農民への下屎販売を独占(安く買って、高く売る)していたといわれるが、元禄十一年(1689)の、尼崎藩領西新田村で平駄舟9艘、道意新田7艘の屎舟所有の記録(「瓦林組舟数御改目録」*)は、百姓たちの「直取引」継続を裏付けるものであろう。 
 享保八年(1723)では、西新田村と道意新田の屎舟は、前者が十石積8艘、後者が同3艘並びに平駄舟24艘(「生津組掃除・通船改帳」*)、文化二年(1723)には西新田村十石積屎舟8艘、道意新田同3艘、平駄舟25艘(「元文弐年 船御改帳 控」*)とむしろ増加している。町方戸毎の「直取引」はなかなか杓子定規にはいかなかったものと見える。
 明和六年(1769)の「三郷町割」を見ると、西新田村の汲み取り箇所は「南安治川二丁目、同四丁目」、道意新田は「小右衛門町、古川一丁目」となっている(『図説 尼崎市史[上]』)。昔からのお馴染みさんとのつながりは強かったようである。
 (*はいずれも「地域史研究」第15巻1号『江戸時代前半期における武庫川尻村々の屎舟』に紹介)

 下屎が「金肥(キンピ)」になると、供給側の姿勢も変わってくる。
 『ウンコに学べ!』(有田正光・石村多門著)からいくつかの挿話を孫引きしてみよう。
 滝沢馬琴の日記(天保二年七月十八日)では新しく来た汲み取り人が、ナスを250本しか持ってこなかった、これまでより50本少ないと書いている(P90)。
 なんとシブイこと。
 安永三年(1774)に出版された江戸小噺集にはつぎのような落語が掲載されているとか。
 「さる田舎侍、にわかに便意を催し、物陰にて用を足す。あまりの大なるものなれば、辻番に置いてくるのも口惜しく、左ねじりを懐紙にくるみ、袂に入れる折ふし、向こうから『肥え買おう』と呼びつつ、肥え買い来かかる。『小口にても買うか』と問うに、肥買い『お屋敷はどちらでございます』『そんなおっくうなことではない。ここにある』と袂から出せば、肥買い、あたりをはばかり、声を潜めて『まさか、出の怪しいものではございますまいな』」(P91)。

 『江戸のおトイレ』(渡辺信一郎著)では古川柳などからの分析がある。
     店中(タナジュウ)の 尻で大屋は 餅を搗き
 大屋の収入は「大略百両の株の年給廿両、余得十両、糞代大概凡そ三四十両を得る。(略)糞代は家主の有とし、得意の農夫に売之」(『守貞漫稿』)と紹介(P189)、これだけの屎代があれば歳末に餅を搗き、店子にふるまうことも可能だったと解説している。







クサい おはなし(3)

はなしを「売手屋」にもどそう。
 時代は若干ずれるが、尼崎の城下町の戸数と人口は、すでに寛文九年(1669)ごろ戸数1,424、人口は14,089人、天和・貞享年中(1681~1687)では戸数1,475、人口14,113人となっている(「地域史研究」第10巻3号、尼崎領内高・家数・人数・船数等覚)とあり、城内の屎尿汲み取りは東新田村が請け負っていた。城下においても「直取引」があったことは前述訴状のとおりである。

 ところで「売手屋」の米三石の屎代は、いかほどになるのか。
 上記数字からみて、一戸の人口は平均十人となるから「売手屋」の汲み取り対象人口は、その申し開きが正しければ七戸x十人=七十人x十二ヶ月(一年)=八百四十人となる。
 元文五年の大坂在方米価は、石平均84.5匁である(山崎隆三著「近世物価史研究」P178)。これをいまの時価換算でみると、約16万円/石、キロ当たり1,070円となる(注)。屎代米三石は84.5x3=254.35匁、ひとりあたりの屎代は0.3匁/年となる。
前掲「安永三年御触」では「如斯直段相極候ヘハ」と屎の値段をつぎのようにきめ、告示している(P168)。
ひとつの基準は米相場との連動、「壱石ニ付五十目を真に立置」、対象年齢を六歳以上ときめて「壱人ニ付壱匁弐分宛」とし、米相場が四十目のときは「壱匁四分」として、この価格にて相対取引するよう指示している。

しかしである。
「ウンコの値段には五段階の価格差があり、大名屋敷が特上で牢屋のウンコが最低。長屋のウンコは下から二番目のDランクであった」(『ウンコに学べ!』P90)。
「売手屋」の屎のランクは不明だが、この屎代0.3匁はどう解釈すべきか。やはり「肥之とい屋」として、野菜や大根ではなく銭をちらつかせて安く買い叩いたのであろうか(基数人数が減れば単価も高くなるが)。

天保九年(1838)の大坂下屎一件・村々調印書(尼崎市史第六巻P40)によると、「壱人分下屎代銀弐匁五分」とあり、さらに「下屎代之儀は、代銀百目(つまり四拾人分)に付壱ヶ月六荷つゝ候事、但し壱ヶ年七拾弐荷相定成事」の条文が付記されている。一荷1.39匁となる。
 「売手屋」事件より六年後の延享三年(1746)の、西成郡江口村における史料では、1.93匁/荷、五十年後の寛政二年では2.62匁/荷となっている(小林茂著「近世農村経済史の研究」P94)ので、2匁/荷(時価3,740円)として計算してみると、この「売手屋」の屎の量は約百二十七荷となる。
 前掲『ウンコに学べ!』(P95)によると、壱荷は二斗樽相当(約四十キロ)とあるので、これを援用・計算すれば「売手屋」の米三石の屎の量は、二斗樽換算で約百三拾樽、重量で五トン強/年となった。いわばトラック一台の積載量である。これでは十石積屎舟数艘分にしかなるまい(米十石は1.5トン)。

 計算の視点を変えてみる。
 四十人で年七十二荷であれば、八百四十人では千五百十二荷となる。
 二斗樽換算で千五百樽は六百トン、十トントラック六十台(毎月五台)の屎の量であれば「取溜メ」置き、「小売ニ仕候」が可能となるであろう。

(注)林 英夫監修「音訓引き 古文書字典」(柏書房)の付表4「江戸時代の貨幣と相場」によると、元文二年の換算率は金一両につき銀53.5匁とある。時価換算において金一両を十万円として計算した。



クサい おはなし(4)

急掃除人の「町方下屎仲間」が大坂町奉行の公認仲間となり、大坂三郷(人口三十万人)における下屎処理が独占事業になった後も、摂河地区農村から町方での下屎取引が行われていたのは、西新田村などにおける屎舟の増加推移で見てきたとおりである。寛保四年(1744)では、摂河全村の四分の一にあたる二百数十ヶ村が大坂三郷で取引をしており(『図説 尼崎市史(上)』)、各所で「町方仲間」との争いが激化、在方も結束して「仲間」を結成、大坂奉行へ陳情を繰り返す。

 「売手屋」事件は、こうした流れのなかで発生したのであった。
 
 明和六年(1769)、「摂河在方下屎仲間」三百十四ヶ村の惣代から東町奉行所に、急掃除人による下屎汲み取り請負の全廃と村方による完全管理を求める願書が出される。
 下屎処理をめぐる「町方」と「在方」のトラブルに手を焼いていた大坂町奉行は、いくつかの条件をつけてこれを公認、寛政二年(1790)には急掃除人も全廃してその所有屎舟百四艘を在方に譲渡、農民が完全勝利を獲得したのであった。その後屎舟の往路の積荷(野菜や縄・むしろなどの農業加工品)などをめぐっての、過書船ほか河川流通の特権を握る「川舟仲間」との争いにも決着をつけ、在方屎舟はゆるぎなき力を発揮する。
 この下屎処理、その後11月末までに翌年の屎代金の現金払いのとりきめ、庄屋の当番制による管理体制などいろんな問題を抱えながらも、「摂河在方下屎仲間」により明治までの百年間継続されている。しかし、屎代金の立替・融資、請け入れ場所の譲渡や売買、屎舟所有の有無などで在方内での所得格差による矛盾が目立ちはじめる。農村内・間における屎の「仲買」商売が次第に拡大してくるのであった。

 元文五年の「下屎訴状」事件は、つまるところ在方の、町方に対する戦いの烽火であり、歴史に残るものになったのである。

 それから十六年後の宝暦六年(1756)、札元・別所町売手屋善右衛門が尼崎市史に登場する(『尼崎市史』第二巻P537)が、そのつながりは定かではない。
(2008年1月7日 記)

  史料の選択ならびにその解釈などについて、尼崎市立地域史料館のご指導・アドバイスを賜りました。厚く御礼申し上げます。

参考図書:
・『尼崎市史』(第2巻、3巻、6巻)
・『図説 尼崎市史』(上巻)
・『尼崎地域史事典』
・『地域史研究』(第10巻第3号、第15巻第1号)
・『大阪編年史』(第27巻の索引により「下屎」関連の10余巻)
・『新修 豊中市史』(第5巻)
・山崎 隆三「近世物価史研究」(塙書房)
・小林 茂『近世農村経済史の研究』(未来社)
・有田 正光・石村 多門『ウンコに学べ!』(ちくま新書)
・渡辺 信一郎『江戸のおトイレ』(新潮選書)
・プランニングOM編『トイレは笑う 歴史の裏側・古今東西』(TOTO出版)
・中村 克己『お江戸の意外な生活事情』(PHP文庫)

大英博物館

2013-07-26 14:24:07 | イギリスの旅
イギリスらしい博物館
世界各国の遺跡や遺品、作品が収集されている






椅子に飾られた武器






武器で木のモニュメント





キャノンのカメラ



アジア地域の展示








日本からは九谷焼の花瓶



そして、人骨


ミイラ









古代ローマ時代の壁画



























たくさんの展示品で、時間がいくらあっても足りない

素晴らしい博物館です









ウィンザー城

2013-07-16 19:33:32 | イギリスの旅
女王陛下はこの城におられた


ロイヤルステーション 


お召し列車




電話ボックス


ウィンザー城の城下







ウィンザー城






この旗が揚がっていれば、女王が滞在されている



女王陛下はこの建物に滞在されている


白いチューリップの花


藤の花  (この城も花壇がきれい)


衛兵の交代 (衛兵の帽子が1つ10万円ですって)






疲れると少しの距離歩いてもいいんだって!









バッキンガム宮殿

2013-07-16 17:51:11 | イギリスの旅
女王陛下は留守だったけれど騎馬兵は見ることが出来た

女性の隊長さん かっこいい!!









公園と花と銅像に囲まれた宮殿









エジンバラの象徴ユニオンジャック
(7月の市民投票で英国から独立することに決まれば、この像の行方は・・・・)



衛兵の交代  差別になるので身長は問わないとか









この2階建てバスに乗って観光した 



歩行者用信号機 道を横切りたいとき自分で押す



オリンピックの時のポスト  これは今年だけのものとか


いま建設中のガラスのビル(世界1になるとか)資本はカタールから



チャーチル元首相の銅像



自転車で出勤かな?
















徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾四

2013-07-01 09:31:04 | はらだおさむ氏コーナー
ならぬことは、ならぬ

 
NHKの大河ドラマ「八重の桜」は戊辰戦争も終わって、舞台は会津に移る。
その歴史的解釈にはいろんな見方があろうが、「ならぬことは、ならぬ」とは重いことばである。

昨秋マイル‐ツとは直接の関係はないが、豊中市(大阪近郊)の「原田村」の領主のひとり・旗本鈴木兵九郎(三千石)のことをすこし調べた。三代目までは神田川に面した駿河台の鈴木町(昭和八年までこの呼称があった)に数百坪の屋敷があったが、そのあと数十年の所在は不明で、文政五年(一八〇八)に駿河台の淡路坂を上りきった角地に七六二坪の屋敷を見出す(『江戸城下武家屋敷名鑑』幕府普請奉行編/原書房)。この不明の数十年、江戸の武家屋敷をくまなく探求、番町(旗本の番士が多く居住していた)に領主の通称のひとつに該当する、大名屋敷と馬場に囲まれた小さな角地(屋敷)を見つけたが、それと確定する史料を見出すことはできなかった。しかし、この番町の、旗本軍団敷地あとの大部分が、いまの靖国神社の境内になっていることを知り、歴史の重層に触れた思いがした。

靖国神社の前身は、東京招魂社である。
いまも山口県を筆頭に鹿児島県など幕末の“志士”を輩出した諸県に招魂社が数多くあるようだが、九段の招魂社も戊辰戦争など“官軍”の戦没者を祭るために創建された。敗れた“賊軍”やその後明治政府に反旗を翻した西郷隆盛などは対象外である。明治12年に靖国神社と改称され今日に至るが,“侵略戦争”の筆頭・A級戦犯を合祀したことで問題をさらに複雑化させている。

「八重の桜」はドラマであるから、会津攻防戦における主人公・八重の奮闘が主題になるのは当然の成り行きであるが、“官軍”は敗残兵の屍体の処理を認めず、鳥獣のなすがままに処した。見るに見かねた百姓たちが埋葬したところこれを咎められ、庄屋が投獄の憂き目にあったという。「島原の乱」でもそうだが、“反逆者”に対するこうした残虐な“見せしめ”は、のちの“三光作戦”にも通じるものがある。加害者はすぐに忘れるが、被害を受けたものの“怨”は心の奥底にいつまでも残り、伝承される。会津の人たちの心の奥底に残るこの“怨”が、折に触れ噴き出すのである。
この会津戦争が終わって百二十年ほど経ったころ、山口県の萩市から会津若松市に姉妹都市提携のプロポーズがあった。もう仲良くしましょうとの申し入れだが、会津としてはまだ百二十年、はい、そうですかということにはならなかった。「3・11」のとき、萩市から義捐金と支援物資が会津若松市に届けられた。震災処理が少し落ち着いたころ、市長が萩市に出かけるというので記者たちが騒いだ。仲直りですか、との問いかけに、市長は「震災見舞いの返礼」に行くだけと答えたという。そして、そのことがまた話題になったと、現地へボランティアに行った人から洩れ伝え聞いた。


1983年はわたしが日中貿易から、対中投資コンサルタントに業種転換した思い出の年である。ちょうど「大阪城築城四百年」とかで、大阪府市や財界などが連携して「大阪21世紀協会」を設立、その記念行事のひとつとして“御堂筋パレード”が実施されることになった。わたしの所属した団体にも主催者側から友好都市上海からの参加要請依頼があり、上海歌舞団と幹部一行十数名が来日することになった。その最終決定の理事会はシャンシャンで終わるはずであったが、ひとりの理事の反対意見で大荒れになった。「大阪城築城四百年」記念とはなにごとであるか、秀吉の朝鮮侵略をなんと理解するのか。これを認めることは、中国に対する侵略行為をわが団体が容認することにも繋がると云々。会議は沸騰、対韓国と中国では問題が違うとか、四百年前のことまで問題にするのか‐未来志向で行こうではないか、さらには主催者側にこの築城四百年記念を削除するよう申し入れるべしなど議論は百出。最後は多数決で原案どおり可決されたが、反対意見の理事との確執は後々まで残った。
11月3日、花車に先導された上海歌舞団の舞姫たちの楚々とした踊りと行進は沿道を埋め尽くした群集の歓呼を浴びた。そして、この“御堂筋パレード”はその後25年の長きにわたって秋の大阪の風物詩として市民に親しまれる催事となった。わたしどもの団体で議論が百出した「大阪城築城四百年」記念のタイトルは、第二年度目から(静かに)消えている。
こうした論議の“副産物”とはいえないが、それから数年後、在阪の韓国人グループを中心に古代からの日韓交流を見つめなおそうという動きが出てきて、「天王寺ワッソ」として結実した。“ワッソ”とは古ハングルで“ワッショイ”を意味する由。聖徳太子の時代、国の“外交賓館”であった四天王寺と難波津を結ぶゆかりの街々を、当時の衣装をまとった日韓の高官や民衆が練り歩くというイベントであった。後日談になるが、この催事の準備段階で知己を得た韓国の経済人と中韓国交正常化前後の「中韓経済交流」促進のお手伝いをしたことがある。

「八重の桜」からずいぶんと話が飛躍してしまったが、過ぎたる日々を思い出すたびに昨今の「日中」「日韓」の不協和音が気になる。
中国や韓国の人々は「靖国」とは何たるかも知らずに騒いでいると日本では思われているが、“党籍”を剥奪されてまで靖国に“参詣”してその実態を調査したひともいる。そのひとりが「長城万里図」や「上海の朝」などの作者・周而復である。かれは抗日戦争時代ジャーナリストとして活躍、解放後作家・書道家として日本とも交流・知己も多く、中日友好協会副会長、文革後は文部次官にも就任するが、85年の訪日時に靖国に“参拝”、“党籍”剥奪処分とあいなった。のち、「長城万里図」執筆などの調査のためとの“釈明”が認められ、復権した。
04年4月の清明節に、関西日中関係学会では1月に逝去(享年90歳)された周而復先生を偲ぶ講演とTVドラマ「上海の朝」(本邦初上映)の夕べを開催した。すでに「長城万里図」第一巻(上、下)は邦訳・刊行されていたが、21世紀日中翻訳会の代表・伊井健一郎姫路獨協大学教授(当時)や監修の竹内実京都大学名誉教授も出席、故人の業績を偲んだ。この大河小説は日中戦争のすべての局面を、関係する重要人物~毛沢東から東条英機までも登場させて描きつくしている。すでに第五巻12冊まで翻訳刊行され、今年中に第六巻3冊が刊行、完成の運びとなる由。これも大河小説に匹敵する大事業である。

テレビでは「八重の桜」の会津篇はもう少し続くだろうが、死者はもう甦ることはない。しかし、江戸二百五十年の社会はなんであったのか、そして大政奉還・王政復古は日本の「夜明け前」にはならなかったことも、もう少し考えてみたい。


 また暑い日がやってくる。
 原点をわきまえないひとたちが蠢動、妄動する季節である。
 だが、ならぬことは、ならぬともう一度考えつくしてほしいものである。

(2013年6月26日 記)