くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

原爆ドーム・広島城・縮景園 (広島県)

2012-04-23 00:42:57 | 





思いがけず、スペインの旅の同行者の宿へ
やはりスペインの旅でご一緒のご夫婦と
久しぶりの広島を訪れた
新幹線・さくらで1時間20分

桜は満開

午前中は雨
昼過ぎからは太陽が顔を見せ
市内を見学しながら、夜はナイター見学をした

★広島市内の広島城・美術館・縮景園に入ったが65歳以上は入場料無料
 出かけるときは、身分証明証をお忘れなく

★ホテルニューよりしろ
 広島駅から歩いて5分ほどのホテル
 宿泊料 1泊 1人 3500円

ホテルは、家族で経営されていて清潔です
 オーナーのお人柄がにじみ出ていて、居心地のいいホテルです
 この値段なら、青春18きっぷを使って、何度でも訪れたくなるホテルです
 もちろん、食事や見物の相談も気さくに教えてもらえます。
 食事は、広島名物の広島焼きもカキ料理もおいしいですよ。
 
 朝食つき 
 (パン・おにぎり・バナナ・ゆで卵
  コーヒー・紅茶・コーンスープ・味噌汁)
 到着時に、ペットボトルの水か飲み物プレゼント

 マツダ広島球場にも歩いて15分ほど

 TEL 082ー263-0418
 FAX 082-263-0436






ブータンの人々

2012-04-21 00:39:14 | 






男性用は「ゴ」
女性用は「キラ」

民族衣装を着せてもらってディナーを食べたが、日本人にはなじみの着物に近い
襟も着物風打ち合わせ、女物はウエストまでの上着と巻きスタート
上下同色もあり、色合わせをして上下別色の織物もある。
男性は、着物によく似た長い上着を腰できつく帯で巻き膝までたくし上げ
ゆったりと着る。
足はハイソックスに革靴、儀式では刺繍のされたブーツ

山繭のシルクのものや木綿の織物で、我々のガイドさんは36枚持っているとのことでした。
そして、お祭りにはみんな一張羅を着て集まるそうです。

かっこいいですよ


(以下は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3 より)

ブータンは、1989年より日常着として公の場での民族衣装の着用を国民に義務付けた
公の場とは、公的機関(ゾンや役所など)、寺院、学校、公式集会、公式行事をその範囲としているが
近年その解釈が厳格になり、現在は自宅以外の場所として認識されている。
違反した場合の罰則規定もある。
警察・軍などの制服職、外国人、ネパール系住民、固有の衣装を持つ少数民族はその限りではないが、
無用のトラブルを避けるため着用せざるを得ない人も多い。
公務員は職務中、いずれの民族であれ民族衣装着用が義務付けられる

正装の場合、「ゴ」の上にカムニと呼ばれるスカーフをまとう。
スカーフの色は身分によって分かれており、
一般市民は白、
大臣クラスで濃いオレンジ、
国王はサフラン色と決められている。

「キラ」は3枚の布を繋ぎ合わせた大きな布を巻衣の状態で、肩の部分をコマという留め具で固定する形で着用する。
ブータン人は着道楽とも言われ、余裕のある人々は衣装や装飾品に糸目をつけないことでも知られる。
近年日常着としての機械織りも普及してきたが、伝統的な手織りの織物は現在でも珍重されている。
「ゴ」や「キラ」は織物で有名なクルテ地方、タシガン地方、カリンなどの東部で生産されるキシュタラ、メンチマタ、ルンセルマなどの絹織物を使って作られる。野生絹(ブラ)を使った織物も有名。祭の晴れ着などを有名産地や織り子にこだわって個人的にオーダーする人も多い。寒冷なブムタン地方では、ヤタと呼ばれる毛織物も有名である。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾

2012-04-19 20:10:58 | はらだおさむ氏コーナー
                
「チャイナ・ナイン」
      
 アマゾンから3月16日発売本の、先行予約受付のメールが入ったのは3月のはじめ、全人代の開幕前であった。遠藤 誉「チャイナ・ナイン-中国を動かす9人の男たち」、一瞬購入をクリックしようとしたが、待てよ、これは図書館で買ってもらって、大勢の方に読んでいただく方がいいのではと思い直した。
 地元の図書館から入手・閲覧の案内がきたのは4月上旬、第一号の閲覧者である。

 いつものクセで、まず、目次をにらむ。
 どうもこのところの悪いならいだが、推理小説をのぞいてはじめから読むことが少なくなっている。
目次の終わりに近いところに「第五章 対日対外戦略」があり、<民主党政権の失態>の文字が目に飛び込んできた。
 ページを開く。
 09年12月、来日の習 近平副主席の「天皇拝謁」の問題である。
通常一ヶ月前の申し出を「特例による会見」に持ち込んだ事件、「日本国民」の神経を逆なでし、世論は硬化した(ようにメディアは騒ぎ立てた)。
 <この「事件」により、本来ならば日本に好印象を持ったかもしれない習 近平を「日本」といえば、あの「バッシング」という連鎖反応へと導くきっかけの一つを作ったことだけはまちがいない>と筆者。
 なるほど、わたしはすっかり忘れかけていたが、「日本国民」の多くは習 近平とこの「天皇拝謁」事件は覚えているのであろう。そして、本質を捉えないで、つまらぬことに尾ひれをつけて報道しがちな日本のメディアは、まるで“いじわる婆さん”のように、機会あるごとにこの“事件”を思い出させることであろう。
 「天皇拝謁」には、悪しき前例がある。
 江沢民前国家主席の“土足でひとの家に入り込み”悪態をついた事件。
 さらに、その前の92年の「天皇訪中」のことである。
天安門事件のあと中国が世界各国から“経済封鎖”されているなかで、当時の海部政権や日中関係者が“時期尚早”の反対意見を抑えて実現したこの「天皇訪中」は、中国の関係者からも好感を持って迎えられ、これで“過去の日中関係”にピリオドを打ち、前向きの日中関係の到来かと期待したものであった。しかし、当時の外交部長・銭其琛の「回顧録」では、経済封鎖の“いちばん弱い環”である日本を打ち崩す手段のひとつとして、「天皇訪中」が利用されたことが述べられている。果たせるかな、日本の対中投資促進と同時に打ち出されたのは「愛国主義教育」であり、「愛国教育基地の建設」であった。
「天皇拝謁」には、複雑な歴史の積み重ねがある。
わたしは、民主党政権の対中政策の底の浅さを再認識したのであった。

遠藤 誉さんの本を最初に手にしたのは、数年前のこと。
「中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす」(日経BP社)であった。一昨年の夏に急逝したわたしの竹馬の友は「虫プロ」創業者の一人で、テレビアニメ「鉄腕アトム」などを世に送り出した。わたしはかれに中国のアニメ動向を知らせるべくこの本を手にしたのであったが、裏扉のプロフィールを見るまで、著者は男性とばかり思い込んでいた。長春生まれの女性で、NHKの「大地の子」のあるシーンをめぐって、山崎豊子さんと裁判で争ったこともある由。わたしはアニメもさることながら、この「卡子(チャーズ)―出口なき大地」を図書館で借り出して読みふけった。以来、著者の本はほとんど目を通している。筑波大学名誉教授・理学博士、そして、中国の社会科学院や国務院関連組織の客員教授や顧問なども歴任、その中国情報には確固とした裏づけがあり、その分析には定評がある。

まえおきが長くなった。
いまあらためて、はじめからページをひもとく。
「序章 権力の構図」でこの本の表題にもなっている「チャイナ・ナイン」について、つぎのように語っている。
<実際上の「中共中央」はこの政治局常務委員会を構成している「9人の男たち」を指すと考えた方がいい。日本人が良く知っている「国家主席」あるいは「首相」も、この9人の中から選ばれる>
これは、いまのシステムである。
しかし、天安門事件直後の「中共中央」は、保守派の老幹部とそれに追随する北京閥で固められていた。これはわたしの憶測だが、小平は経済改革推進の切り札として送り込んだ胡耀邦や趙紫陽などが「6・4」で倒れ、老幹部たちの推挙する江沢民の総書記就任を阻むすべがなかったのではないかと思っている。
上海市長時代の江沢民はなにをしていたのか。
いまでも思い出すが、当時の上海市民の住宅難、交通難にたいしても江沢民は何の手も打っていない(毎週老幹部の夫人たちをお見舞いしていたと、スズメのおはなし)。のちに海峡両岸協会会長として台湾との交流推進を図った前任市長・汪道涵と江沢民の後任市長として上海の改造のために辣腕を振るった朱鎔基(のち国務院総理)の二人を称える上海市民は多いが、江沢民を良く言う人はいない。03年のサーズ発生のとき、すでに土地ころがしで疑獄事件が発生、のちの陳良宇事件や黄菊などの疑惑の黒幕は、すべて江沢民の息がかかっていると“シャンハイ・スズメ”は囀っている。
上海のひとたちは、いわゆる太子党=江沢民派閥という図式に疑問を呈している。ましてや、江沢民派閥が上海閥とひっくるめて話されることに、不快感を隠さない。
いまの広東省の汪洋書記は汪道涵の甥であるが、れっきとした“団派”であり、
胡錦涛の秘蔵子でもある。解放軍で汚職追放の先陣を切っている劉源上将は文革のとき毛沢東などに追い詰められ非業の死を遂げた劉少奇の子息である。かれも小平に可愛がられた“太子党”になるだろうが、だれもそうはとらない。

 中国はいま、「先富」の時代から「共富」を目指して動きはじめている。
 中国はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になったが、ひとりあたりのGDPはまだ五千ドル程度(昨年)。一番の貧困地帯とされる青海省でも所得の向上は著しく、アフリカの貧困地帯とは異なる。しかし、“ひとはパンのみにて生くるにあらず”、所得格差の拡大は社会不安の因にもなる。いま中国の底辺でエイズ、買春、麻薬などが蔓延、妾や二号の存在が黙認されるいびつ(歪)な社会現象がみられる。これは「先富」が生み出した“負”の部分であり、汚職が蔓延する基因でもある。
 胡錦涛政権がなしえなかった「共富」実現への道は、今秋確定する次の政権にゆだねられる。
 遠藤さんはつぎの「チャイナ・ナイン」を本書で描き出している。
 10年先の、次の、次の政権を担うであろうふたりの飛び級“ナイン”入りをも予告する。もろもろの「WHO‘S WHO」は本書を繙いて見てほしい。八千万人をこえる党員のなかから選びぬかれた幹部たちが、基層の地方組織から政治経験を積み、九人のトップを目指して奮闘している。

 それに引き換えわが日本は・・・。
 一年も持たない政権、何も決まらない政治、それをバラエティ番組でけなし続けるメディア。この政治不信の助長は、戦前の日本にもあった。そして大政翼賛体制から“軍国主義日本”が生まれた歴史がある。
 遠藤さんのこの本を読みながら、こんなことを考えた。

 図書館への返却期限が迫ってきた。閲覧希望の予約が大分たまってきているようである。多くの方に読んででいただきたい本書、このへんでジ・エンドとしよう。
                  (2012年4月17日 記)

ブータンの自然

2012-04-17 18:03:23 | 寺社・仏閣





ヒマラヤ山脈の南麓にあり、国土の標高差が南部の100㍍から北部の7541㍍ある

緯度は沖縄とほぼ同じ標高によって気候は異なる

九州とほぼ同じ大きさ 

人口 70万人(内インド人が5万人位だとか)

★高山・ツンドラ気候 (標高3000㍍以上の北部ヒマラヤ山脈)
★モンスーン気候 (標高1200㍍~3000㍍の中部)
★亜熱帯性気候 (標高1200㍍未満の南部タライ平原

国土の72%が森林、20%は万年雪に覆われている。
農耕地は8%(5人のうち5人は農民)
米・ジャガイモ・玉ねぎ・桃・リンゴ・梨などはインドに輸出しているそうです

産業は、標高差を利用した水力発電、インドからの援助で8基あり、電力80%をインドに送電し、利益を得ている
ブータン国民は残りの20%の電力を使用
各家庭の熱源は電気で、テレビもあり若者はITの生活
もちろん、携帯電話は普及しています






インド国境(ジャイガオン)を超えると、(と言っても車で門をくぐるだけだけど)ブータン(ブンツォリン)整然としてきれい!!
国の違いを実感します。すこし戸惑いを感じながらブータンとインドを見比べました)

ダージリン

2012-04-14 01:16:07 | 




ダージリンは高地にあるけれど、その上の2590㍍のタイガーヒルまで
ヒマラヤ山脈とご来光を見に出かける(早朝4時起き)

我々は建物の2階から見たが、下の広場では毎朝大勢の人がご来光を見に集まる
インド最高峰のカンチェンジュンガ(標高8598㍍)の雄姿はうっすらとしか
見えない

チベット僧院のグーム僧院、入口で「ジャパニーズ」と声を掛けられて「イエス」と答え
いろいろと話しかけられたけれど、あいにくガイドさんがいなくて言葉が通じません。
この人たちは、ご夫婦で毎朝礼拝におとづれるらしい。
この僧院の周りを、祈りながら歩いている人を見かけました。

チベット難民センターを見学
ヤクの毛から糸を紡ぎチベット伝統の民族衣装やショール、工芸品を作って
観光客に売っていました


ダージリン

2012-04-10 09:59:09 | 
ダージリンのヒマラヤ動物園



珍しい動物は、『雪豹』 尻尾が太くて豹模様がきれい
(夜行性のため、寝ている)




ベンガル虎




レッサーパンダ(おなかを見せて木の上で寝ている)




毛の色のきれいな子猿(しぐさがかわいい)




黒豹




ヒマラヤンシープ


この動物園内には、ヒマラヤ登山学校もある

日本人には、なじみの『田部井淳子さん』『植村直巳さん』の写真なども飾られている。


古文書徒然其之参

2012-04-05 23:23:23 | はらだおさむ氏コーナー
鳥取藩智頭宿を訪ねて



 所用で山陰へ出かけることになり、往路ははじめて智頭線を利用した鳥取経由とすることにした。
 ホームページで沿線みどころガイドを検索、智頭町が江戸時代鳥取藩の参勤交代の宿場で栄え、元大庄屋の「石谷家」には当時の文書が数多く現存することを知り、途中下車して現場を体感することにした。
 メールで町役場と連絡、教育課葉狩課長のアレンジで町誌編さん専門員の村尾康礼先生との面談が実現、3時間ほど参勤交代と智頭宿を中心にレクチャーを受け、関連史料をいただいた。以下はその報告と所感である。

 特急「はくと」は上郡から智頭までが第三セクターの智頭急行で運行され、志戸坂峠のトンネルを越えると鳥取県八頭郡智頭町に入る。さらにトンネルを4つ潜り抜けて到着した智頭駅からは因美線で鳥取、津山線で津山経由岡山につながる。大阪から特急で2時間、「みどりの風が吹くまち」(同町パンフ)に到着する。町面積の97%が森林で覆われ、その小盆地に智頭の宿場町がある。
 因幡・美作国境の志戸坂峠を越える智頭往来は、奈良時代以前から畿内と因幡地方を結ぶ幹線で、江戸時代に入り鳥取藩の参勤交代の道として初代藩主池田光仲の入国以後十二代藩主池田慶徳に至る二百十四年間に百七十八回往復されてきている。鳥取を朝9時ごろ出発した一行は千代川(せんだいがわ)に沿ってさかのぼり、用瀬で休憩(昼食)のあと三時ごろ智頭宿に到着、第一夜を過ごしている。帰路は江戸から廿余日目の最後の宿、疲れは隠せないものの四年ぶりの帰国に胸を弾ませ、眠れぬ夜を過ごしたことであろう。

 寛文十一年(一六七一)、藩主光仲は三月十四日に鳥取を出発、四月四日に江戸に到着している。その旅程と宿泊地はつぎのとおり。(鳥取県史第四巻四六五頁「お下り道中日記」)

 ①鳥取発智頭②平福③姫路④兵庫⑤郡山⑥⑦伏見(連泊)⑧草津⑨関⑩桑名⑪鳴海⑫御油⑬浜松⑭島田⑮江尻⑯沼津⑰小田原⑱戸塚⑲川崎⑳江戸着

このときは西国街道・東海道を利用しているが、木曽路も十二回ほど利用されている。いずれもが数百名に及ぶ集団行動、その手配の大変さは各藩に共通する。

智頭宿は鳥取から七里三丁(約三十キロ)、播磨・美作に通じる幹道にあり、鳥取藩主のみの参勤交代路であったため、高札場・牢・御茶屋があり目付けが常駐していた。
わたしが宿泊した河内屋旅館は江戸時代からの旅籠であるが、ご主人談では
二度の類焼で残っているのはあの階段のみと、玄関から奥へつながる廊下の先を指される。一間幅の広い階段ではあるが、手すりもなく踏み板も狭くて、初心者には滑り落ちんばかりの代物。這々の体で通された部屋の裏路地には、天保十四年(一八四三)の『智頭宿全図』によると、下ノ御茶屋があり、目付け屋敷や牢屋が付設されていたようである。
 この地図に記載の当時の智頭宿の戸数は、上町・下町・新町横町・河原町あわせて百八十三戸、同じ地区の平成十二年の戸数は河原町が八倍強に増えているほかは暫増で、それはこの下ノお茶屋の住宅化や御本陣の公民館などへの転用による変遷のみとみられる。
 この地図の五年後の嘉永元年(一八四八)、御本陣立替図と添書きのある『智頭宿御本陣之平面図』が残っている。本道筋の草津宿などと違って小ぶりではあるが、御本陣(主屋)は三拾畳座敷のほか大中小合わせて十四部屋、約六十坪(二百平方メートル)、御奉行所五部屋、約三十坪(百平方メートル)、留守居役住宅五部屋、約十坪(三十三平方メートル)計二十四部屋、約百坪の建屋があった。敷地は推測すると約二百坪、ほかに千代川沿いに約六十坪の御殿河原が描かれている(時にはここで鵜飼も催されたことがあるとか)。

 智頭街道に面して御本陣の表門があり、その斜め前に今も本・石谷家の邸宅が現存している(但し建物は明治以降改造が重ねられている)。
 前掲天保十四年の『智頭宿全図』を仔細に眺めてみると、つぎのようなことがわかる。
 表御門に面して塩屋伝四郎(本家)と塩屋喜右衛門宅がある。この表御門の左右は(東側は二軒の大工宅ほかを挟むが)塩屋直四郎、塩屋弥三左衛門宅となる。さらにその南は中御門に通じる路地まで、二軒の塩屋元左衛門(現・塩屋出店)と塩屋孫三郎宅が取り囲んでいる。ほかに往来筋に間口の狭い塩屋のへ宅もある。この御本陣を取り囲み、往来筋に軒を連ねる塩屋とは、何者か。
 パンフ「石谷家住宅」などによると、つぎのような説明がある。
 街道の中央に位置する石谷家は、古くから屋号を塩屋といい、元禄時代はじめ(一六九一)ごろに姫路から鳥取に移り住んで塩を商い、のち智頭に移住、分家を含む一族で大庄屋を勤めている。いつまで塩の商いをしていたのか不明で、地主経営や宿場問屋(一時期は酒造りも含め)を営み、幕末以降は山林地主から地場産業の代表資本家としてのプロフィールが描かれているが、私はもう少し屋号の塩屋にこだわりたい。
 鳥取県史第四巻につぎのような記述がある(五五一頁)。
 「元禄二年(一六八九)の諸運上定めの中に、他国・地塩とも一斗につき二分ずつ、ほか一文は改人が取ることとされ、領内の生産分のみでは塩不足で、領外塩、主として瀬戸内海の塩を移入していた。享保十七年(一七三二)の例では、奥地の智頭宿あたりでは、播州赤穂から陸送で塩を入れていたが、このころ塩が来なくなったため、諸口銭免除を願い出ている」
 堺屋太一の小説「峠の群像」は、赤穂浪士の討ち入りにいたる背景を良質の赤穂塩の独占販売ルートを巡る葛藤ととらえて話題を提供したが、姫路出身の「塩屋」が鳥取から赤穂藩の上郡に最も近い智頭に出店を置き、以後財を蓄え大庄屋としての地位を固めるそのサクセスストーリの根源は「赤穂塩」にあったことであろう。
 しかし、大庄屋は立場上は地方役人に過ぎない。
 年貢米の取立てから、諸役の管理まで藩と農民の間にあって務めを全うしなければならない。

 最近公表された石谷家文書の内、文化十三年(一八一六)子ノ五月十二日の御帰国をめぐる史料は、参勤交代にからむ宿場の状況を具体的に描出していて興味深い。
 まずお殿様は御本陣に宿泊の事ゆえ別格として、大庄屋に残る文書は御用人
大竹萬録以下家臣・従者の宿割りにふれている。
 御帰国御宿割帳に記載の宿屋は七軒、宿泊家臣の総数は一〇五人を数えるが、御用人宿泊の旅籠しの屋(房之助)でも上下三十四人内十八人相対払とあり、さらに若し手狭之時は近所へ下宿致させ候心得と記されている。他の旅籠においても似たような状況は生じていたに違いない。
 従者(付人)三百九十三人ほか駕篭かきなどを含む御供衆計五百七十八人は
当然のことながら「民宿」ということにあいなる。
 大庄屋石谷八左衛門は周辺の農村から調達した夜具、食器から風呂桶に至るまでを詳細に記録を残している。物資ばかりではない、人足触出し帳には往来の清掃人=安行(アンコウ)から御台所、御遠見などなど具体的な仕事を指定しての人足集めをそれぞれの村に命じている。その合計九百四十四人とある。大変な作業であった。当然それらの代償は藩から支給されているものと思うが、その記述はない。
 これらの史料を見せていただきながら不思議に感じたのは、これだけの物資と人の調達をやりながらトラブルの発生が一件も記されていない事であった。
 村尾先生のご指摘でこれらの史料をさらに注意して見ると、それぞれの項目に○とバツの印がついている、これで出し入れの帳合、確認をしていたのではないか、というのが先生のお話。四年に一度のこととはいえ、農民もさることながら、それを落ち度なくやり遂げねばならぬ大庄屋の苦労は大変なものであった。

 いただいた「古文書が語る『智頭の歴史』」史料集の第六集「『本石谷家文書』を読む」に「一、智頭宿、衰微の事」の項目があり、1、大庄屋石谷伝九郎、お嘆きの事 と 5、町屋見苦しく、お宿勤め成り難き事 の二件の文書はいずれも前述の文化十三年の御帰国にからんでいる。
 前者はこの御帰国前年の八月、作柄から判断して数年来の年貢未納分の借用銀の分割払いも難しいと返済猶予のお願いを「御格別之御評議を以御慈悲之段、
偏ニ奉願候」としている(これは翌春四月却下されている)。
 後者はまさに御帰国直前の三月のこと、智頭宿の年寄衆五人と庄屋が連名で
手元不如意にて「無拠宿並家居等茂甚見苦敷相成」と御帰国のお宿勤め難く、とした上で、「御米百五十石御救とし而被為 仰付候ハヽ難有奉存候」と大庄屋に揺さぶりをかけている。
 こうして迎えた御帰国である。
 個人的感慨は一文字も連ねず、几帳面に事実のみが記された文書の数々。

 「石谷家住宅」(国登録文化財・智頭町指定文化財)はいま因幡街道ふるさと振興財団により管理・運営されている。4号蔵(非公開)は「智頭史料館」となっており、多くの古文書が保管されている。東京大学史料編纂所の山本博文教授(講談社現代新書『参勤交代』の著者)は次のように語っておられる。
 「大庄屋という民間のまとめ役が持っていた史料というのは珍しい、幕府や藩だけではなく、民衆にとって参勤交代がどんな意味を持っていたのかと言う研究の一端になるであろう」(村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」)。

 末尾ながらご指導いただいた村尾先生とアレンジいただいた葉狩課長に厚く御礼申し上げます。

参考図書及び史料=「鳥取県史第四巻(近世 社会・経済)」、芳賀 登ほか二名編著「天明飢饉史料・石谷家文書」(雄山閣)、村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」(とっとり政策総合研究センター)同添付資料1~5、「古文書が語る『智頭の歴史』」第六集「『本石谷家文書』(同町教育委員会)