くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

歯科検診 4回目

2012-07-31 00:09:12 | 四季おりおり
やっと歯科検診に行く

先生から「あと1回来て下さい」と言われていたが
時間がなかなか取れないので
(行くのが面倒で後回しになっていた)

7月ももうおしまいという日に出かけるなんて

ところが

医院では、だれも患者さんがいない

「あれ どうなったんだろう」

先生曰く

「暑いからな~」

いつものごとく 口の中をかき回し

「左上の歯 調子よさそうやな~」

「おかげさまで」

「血も出てへんがな~」

「ハア~」

やれやれ やっと終了か・・・・・

と思いきや

先生

「もう1回見せてください」

私(心の中で)

先生 暇やからって 私をよばんといてほしいわ~

先生

「このまま いってや~  このまま」


(なんや、ほめられてんのかいな)

シャガール美術館 フランス・ニース

2012-07-30 14:21:52 | 




美術館入口のアプローチ



★半日の自由行動があり、ニース市内のシャガール美術館に行く
 バスで中心から15分ほど。バス停から美術館はすぐそば。
 バス代 1ユーロ
 入館料 4ユーロで無料音声ガイドがあり感激する。
 (パスポートと交換で少し驚くが)



★ロシア生まれ(現在ベラルーシ)でユダヤ人、
1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得。
 1952年、当時60歳台のシャガールはユダヤ人女性再婚し、1960年、エラスムス賞受賞。
 当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。
 これは1964年に完成。
 1966年、シャガールは17点の連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。
 マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、
 ニース市が土地を提供する形で、1973年画家の86歳の誕生日に、ニース市に
 「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」が開館した。
 1966年から20年近く暮らし生涯を終える

 毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはなかかな手厳しかったといわれている
 特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下しているが、ピカソと仲が悪かったわけではなく、
 むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる

ニース フランス・コートダジュール

2012-07-29 16:39:52 | 



イギリス海岸では、リゾート客が楽しんでいる


さすが農業国 見慣れた野菜も揃っている


果物もおいしい!!


ステンドグラスのマリアさま



★地中海性気候で、夏季の長期休暇(バカンス)を過ごすフランス人や他の国の観光客が多数訪れる。
 主な都市にはニース、アンティーブ、カンヌ、モナコなどがある。とりわけ、国際空港のコート・ダジュール空港を
 持つニースは、コート・ダジュールの中心的な都市。

アルル  フランス・プロバンス地方

2012-07-27 22:09:12 | 





1世紀末ごろに作られた円形闘技場

ここでは、ローマ帝国時代、奴隷と動物の戦いや、奴隷同士の生死を分けた戦いがありました
現在は修復中で世界遺産登録されています





旧市街の中に古代ローマ時代の劇場があります。
 現在残っているのは階段状の座席と一部柱だけです。

★収容人員は2万5千人 イタリアの闘技場の半分の大きさ


 
古代劇場も修復中



子どもたちが舞台を使ってダンスのレッスン中


教会の内部






★ローマ帝国時代の遺跡を残す街で、紀元前にカエサルが小ローマを築き植民都市となった


フランスの各地では、こんな可愛いチューチュートレインに乗って、観光地をめぐる



ラベンダーの花も真っ盛り


原発大国のフランスで風力発電が並んでいた
















アルル  フランス・プロヴァンス地方

2012-07-23 22:02:12 | 




アルルと言えばゴッホ
風土・気候が気に入り、1年2ヶ月ほど住む
弟に「日本のようなところ」と手紙を送る(日本の憧れ)

そして
芸術家村を作ろうと友人たちに手紙を送るが、ゴーギャンのみ
アルルにきてくれたそうだ

理由の一つに温暖で明るいところ、美人が多いこと 民族衣装もかわいい

しかし
ゴーギャンと大喧嘩をし左耳を切り精神病院に入院



精神病院の中庭


花がきれい


明るい光の中に緑の大木






ローヌ川にかかる跳ね橋(ゴッホの絵により再建された)


周辺の景色




夜のカフェテラス









この路地もゴッホは散歩していたのか





アルルの市民に奇行が元で追放されアルル郊外の精神病院で死亡














カルカッソンヌ  フランス・シテ コムタル城

2012-07-19 22:41:58 | 






カルカッソンヌ (Carcassonne) は、フランス南部の都市、太西洋と地中海の交通の要所。
 古代ローマ時代に要塞都市が建設された。

★ピレネー山脈を望む川沿いの豊かな土地には紀元前6世紀にガリア人が住み始め、オード側の
 土手の頂に最初の要塞が作られたのは紀元前3世紀のこと。
 支配者は次々と代わったが、フランスとスペイン間の交通の要塞であったため、1659年にピレ
 ネー条約が締結されるまで、要塞として重要な役割を果たしてきた。
 条約締結後は要塞としての役割がなくなり、次第に廃墟となる。

★カルカッソンヌの丘の上の旧市街が「シテ」。
 二重の城壁は総延長3キロメートル。古いものは6世紀に西ゴート族が、新しいものは
 13世紀にフランス国王が造ったもの




★規則的に石が積まれている部分が13世紀のもの。ガリア・ローマ時代のものは石が小さく、
 レンガが混じっていることもある
 争いがあるごとに増築され、シテは難攻不落の要塞となる
 11~12世紀には領主がカタリ派に友好的だったために十字軍に攻撃され水路を断たれて
 屈強な要塞も15日間で落城。フランス国王に献上された

★サン・ナゼール大聖堂。
 外廊はロマネスク様式、中はゴシック様式でステンドグラスも美しい












★1659年にスペインとの国境問題が解決すると、シテは要塞としての役目を終えて放置さ
 れる。 再びシテの建築・芸術的な価値が再認識されたのは19世紀のことだ。

★19世紀になってそのシテに注目したのは作家で歴史記念物視察官をつとめていたメリメ。
 (カルメンの作者)建築家ヴィオレ・ル・デュックの手により復元作業がされた。
 現在では城壁内に1000人ほどの住人が住んでいる

★街の名前カルカッソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を
 治めていた女が勝利の鐘を鳴らした ことに由来する



★1997年にカルカッソンヌは世界遺産登録されました


★カルカッソンヌは夜間ライトアップされているので、この時間でもまだ明るい城塞を見学







★見学している途中から暗くなり初め、ライトアップ、内部の見学は翌日に





★そしてデイナー







★翌朝カルカッソンヌ駅まで散歩

カルカッソンヌ駅


駅前の川(オード川かな?)


駅に列車が・・・・・)


下車して来た人たち


駅前の風景















徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾参

2012-07-18 08:51:20 | はらだおさむ氏コーナー

                 
ニホンメシヤ・事始め      


 先日 十余年ぶりに夜の王府井(ワン・フーチン)を歩いて、その変貌ぶりに感嘆した。そして、そのむかし、この街の裏筋に“ニホンメシヤ”の原点たる「和風」があったことを思い出した。

 初訪中時の北京の宿は、いまも崇文門にある新僑飯店(当時は3星級)であった。そのころ、ここには日本の新聞社、商社の駐在員やわたしのような短期滞在者が3~40名宿泊していた。まだ国交正常化の8年前のこと、“専家”といわれる技術者などをふくめても、北京在住の日本人はそれほど多くはなかった。
 とても採算ベースに乗りそうもない当時の北京で、なぜ日本料理「和風」が開店していたのか。
なんでも、“民間大使”として北京に滞在中の西園寺さんと中国の対日窓口を務められた廖承志さんの肝いりによるらしい。
前年の秋、北京ではじめて開催された「日本工業展覧会」の団員用に設けられた“日本食堂”の什器備品を、閉会後譲り受け、日本のコックさんの技術指導で開店にこぎつけたものという。

 わたしはこのとき、2月なかばから二ヶ月ほど北京に滞在して、上海(商談)、広州(交易会)経由で帰国した。いま当時の訪中記『中国 見たまま聞いたまま』を本棚の隅から探し出してみると、“お茶漬けの味”と題して「和風」のことも書いている。
 酒、醤油からタクアンにいたるまで、すべて輸入品であったらしい。
 「畳敷小部屋数室のほか、椅子席もあり、スキヤキからエビ天、お寿司はもちろん、チキンライスからカレーまでそのレパートリーはひろい」と記している。
わたしはどうも週一のペースで通いつめていたらしいが、どなたとご一緒であったのか、記憶が定かでない。帰国前に、お世話になった公司の方々数名をご招待してスキヤキパーティをしたことは覚えている。このときは知人に電話予約(中国語)の特訓を受けて申込み、それでも心配になって当日は半時間ほど前に「和風」に出かけていた。
 料理ごとの採点も記している。
 「ステーキ50点、カシワの水ダキ80点~70点(日によりバラツキ)、刺身50点(努力賞)、酢のもの70点、海老天90点、スシは巻70点は甘いか、ニギリは努力賞50点、赤ダシ80点、ヒネタクアンは輸入もので100点」という次第で、わたしの定番は「タクアンに赤ダシ、ときには海老天プラスの
お茶漬け」となっていたようだ。

 それから20年後の上海。
 わたしは貿易の仕事をやめ、対中投資推進の団体に関与して毎月のように上海に出かけていた。そのころ上海の常住日本人は、数十名くらいであったろうか。銀行や商社も駐在員は1~2名くらいの規模であったが、国交も正常化して10余年、出張ベースのビジネスマンや旅行者、留学生もふえてきていた。
 日本料理店は虹橋空港近くのホテルにひとつあったが、市内から離れており、常住者にとっては値段的にも“ハレ”用のものであった。
 上海当局からの要望もあって、友好団体の引き受けで“日本料理研修生”が大阪の料理学校で研鑽に励み、さらにアフターフォローもあって上海で「日本料理店」がオープンした。市内目抜き通りのホテルの一角、立地条件は抜群であったが、駐在員によると日本の板さんたちが帰ると、容れものは日本だが中味は中華料理と不評、間もなく“開店休業”とあいなった由。
 そんなあるとき、友好団体の役員から大阪のさる日本料理店の上海出店の斡旋を依頼された。江沢民市長の時代であった。当時上海への企業進出は製造業に限定されていた。日本料理なんて、トンでもない話、と一言のもとに突き返された。雌伏二年、トップが替わって朱鎔基市長の登壇とあいなった。上が替われば政策も変わる?と勇んでネゴを開始した。スンナリと話が前に動いたわけでもなかったが、朱市長の“ひとつのハンコ”政策をたよりに“頂上作戦”の結果、既存のホテル内での合作経営なら可能性ありとの感触を得た。
 88年の秋、大阪の日本料理店の社長や幹部と上海市旅游局傘下のホテルをいくつか見て廻り、市中心部ホテルの23Fの1/2スペース・中華料理店「望海楼」のあとに出店を決めた。その契約締結までにもいろいろと問題はあったが、1Fにカラオケ店“雲雀”も併営することになり、89年3月やっと調印にこぎつけたのであった。
 「望海楼」は、海につながる黄浦江が望めると80年代のはじめまではそれが売りのレストランで、“トップオブ・シャンハイ”の異名もあったが、周辺に高層ビルが増え、客足が遠のいていた。日本側は“トップオブ・オオサカ”、よろしま、日本料理の“トップオブ・シャンハイ”にシマヒョじゃないかとサインしたのであるが・・・。
 89年5月、改装を任された大阪の某百貨店建装部の担当者が上海に赴任して間もなくあの事件が発生、7月社長からどうしまひょ、と相談を受けた。話をはじめてから三年、社長、ここでやめたら、トップオブ・オオサカが泣きますでぇ~と口説いた。よっしゃ、わしもオトコや、やるでぇ~、やりまひょ・・・。
 90年1月、カラオケ雲雀で開かれたオープニングセレモニーで♪いい日 旅立ち♪を合唱して、開店。小平の「南巡講話」の進軍ラッパが鳴り響く92年まで赤字累積の日が続く。
 ヒマなときにはと大阪から仲居さんたちが交代で上海へ来て、女の子たちの着付けから接客の対応などを教え、日本で半年以上研修した中国人調理師をさらに日本の一級調理師がオンザトレイニングすること数年、95年までに累積赤字を解消した。
 客席は、十数人は入る掘りごたつタイプの座敷が二部屋、衝立などで仕切られた四人掛けのテーブル席も十有余と総収容数は八十名になんなんとするが、いまから見ると小部屋もあれば利用頻度が増えるのかもしれない。

 開店からすでに二十余年がすぎた。
 日本人総経理が亡くなり、中国人の一級調理師が経営のあとを引き継いで頑張っている。日本で焼き上げて持ってきた舞妓の陶板画も広間に飾られ、空調やスプリンクラーも、そのままであるとか。
 わたしは上海へ行くと、よくこの店をのぞく。
 日本の友人から義理堅いなぁといわれ、滞在が短いので新しい馴染み先をつくる時間がないよと言い繕うが、本心はどうであろうか、やはり生んだ子の成長を見続けたいのであろうことよと・・・。
 
                    (2012年7月12日 記)   

ロカマドール → フランス・トゥール

2012-07-16 01:01:21 | 
神聖な雰囲気に包まれるロカマドールへ
そこには、ノートルダム礼拝堂があった


1166年に村の聖堂近くで白い遺骸が発見された。ユダヤ教から新たな宗教的な考え方を唱えたイエスがエルサレムの裁判で死刑を言い渡され十字架を背負いゴルゴダの丘に向かう道で、嘆き悲しむ(聖)ベロニカが手渡した布でイエスの汗をふくとイエスの顔の陰影が布に残りその後「聖顔布」として知れ渡りました。
ロカマドールで発見された遺骸は、その(聖)ベロニカの夫である陰徳の聖人アマドールの遺骸だったそうです

この遺骸発見後、この地もモン・サン・ミッシェル修道院やブルゴニュー地方のヴェズレー修道院などと同様に「聖地巡礼地」となったそうです








12世紀のロマネスク様式の大聖堂。聖堂内には伝説の「黒いマリア像」があり、
現在も多くの人が訪れている






オイル蝋燭に火をともして旅の無事を祈りました




巡礼者がつけるホタテ貝の壁飾り




★トゥールはロワールの中心都市 城域が少し残っていて13~4世紀にできたゴシック建築の
  教会がある巡礼の地で聖マルタン(守護聖人)の墓があり、墓に手を触れると病が治ると
  いわれている

★マルタン=ローマ軍の騎士、ある寒い夜「こじき」にあいマントを半分に切り分け与える。
  その夜マントを着たキリストが現れる。
  マルタンはその時からキリスト教徒になり布教に励み守護聖人とあがめられる

★フランスからスペインのサンチャゴへの巡礼の折は、ホタテ貝を持ち巡礼するのが
  習わしとなっている

★途中で「リモージュ」の街を通過、ここはルノアールの生まれた土地、焼き物の街、
  芸術の街です

★映画「ダビンチコード」に出た「黒いマリア」はノートルダム大聖堂のマリア様です

★ワインは』南へ行くとロゼが多くなる

★フランスパンは水と塩と小麦が重要で、フランスはこの3つのバランスがいいそうです

★フランスでは共働きが主体で男女同権は当たり前

★コーヒーカップが大きいのは、硬くなったパンを飲み物に浸して食べるから、
  もちろんさらに残っているソースにつけても食べますが 




     



アンボワーズ → フランス・ロワール地方

2012-07-15 22:08:52 | 
青々とした放牧場を眺めたり



ロワール地方の古城を巡り
ローマ時代にはロワールの川に橋をかけるのはとても難しかった
そして流通のための通行税を徴収するための城塞がたくさん必要だった。後に城に変わる




ひょいと出てくる町角のカフェーと出会ったりしながら



ロワール川を見下ろす高台にそびえるアンボワーズ城(世界遺産)に到着
この城ではシャルル8世が生まれ育った城で、とても愛着を持ちイタリア建築を取り入れて作られた




今は立派な橋もかかっている





レオナルド・ダ・ビンチがアンボワーズ城を眺めながら構想を練る像が対岸にあり
その対岸からアンボワーズ城を展望する



レオナルド・ダ・ビンチはこの土地に3年間住み、城の設計をしそして死亡。墓はこの土地にある




ロワール川には鴨の親子がのんびりと・・・・・




曇り空に気球がすーっと上がり、明日は晴れるかな~



言い伝えでは、美人がこの城に来ると幽霊が出て「頭に気をつけてください」というらしい
 ただし あくまでも美人であること・・・・・

★温暖な気候での土地で、赤ワインが有名(おいしかった)
 
★1階から3階までは窓はなく、城塞の面影を残している
 通気性が悪く石造りのため、冬は寒い。そして暗いのを改築して城として使われた

ブータン・ウォンディ・フォダン・ゾンが全焼

2012-07-10 10:24:38 | 
6月24日 ブータンの遺産ウォンディ・フォダン・ゾンが全焼

私がフランスへ行っている間の出来事でした
帰国後も、暫く知らなくてYさんからの情報で知った

修復中のゾンで374年前の板葺屋根のゾン
板葺屋根はここしか残っていなかったそうです

現在は、神聖な仏具・遺産はかろうじて持ち出されたそうですが、大事な経典や国勢調査の書類などはすべて灰になったそうです

原因は、電気系統のショート・漏電らしいのですが・・・・・



3月20日撮影の全景





工事現場
















ゾンへ行く途中の学生さん



ゾンの周りには棚田がありました




「形あるものは、いつかは無くなる」

わかっているけれど残念です・・・・・