【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

辛亥革命100周年、孫文ゆかりの岡田克也さんが向かったのは中国でも台湾でもなく、被災地だった

2011年10月09日 08時52分41秒 | 岡田克也、旅の途中

 おはようございます。

 いよいよあす、2011年10月10日、辛亥革命100周年となりますが、中国(中華人民共和国)での記念式典はきょう、北京・人民大会堂で開かれるそうです。台湾(中華民国)はあす式典をするようです。北京の式典には、孫文を助けた日本人の一人、梅屋庄吉のひ孫にあたる、小坂文乃さんが招かれているそうで、おめでとうございます。

 岡田克也さんのお母さん(保子さん)の実家である高田家にも孫文が泊まったことがあります。岡田さんのひいおじいさんに当たる人物で、高田隆平さんという方だと思います。なので、岡田さんも中国に行くのかと思いきや、金曜日から被災地に行っています。

 高田先生へ「博愛」孫文・・・という書が高田家の蔵に残っていて、おばあちゃん子だった岡田さんは、この書を1990年に衆院議員になった後に、表装を直して、衆院議員会館の自室に飾っていました。昨年から広い議員会館に移ったので、議員室から会議室に移して、より多くの人が見られるようになっています。

 

 国民新党の自見庄三郎・金融・郵政改革担当大臣は、昨年6月に、亀井静香さんと入れ替わりで入閣する直前に「孫文先生と私の意外な関係 - じみ庄三郎 日記 - Yahoo!ブログ」として、孫文が福岡に泊まった際に、自見さんのひいおじいさんのいとこである元衆院議員が一緒に写った写真を公開しました。



 まあ、ひいおじいちゃんのいとこということで、自見先生も名家ということになってきますが、これ以上自慢合戦になっても困りますね。

 岡田さんにしても、父方のイオンがあまりに有名なのに、母方も大地主かよ、と思われるのが嫌で、最近はあまりこの話はしていないのかもしれません。昨年に、外相として上海万博を視察したときには、「孫文と梅屋庄吉展」をみています。岡田克也さんは三重3区から出馬していますが、実は3区は岡田家の実家ではないんですね。岡田さんの実家は、伊勢湾に流れ出る三滝川の南側にあり、ここは三重2区です。ここは文部科学大臣になった中川正春さんの選挙区です。そして三滝川の北側が四日市市中心部で、三重郡菰野町も入っていて、高田家があります。そして、岡田さんがあえて三重3区を選んだかは、本人が公式に説明はしていませんが、郡部を含んだ選挙区の方が、固定票が多く連続当選しやすいからだと考えられます。

 この辺からも、岡田さんは父方も母方もお坊ちゃんだと思われるのが心外なのかもしれません。

 岡田さんは、今月になってから、岡山5区の花咲宏基さんの応援にかけつけました。ここは自民党が加藤勝信さんと村田吉隆さんのコスタリカの選挙区なので、「次は非常に厳しいがよろしくお願いします」と応援しました。このほか、岡山1区の高井崇志さんも応援しました。一部報道で、「来年9月の代表選をにらんでいる」ともされましたが、実際には、1年生議員の応援計画は白紙です。

 やはり、菅直人さんを民主党代表にかついだときの筆頭推薦人として、また、菅内閣がいきなり参院選で負けたピンチのあと、枝野幸男さんから幹事長を引き継いで、そして、あの「3・11」を党本部からサポートしたことから、被災地が気になるようです


[画像]退任が決まりホッとした表情の菅直人代表と岡田克也幹事長、8月、両院議員総会。

 私は菅直人総理はよくやったと思います。

 菅さんは元々嘘つきだと思っていましたが、菅総理自身は嘘をついていなかったと思います。ただ、周りが以前よりサラリーマン化していて、情報公開に脚がすくんだようです。側近によると、背中に氷柱が立ったような気分でいたそうです。また、菅総理としては、政府東電統合対策本部は別として、法的根拠がない組織には意味がないということを理解していなかった野党ボケと、危機管理の鉄則である「ワンボイス」(情報共有の窓口を徐々に統合すること)を知らず逆に「原発担当首相補佐官」などをつくってツーボイシーズ、スリーボイシーズと増やしてしまったことでしょう。

 イオン株式会社の中国への積極出店もあってか、岡田さんは親中派だと思われていますが、1年間の滞在歴があるアメリカおよび、中国、韓国をなるべく対等に考える国家観を持っています。

 岡田さんは次のように語っています。

 私は中国の皆さんにも知っていただきたいのは、中国にとって孫文というのは、台湾の国民党から見ても、中国の共産党から見ても、孫文というのは最初の創設者であると位置付けられていると思いますが、その孫文が不遇の時代に日本で、多くのそれを支援する日本人たちによって支えられていた。そういう時代があったということ。そして、それを支えるという空気が、日本の中にあったと。孫文を敬愛し、隣の国中国のリーダーとして頑張ってもらいたい。そのために危険を冒してでも支えた人たちがいた。たくさんの日本人がいたということを中国の人たちにも分かってもらいたいと改めて感じました

 100年前の日本は日露戦争に勝利した後のバブル期で余裕がありました。

 日本にはまだまだ遺産がありますから、こういった物を生かすと同時に、ひとりのリーダーをしっかりと育てる土壌をつくっていきたいものです。まず定数是正・定数削減のあと、衆参の選挙制度改革、党代表規約、国会法、内閣法などをトータル・デザインの下に改正することが肝要です。

 なお、当ブログでは、岡田さんと孫文のゆかりについては、たびたび言及していますので、それらのエントリーはこちらをクリックしていただくと一覧できます。



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