【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

参議院の小坂憲次先生「政権交代ある政治忸怩たる思い」塩崎村史「青年の自由民権への情熱」から126年

2016年04月08日 17時15分23秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

 私の18歳。

 早稲田大学政治学科学生として、全国学生交流会(NSC)で、自民党青年局での会合。そして、参議院長野選挙区で、新人の北澤俊美候補の応援。

 自民党青年局次長で、自民党長野県連所属の衆議院議員だった、小坂憲次さんは、2009年に衆で議席を失い、2010年から参に転じました。その後、2012年、2014年の衆院選では小坂家は立候補していません。

 小坂先生は、参で、2016年4月8日、永年在職表彰を受けました=画像・参議院インターネット審議中継からスクリーンショット=。しかし、この夏の改選には立候補しないことになっています。

 1990年初当選の小坂さんは「リクルート事件による政治とカネの問題による政治不信の高まりとベルリンの壁の崩壊により冷戦の終焉が宣言された」と初当選時を振り返りながら、「政治改革では政権交代可能な選挙制度を党派を超えて議論した」「選挙制度改革は当時議論していたものとは若干違うものとなった」「忸怩たる思いと、議員としての至らなさを感じる」と語りました。

 小坂さんの参での演説はこれが最後になると思われます。

 ソンシと言っても兵法ではない。村史。村の歴史です。

 私のルーツである、塩崎村史に次の記述があります。

 

[写真]塩崎村史の304ページ、筆者撮影。

 明治23年、1890年の、第1回衆議院議員総選挙で、村の青年部が小坂家(小坂善之助候補=当選)ではない滝沢候補を応援したという記述があります。

 「民権論と自由党の運動が村の青年を刺激して長谷倶楽部勃興させた」

 「青年の自由民権への情熱は明治23年の衆議員選挙当時に現れた。(長野1)区の小坂、小林、滝沢の3候補に対し、青年はひとしく滝沢氏を推した。彼は当時財力少なく、かつ37歳の少壮民権家であったが、青年の運動利あらず小坂氏当選となったという」(塩崎村史304ページ)。

 塩崎村の青年は自由民権の情熱から、日本最初の政党である、板垣自由党を押し、滝沢候補を応援したが、財力に勝る小坂候補が当選したという記述です。この中で、「長谷倶楽部」は、村の中でも私のルーツの集落です。

 塩崎3000石の偉大な歴史を持ちながら、幕府直轄領で明治維新を迎えた塩崎村の先祖たちが、自由民権に燃えた若き日の姿を彷彿とします。

 それから、126年。小坂家は今でも資力にまさり、信越化学工業、信濃毎日新聞社(注・小坂家は創業家ではない)を経営していますが、小坂さんが勤めた日本航空が外国で税逃れにかかわったのではないかと疑いを持たざるを得ない、「パナマ文書」というものが出ています。

 衆議院長野1区で下野後も小選挙区当選を続ける、民進党・篠原孝代議士は、きょう、NHK入り第1委員室に登場する予定ですが、政府の情報黒塗り文書の姿勢に反発した民進党の抵抗で国会が空転し、先送りとなりました。事あるごとに同党の岡田克也代表にたてつくことには眉をひそめざるをえませんが、独立した代議士としてのふるまいです。

 「青年の自由民権への情熱」ーー126年前の塩崎村の先祖の思いをこれからも私が引き継いでいきます。

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