内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「おそらくは数年ぶりで周囲を見わたし、見上げる―たとえば空を」― ヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」より

2024-05-14 01:42:51 | 読游摘録

 病気になってはじめて気づくこと、見えてくること、感じられるようになることがある。これは誰にとっても多かれ少なかれあてはまることだろう。健康なときには知らぬまに従っていた諸々の規則や義務から「解放」され、それまで毎日繰り返されてきた生活のリズムから「下車」あるいは「脱走」して、それまでとは違った時間の流れに身を浸す。病気になることがもたらすそんな心身の変化をヴァージニア・ウルフはこのように表現する。

私たちは直立人たちからなる軍隊のしがない一兵卒であることをやめ、脱走兵になる。直立人たちは戦闘へと進軍していくけれど、私たちは棒切れと一緒に川に浮かんだり、芝生の上で落ち葉と戯れたりする。責任を免れ利害も離れ、おそらくは数年ぶりで周囲を見わたし、見上げる―たとえば空を。(片山亜紀訳)

we cease to be soldiers in the army of the upright; we become deserters. They march to battle. We float with the sticks on the stream; helter-skelter with the dead leaves on the lawn, irresponsible and disinterested and able, perhaps for the first time for years, to look round, to look up—to look, for example, at the sky.

 このように何のためということなく空を見上げたときの光景はどんなだろうか。ウルフの描写は雄弁かつ精彩に富んでいる。ちょっと長いが省略するのはもったいないのでそのまま引用する。

その途方もない光景の第一印象は、奇妙なくらいに圧倒的である。通常ならしばらく空を見上げているなんて不可能だ。空を公然と見上げている人がいれば、道ゆく人たちは行く手を阻まれてイラつく。ちらっと見るだけの空は、煙突とか教会とかで一部欠けていたり、人物の背景だったり、雨だとか晴れだとかを意味する記号だったり、曇りガラスを金色に輝かせたり、枝と枝のあいだを埋めて、秋の公園で葉を落としかけた、いかにも秋らしいプラタナスの樹の哀愁を補完したりするだけである。ところが横になってまっすぐ見上げたときの空はこうしたものとはまるで違うので、本当にちょっと衝撃的なくらいだ。私たちの知らないところでいつもこうだったなんて! ひっきりなしに形を作っては壊している。雲を一箇所に吹き集めては、船や荷台が連なったみたいに北から南へとたなびかせている。光と影のカーテンを絶え間なく上げたり下ろしたりしている。金色の光線や青い影を投げたり、太陽にヴェールをかけては外したり、岩を積み上げて城壁を作っては吹き飛ばしたりして延々と実験を繰り返している―こんな終わりのない活動が、来る年も来る年も、何百万馬力ものエネルギーを無駄にしながら遂行されていたなんて。

The first impression of that extraordinary spectacle is strangely overcoming. Ordinarily to look at the sky for any length of time is impossible. Pedestrians would be impeded and disconcerted by a public sky-gazer. What snatches we get of it are mutilated by chimneys and churches, serve as a background for man, signify wet weather or fine, daub windows gold, and, filling in the branches, complete the pathos of dishevelled autumnal plane trees in autumnal squares. Now, lying recumbent, staring straight up, the sky is discovered to be something so different from this that really it is a little shocking. This then has been going on all the time without our knowing it!—this incessant making up of shapes and casting them down, this buffeting of clouds together, and drawing vast trains of ships and waggons from North to South, this incessant ringing up and down of curtains of light and shade, this interminable experiment with gold shafts and blue shadows, with veiling the sun and unveiling it, with making rock ramparts and wafting them away—this endless activity, with the waste of Heaven knows how many million horse power of energy, has been left to work its will year in year out.

 ここで言われていることは、病気になれば必ずこう空が見えるということでもなく、病気にならなければ空がこのようには見えないということでもない。「健康」な私たちが日常見ている世界が「正常」だという、他に対して抑圧的なものの見方・考え方が私たちの目を覆ってしまい、本来そこにあるものごとが見えなくなってしまっていることを「病気になるということ」が教えてくれるということがここでの問題だと思う。言い換えれば、メルロ=ポンティが哲学を定義していうところの「世界の見方を学び直す」こととはこういうことなのではないかと私には思われる。
 だが、他方、こうも思う。今私たちが見上げる空はウルフが見上げた百年前の空とは違う。なぜなら、百年前にはそれを指し示す言葉さえ存在しなかった気候変動を引き起こしたのは他ならぬ人類なのだと今の私たちは知っているのだから。天空に繰り広げられる驚嘆すべき気象現象にただ「無邪気に」瞠目することはもはや今日の私たちには許されていない、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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