内的自己対話-川の畔のささめごと

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「あやしきまでおいらかに」― 人は意識的努力によって本性を獲得できるか

2024-02-15 17:29:47 | 読游摘録

 今日実際に我が身にあったことだが、その具体的細部を一切省略し、そのとき心に感じたことのみを抽出して言葉にするとすれば、『紫式部日記』の次の箇所がまさにそれに相当する。原文、そして山本淳子氏の訳(角川ソフィア文庫版)を引く。

まして人の中にまじりては、言はまほしきことも侍れど、「いでや」と思ほえ、心得まじき人には言ひて益なかるべし、物もどきうちし「われは」と思へる人の前にてはうるさければもの言ふことももの憂く侍り。ことにいとしも物のかたがた得たる人は難し。ただ、わが心の立てつる筋をとらへて、人をば無きになすなめり。

まして同僚女房の中にあっては、言いたいこともございますけれど、つい「いやいや」と思われて抑えてしまいます。分かってくれない人には言っても何の得にもならないでしょう。また人をけなして「我こそは」という顔をしている人の前では、煩わしくて口をきくのもうっとうしくなります。(それにしても)そういう方の中にも特に万事に秀でた人とは滅多にいないものです。皆ただ自分のこれと決めた価値基準に従って、人をだめと決めつけるようですね。

 この後に、式部が同僚からいかに誤解されていたか、同僚との面倒を避けるために自分が「惚け痴れたる人」のふりをした結果として、同僚から式部についてどのような評言が返ってきたかが記される。そのなかに今日の記事のタイトルに引いた「あやしきまでおいらかに」(不思議なほどにおっとりしてして)という表現が出てくる。
 言うまでもなく、紫式部は根っから「おいらか」などではない。むしろ真逆である。この「おいらか」について、山本淳子氏は角川ソフィア文庫版に次のような補注を加えている。

「おいらか」は人間関係に角を立てないような方法・態度・性格を言い、意図的な場合も無意図的にそのようである場合も用いられる。したがって、能力と分別のある人物が物事をうまく運ぶために穏便な方法を取ることも、無能だったり幼かったりで我意のない人物が殊に意識せず行動することも、同様に「おいらか」と形容される。紫式部の「惚け痴れたる人」になりきった態度は、女房内の人間関係に角を立てないものだったため、事実として「おいらか」であった。紫式部は期せずして前者の「意図的おいらか」を行っていたことになる。だが「おいらか」には後者のような多少軽侮の対象となる場合もある。「おいらけ者」はそうしたニュアンスを持つ造語であろう。しかし紫式部は頭を切り替え、自ら真に意図的な「おいらか」を本性としようと努力を始める。なお、『源氏物語』で「おいらか」と評される回数が多い女性は紫の上と女三の宮。紫の上は意図的おいらか、女三の宮は無意図的おいらかの典型と言える。

 大変興味深い指摘だと思うが、次の二点において私は疑問を懐いている。
 一点は、意図的努力によって本性は獲得できるのか、という疑問である。上掲の補注には、「努力を始める」とあるから、その努力が実ったかどうかは問われていない。だが、この補注では、意図的に「おいらか」であることは可能だと考えられている。しかし、それはまさにそう振る舞う本人が「おいらか」ではないからこそ可能なのではないか。意図的に「おいらか」に振る舞えるのは「おいらか」ではない人だけではないのか。もし紫式部がほんとうにそうなれると信じて努力したとすれば、本来実現不可能なことのために努力したことになり、その結果は不幸でしかありえないと私は思うのだが。
 もう一点は、『源氏物語』で紫の上について「おいらか」が使われているすべての用例に基づいて、紫の上の「おいらか」は意図的であると単純に規定できるのか、という疑問である。いや、それ以前の問題として、そもそも「おいらか」を意図的か無意図的かという二分法で捉えようとすること自体に無理があるのではないだろうか。
 その諸著作を愛読し尊敬申し上げている一流の研究者に楯突くつもりは毛頭ないが、素人が懐いた素朴な疑問としてここに記した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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