内的自己対話-川の畔のささめごと

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「最善の堕落は最悪なのである」― イバン・イリイチ『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』より

2024-03-18 15:08:35 | 読游摘録

 3月14日の記事では、ケアという問題が現代社会の諸問題と密接に繋がっているという話をしたが、それらの問題が何でもかんでもケアの問題に一元化できると考えているわけではもちろんない。とりわけ、ある領域においてケアの必要性が認知され、それが制度化・法制化されると、今度は本来ケアであったものが別のものに変質してしまうという危険がいつでもつきまとっていることを無視することはできない。
 そんな思いとピタリと符合する一節を渡辺京二のエッセイ「最後のイリイチ」(『民衆という幻像―渡辺京二コレクション2 民衆論』ちくま学芸文庫、2011年所収)のなかに見いだした。このエッセイは、2007年に『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』(藤原書店、2006年。原題 The Rivers North on the Future: The Testament of Ivan Illich, 2005)の書評として発表された。
 このイリイチの本のはじめの方にイエスが語るよきサマリア人の寓話が出てくる。それ自体はよく知られた寓話であるからここに繰り返さない。この寓話についてイリイチは次のような考察を示す。以下は渡辺京二の同エッセイからの摘録である(括弧内はイリイチの本の原文からの引用)。
 この寓話に出てくる祭司もレビ人も神殿と共同体の儀式に属している人間である。彼らが傷ついた男を看過したのは彼が倫理の伝統的基盤たる同族ではなかったからだ。見過ごすことこそ彼らの倫理だったのである。ところがサマリア人はイスラエルの北に住むよそ者である。その彼が傷ついた男を介抱したのは、傷ついたユダヤ人をパレスチナ人が介抱するようなものだ(Perhaps the only way we could recapture it today would be to imagine the Samaritan as a Palestinian ministering to a wounded Jew.)。このサマリア人は、「自分の同族を優先する自文化中心主義を越え出ているばかりでなく、自分の敵を介護することで一種の国家反逆罪を犯している人間」(someone who not only goes outside his ethnic preference for taking care of his own kind, but who commits a kind of treason by caring for his enemy)だとイリイチはいう。
 つまり、人間の存在の新たな地平がこのとき開けたのである。わたしの隣人とはわたしが選ぶ人のことであり、隣人という新たな人間関係は二人の間でなされる自由な創造であり、わたしたちの決断のみに依存する関係なのだ。これこそが他者のうちにキリストを見る愛の受肉である。そして近代の創造物たる教育・福祉・公正の諸制度は、すべてキリスト教が開いた隣人への愛という新しい地平のその後の展開にほかならない。
 話がこれで終わりならば、カトリックの枠組みを超えるものではない。ところが、イリイチはもっと遠くまで行く。この新しい地平は制度化という危険を伴っていたという。「この新たな愛を管理したい、場合によっては、法で定めたい、それを保証する制度を創設したい、そしてそれに反対する者を犯罪者とすることで制度を保護したいといった誘惑」(a temptation to try to manage and, eventually, to legislate this new love, to create an institution that will guarantee it, insure it, and protect it by criminalizing its opposite)という危険である。これは当然新しい権力を要求する、「最初にまず教会、のちにはその鋳型に刻印された世俗の諸制度」が権力となる。近代のルーツのどこを探しても、見出されるのはキリスト信仰の召命を制度化し法制化し管理しようとする教会の試みなのだ。
 つまりイリイチは、教育・福祉・公正のために設けられた諸制度が生み出す現代の地獄は初原におけるキリスト的隣人愛の変質・堕落の結果だと言っているのだ。「最善の堕落は最悪なのである」(perversio optimi quae est pessima [the perversion of the best which is the worst].)。