内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

種族的共属感情

2024-03-06 13:37:32 | 読游摘録

 マックス・ヴェーバーは『経済と社会』の「種族的共同社会関係」と題された章で、「種族的集団」を次のように定義している。「外見的容姿もしくは習俗の類似に基づいて、あるいは両方の類似に基づいて、またあるいは植民や移住の思い出に基づいて、われらは血統を同じくする、という一種の主観的な信念を宿す人間集団」。
 この定義には「種族的」である条件として三つの要素が示されている。容姿 Habitus(姿かたち)、民俗 Sitte、および植民もしくは移住による出身地への追憶の三つである。この定義に従えば、これら三要素すべてが揃っていなくても、そのいずれかが主観的信念として共有されていればその人間集団は「種族的集団」ということになる。他方、この三要素のいずれかにおいてお互いに相容れないという反撥が生じる場合、そのような反撥を相手に感じる両者間には種族的に相異なるという主観的信念がそれぞれ発生することになる。
 この「種族的」同一性(の信念)が何らかの仕方で持続的に固定化されるとき、差別意識が発生する。「(の信念)」と括弧に入れたのは、自分たちには種族的同一性があるという信念をもっている人間たちが、それが主観的な信念にすぎず、実体性を伴わず、科学的な根拠もないことを自覚しているとは限らないからである。いや、むしろそれらのことを自覚していないときのほうが主観的信念はより強固になるとさえ言うことができる。
 こうした種族概念がうまく適用できないのがまさにエルザス人(アルザス人)の共属意識である。エルザス人は方言とはいえ、ドイツ語を母語としている。政治的にも第二帝政時代はドイツに属していた。ところが、エルザスの共属意識は、むしろフランス指向であって、ドイツには向かわない。これはどうしてか。この問いに対するヴェーバーの答えは昨日の記事で引用した箇所にすでに示されているが、その続きはこうなっている。

「大国民」(フランス国民)は封建的圧制からの解放者であり、「文明」の担い手であった。この国民の言葉はまさに「文明の言葉」であり、ドイツ語は平生つかう「方言」であった。だから文明の言葉を話す人たちへの愛着は、ある特定の内的態度であり、それは言語共同体に根ざした共同感情と見たところよく似ている。しかしこの感情と一致するものではなく、むしろ部分的な「文化的共同性」と政治上の思い出(の共通性)に基づいている。

 上掲のヴェーバーの定義による種族的共属感情とは異なったこのような共属意識は、いかにして形成されるのか。この問いに答えることが「種族」「民族」「国民」という三つの概念の発生の契機とそれらの間の相互的な差異を捉える手がかりを与えてくれる。