内的自己対話-川の畔のささめごと

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「種族」「民族」「国民」― これら三つの概念の弁別的価値をどう規定するか(上)

2024-03-07 11:00:19 | 読游摘録

 住谷一彦氏の論文「「種族」・「民族」・「国民」」は、これら三つの概念を相互に弁別的な価値を有した概念として用いるための示唆を与えてくれる。ただ、副題「ヨーロッパの事例に関するカズイスティーク」が示しているように、ヨーロッパ諸国の事例に基づいた立論であるから、それをそのまま非ヨーロッパ諸国にも適用できるかどうかという問題は残る。が、まさにその問題を考えることが、ヨーロッパと非ヨーロッパという対立図式の世界認識の有効性と限界を明らかにする手がかりにもなる。
 同論文の第三節の見出しは、論文のタイトルと同じだが、「品位・名誉・威信の問題」という副題が添えられている。四頁弱の短い節で、同論文の結論が凝縮されたかたちで述べられている。
 第一段落では、「種族的」共属感情は、極めて主観的なハービトゥス(姿かたち)やジッテ(日常の生活様式に現われる民俗)の異同という外見的な印象に基礎を置いていることが強調される。ハービトゥスやジッテにおける相互了解の有無が「種族的」共属感情における吸引と反撥を喚起する。その反撥は「はしたない」「みっともない」「いやだ」「嫌いだ」といった軽蔑感と差別感を異分子あるいは外部に対して醸成し、逆に内部に向かっては同じハービトゥスやジッテの担い手であるという仲間意識を培養する。この差別化が「品位」Würde 感情の成立基盤になり、ヴェーバーによれば、場合によって選民意識形成の発条ともなる。
 この段落を読んでの私見は次の通り。「種族的」共属感情の形成には必ずしも共属の起源についての歴史認識は必要ではない。「種族的」共属感情はそれについての反省的意識がなくても成立しうる。一言で言えば、外見および慣習において「見た目が同じ」という相互了解が一定数の人びとに安定的に長期間維持され、かつその相互了解が内部的には仲間意識、対外的には差別意識を生み出せば、そこに「種族」意識が発生する必要条件が整う。
 第二段落では、この「種族」概念がうまく適用できないヨーロッパの事例が列挙され、「種族」と「民族」との弁別的価値が規定される。「国民」概念についての重要な言及も見られる。
 エルザス人の場合、ハービトゥスおよびジッテの共通性が「種族的」感情の醸成を指向していない。この指向を押しとどめているのは、フランス文化への親近感であり、さらに強力なのは、フランスが彼らを封建的圧制から解放したという歴史への追憶感情である。このような共属感情はむしろ「国民」Nation と呼ばれる共属感情に近い。「国民」感情は、その根底に「種族的」共属感情が流れていればより強力にはなるとは言えても、後者は前者の必要条件ではない。スイス人、ルクセンブルク人、リヒテンシュタイン人などの共属意識をその例として挙げることができる。一言で言えば、「国民」感情は「種族的」共属意識なしに成立しうる。それに対して、「民族」感情は「種族的」共属感情を必要条件とする。
 この段落で特に興味深い例は、ドイツ第二帝政期のオーバー・シュレ―ジェン州におけるポーランド人(ヴァッサーポラック)の場合である。彼らはポーランド語を話す「良きプロイセン人」として、ドイツ「民族」の中にその立場を確保していた。そして、ポーランド語を話すという彼らの言語的共同性が「民族」的共属意識の形成に向かわず、「種族的」共属意識の紐帯となり、スラブ社会内部での自己隔離作用、さらには対立感情の要因にさえなっている。
 「民族的」共属感情が生じるには、「種族的」共属感情に加えて、言語的、宗教的な共同体形成も必要とされるが、それだけは十分ではない。これらの諸要素の共通性が文化の伝統を形成し、それが構成する人間集団の中に大衆的名誉 Massenehre の観念を育成し得たとき、はじめて「民族的」共属意識が成立する。この「名誉」Ehreあるいは「誇り」Stolz の観念が「身分的名誉」のそれと異なるのは、民族文化の伝統を共有する者すべてが例外なく有資格者であることにある。この点で、「種族的」共属意識における「品位」感情と共通している。 また、この両者は、対外的には、「身分的名誉」観念が上下の差別意識を生み出すのに対して、大衆レベルにおける水平的並立関係としての「選民思想」を生み出す可能性を孕んでいる点でも共通している。