二〇一七年九月十日 NO・四四―二四 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ル カ 四章(月) 〃 五章
司会 みつ子師(火) 〃 六章(水) 〃 七章
奏楽 内 間姉(木) 〃 八章(金) 〃 九章
招詞祈祷 詩編百編一~五節 (土) 〃 十章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六三番 ◎十四日(木)の午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎九月十八日、十時半より(月・祝)一日親睦会です。
交 読 文 詩 編 十五編
讃 美 讃美歌五〇〇番 わたしたちの主イエス・キリストによって
献 金 感謝の祈り 平林姉 わたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。
讃 美 聖 歌三九六番 こういうわけですから、動かされないように
説 教 Ⅰコリント十五 章五六~五八節 しっかり立ち、主の業に励みなさい。
讃 美 聖 歌五八八番 主に結ばれているならば、自分たちの苦労が
祈 祷 坂本兄 決して無駄にならないことを、あなたがたは
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 知っているはずです。Ⅰコリント十五章五七・五八節
復活のゆえに無駄でない私たちの人生
五五節の「死よ、お前のとげはどこにあるのか。」の言葉に誘発されて、五六節の「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」という言葉が語られる。この「死・罪・律法」は密接に関連する。
死は、生ける者にとって最大の敵であるが、死は、あくまで罪の実であって、罪がなければ、死は命に終わりをもたらすことはできない(ローマ六章二三節)。では罪は、どこからそのような力を得ているのか。それは「律法」である。「罪と律法」の関連についてはローマ七章に詳しく語られている。聖なる神の戒めである律法は、人間の真実の姿を明らかにする。人が真剣に神の律法を尊ぼうとする時、その人は、律法が命じることを行えないという事実に直面する。律法という光に照らされて、それまで人の心の奥底に眠っていた罪が目覚めて活発に活動するようになる。人は律法によってのみ、自分が死に定められた罪人であることを知る。そしてパウロと共に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが救ってくれるのでしょうか。」(ローマ七章二四節)と叫ばざるを得ない。しかしパウロは続けて言う。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と。今日の箇所では「・・・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と。主イエスの十字架の死と復活は、「律法・罪・死」の連鎖から私たちを解放し、勝利を与える、と。
この勝利の喜びを踏まえて、最後の言葉(五八節)が語られる。「わたしの愛する兄弟たち」と親愛を込めて、まず「堅く立て」「動かされるな」と命じられる。つまりキリストの死と復活による勝利を信じてそこに留まるように、と。この世の知恵などに惑わされるな、と。次に「いつも主の業という点で豊かであれ」と。「主の業」は第一に主が私たちのためになされた救いの業(十字架と復活)てあるが、救いに与り聖霊を受けた者として、主のみ足のあとに従え、と。成果があがらない証の生活は無駄に見えるが、「主にあって決して無駄でない」と。そのことをあなたがたは知っている、と。それは復活があるからである。私たちが復活に与る日、私たちの主に在るすべての労苦は報いを得る!
礼 拝 次 第 (日)ル カ 四章(月) 〃 五章
司会 みつ子師(火) 〃 六章(水) 〃 七章
奏楽 内 間姉(木) 〃 八章(金) 〃 九章
招詞祈祷 詩編百編一~五節 (土) 〃 十章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六三番 ◎十四日(木)の午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎九月十八日、十時半より(月・祝)一日親睦会です。
交 読 文 詩 編 十五編
讃 美 讃美歌五〇〇番 わたしたちの主イエス・キリストによって
献 金 感謝の祈り 平林姉 わたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。
讃 美 聖 歌三九六番 こういうわけですから、動かされないように
説 教 Ⅰコリント十五 章五六~五八節 しっかり立ち、主の業に励みなさい。
讃 美 聖 歌五八八番 主に結ばれているならば、自分たちの苦労が
祈 祷 坂本兄 決して無駄にならないことを、あなたがたは
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 知っているはずです。Ⅰコリント十五章五七・五八節
復活のゆえに無駄でない私たちの人生
五五節の「死よ、お前のとげはどこにあるのか。」の言葉に誘発されて、五六節の「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」という言葉が語られる。この「死・罪・律法」は密接に関連する。
死は、生ける者にとって最大の敵であるが、死は、あくまで罪の実であって、罪がなければ、死は命に終わりをもたらすことはできない(ローマ六章二三節)。では罪は、どこからそのような力を得ているのか。それは「律法」である。「罪と律法」の関連についてはローマ七章に詳しく語られている。聖なる神の戒めである律法は、人間の真実の姿を明らかにする。人が真剣に神の律法を尊ぼうとする時、その人は、律法が命じることを行えないという事実に直面する。律法という光に照らされて、それまで人の心の奥底に眠っていた罪が目覚めて活発に活動するようになる。人は律法によってのみ、自分が死に定められた罪人であることを知る。そしてパウロと共に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが救ってくれるのでしょうか。」(ローマ七章二四節)と叫ばざるを得ない。しかしパウロは続けて言う。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と。今日の箇所では「・・・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と。主イエスの十字架の死と復活は、「律法・罪・死」の連鎖から私たちを解放し、勝利を与える、と。
この勝利の喜びを踏まえて、最後の言葉(五八節)が語られる。「わたしの愛する兄弟たち」と親愛を込めて、まず「堅く立て」「動かされるな」と命じられる。つまりキリストの死と復活による勝利を信じてそこに留まるように、と。この世の知恵などに惑わされるな、と。次に「いつも主の業という点で豊かであれ」と。「主の業」は第一に主が私たちのためになされた救いの業(十字架と復活)てあるが、救いに与り聖霊を受けた者として、主のみ足のあとに従え、と。成果があがらない証の生活は無駄に見えるが、「主にあって決して無駄でない」と。そのことをあなたがたは知っている、と。それは復活があるからである。私たちが復活に与る日、私たちの主に在るすべての労苦は報いを得る!