日々雑感

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アジャンタ0     

2020年01月21日 | Weblog

       アジャンタ   
 

 エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。

アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、

仏教の石窟寺院である。
 
馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬい

て、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描い

た野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。

バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって

、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にか

けての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 
到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。

大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思った

ことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、

違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。

その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。

後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、


これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。


第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。

こちらのものは法隆寺のそれに比べると、かなり大きい。しかし実に良く似ている。

それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。

そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。

この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。
ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、

この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し

合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。

それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いの

に、疲れた体はくぎ付けになった。 
 
外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、

あのうるささも何も無かった。

あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。
 
僕は三帰三きょうを唱えてみた。

でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧

でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう


意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある

僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今

後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿

体無いような気がした。

もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉も

かけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを

立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を

覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。

エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて

感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。それに比べて

アジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。

波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。

動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。

ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

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