日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

十三仏さん

2007年10月31日 | Weblog
予防策が取れても、だからといって、脳血栓や脳こうそくを完全に、防ぐことができるかというと、現代医学の力では、完全に予防できるという保証は何もない。

一夜にして、体の自由を奪われてしまう恐ろしいこれらの病気にかかったが最後、
どのようにもがいても、持って生まれた体の自由は再び戻ってはこない。

リハビリによってある程度の機能回復はできるが、それも、看護家族の状況や、困難を克服する本人の意志の力にも大きく、依存するがゆえに、おのずと限界がある。

夏が過ぎ去ろうとしている9月の中旬、13日の未明を境にして、
母は持って生まれた体の自由を完全に失ってしまった。
脳血栓で血管を詰まらせて、脳こうそくになり、運動神経がやられてしまったのである。

いつもなら5時過ぎに起きて、朝食の準備をする母が、この朝に限って起きてこないので、熟睡しているものと思いこんだぼくは、8時過ぎまで、起こさないでほっておいた。しかし、いくら待っても、起きてこないので、母の部屋の襖を開けたのだが、母の姿を見て、びっくり仰天した。

口から舌をだらりと出したままで、右手右足を使って起きあがろうと、母は懸命にもがいていた。

左手はだらりとぶらさがったままの感じである。私は声もなく、その場に立ちすくんでしまった。

「医者 医者 はやく医者を」。私は電話口へ走った。
すぐかかりつけの病院に電話をしたら、救急車で病院に来るように、との指示があり、私は母を背負うような思いで病院へ駆け込んだ。

医者は顔を見るなり、「右が、やられたなぁ」と言い、左手の脈をとり、すぐ病室へ入れるように、看護婦に指示した。

それから約3カ月。私は病院へ泊り込みながら、職場へ通った。

精神的にも肉体的にも限界に達したとき、医者はもうこれ以上、身体機能の回復は望めないから、自宅へ連れて帰って、自宅療養をした方が良いと私にアドバイスをした。

高い差額ベッド代を支払って、入院していても、もうどうにも回復の見込みのない母をそのままにしておくのも無駄なことのように思えて、私は母を自宅で連れて帰って、自宅療養させようと決心した。

見ているだけでは、話に聞いているだけでは、絶対に分からないのが、こういうたちの病気の看病の苦労である。

何とか私の力で元通りの体に回復させようと張り切って、がんばってきたが、それは、夢のまた夢になってしまった。しかし、私はあきらめがしなかった。左手の小指、一本の機能回復に望みをかけて、神仏にすがってでも何とか直したいと強く念願した。医学の力もこれまでと、はっきり引導を渡されてしまったので、これ以上の機能回復を現代医学に期待しても無理だと観念し、私は半信半疑ながら、神仏に、頼らざるを得ない心境になっていた。
ある日
「それなら君。十三仏さんをしたらどうや」と友人は私に言った。

「十三仏さん。それは一体なんや。神さまか。仏様か。十三仏さんということで仏さんに何をするんや」
私は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「十三仏さんというのは、13の仏様に、供養してものを頼むのや。
母が脳こうそくを起こして、左手足が完全に麻痺して、使い物にならないのです。十三仏さん。供養するので何とか助けてほしいのです。信仰心の薄い私ではありますが、母になりかわってお願いします。」と、おわびしながら人に見られないように、おにぎりを13個作り折り箱に入れて、四つ辻に置いて、十三仏さんに、お願いして帰ってくるんだよ。ただし、供えてからは絶対に後ろを振り向いたらダメだ。」

「ところで、おにぎりを折り箱に入れて、13個供えて、供養の足りなかったことを、おわびして、十三仏さんを拝んだら、一体どうなるんだ。手足が動くとでもいうのかい。」
「手足が動くか、どうか。それは知らないが、お前もお母さんも楽になることは間違いないよ。たとえば、寿命がなかったら、そのままスーッとを迎えがきて、お前もお母さんも楽になるよ。もし、寿命があったら、せめて下の始末は、自分でできるようになる。」

「何? お迎えが来て楽になるだって。お前。それは死ぬということじゃないか。そんなこと、この俺の一存でできるわけがないよ。君は他人だから、そんな事を、いとも簡単に、言えるが、母の命がかかってくることを、そんな簡単に、決心できないよ。お迎えに来てもらうくらいなら、手足が不自由で、寝たきりでも、僕が世話をするほうがよほどましだ。」
「それはそうだ。お前の納得いくようにしたら良いだろう。ひょっとするとこの種の病気は、神経の方に回るかもしれないからな」
「脅かすなよ。そうでなくても、毎日毎日、看病看病で、こちらは、まいって、いるのだからなぁ」

友人の忠告も素直に受け取る事ができず、私はひがんで受け取って、まがって解釈し、イライラは顔つきに現れる。

「先ほどの話に戻すけど、その十三仏さんとやらをしたら、本当に良くなるんだろうね。兄弟と相談して、それも考えてみるよ。」
私は心の内で、これは困ったなと、困惑しながら場合によっては、十三仏さんをしてもよいと思った。




先ほどから、窓の外をたびたびのぞいている。12時を過ぎたころから、車もめっきり少なくなり人影はほとんどない。
そろそろいくか。
私は重くなる心に、親指ほどの大きさににぎったおにぎりを13個セロハンのおり箱につめて、旧街道の四つ辻に立った。

時刻は、午前1時を過ぎている。もう車も、犬さえも通らない文字どおり、夜の静寂と、闇ばかりの世界である。旧街道であるために、道に沿って人家は、たってはいるが、今は軒下も下がるという、ウシミツドキ時。人も家も眠っている。

足音をたてないように忍び足で、私は四つ辻の北西の隅に、13個のおにぎりを詰めたおり箱を音もなく供えて、心の中でこう祈った。

13仏さま 。

観音菩薩様 勢至菩薩様 お不動さま 地蔵さま 阿弥陀如来さま
お釈迦様 。弥勒菩薩様 薬師如来さま 、大日如来さま 、虚空蔵菩薩様 
文殊菩薩様 、普賢菩薩様 アシュク如来さま


お見通しのごとく、母も私も難渋しております。十三仏さんに供養して、お力添えをえることによって、なんとか救われたいと思う一心で、この夜の闇の中で、お願いしております。
聞くところによると、十三仏さんに供養すると、お迎えにこられるかもしれないということですが、それだけはどうかなしにしてください。まだこの世で、何の役割も果たしていない私ですから、せめて私がそれなりの人物になって、社会の役に立っている姿を母に見せたいのです。それからあとに母を見送るならば、私は後悔が少ないのです。
母も、わが腹を痛めて産んだ子が、社会の役に立っている姿を見たら安心して、彼岸を目指すことができるでしょう。
虫の良いお願いをすれば、母は私がひとかどの人物になるまで、どうしてもこの世にいてもらわなければなりませんので。あの世に連れて行かずに、この世で、たとえ1寸でも楽になるように、お願いいたします。

そしてもし、願いを叶えていただいたとしても、それに味をしめて、2度3度お願いするようなことは慎みます。一生一度のお願いのことゆえ、何卒叶えて頂きとう存じます。お粗末ですが、これは母から十三仏さんに、お供えしたものでございます。どうかお召し上がりください。そしてこの功徳を持って何卒宜しくお願い申しあげます。

人や車が通るのを気にしないから、口早に心で唱えて、私がまっしぐらに家を目指して、早足で歩いた。決して後ろを振り向くな、との忠告を厳守するために、私は、両手を顔に、あてて後ろを振り返ることが、できないようにしながら家へたどり着いた。

決して人に、十三仏さんにご供養していう姿を見られないようにという言葉が、不安となって、まとわりついたが、とにかく、友人が教えてくれたとおり十三仏さんをした。

寿命があったのだろうか。私の願いが聞き届けられたのだろうか。母は、年齢を重ねて、老衰は自然進行しているとはいうものの、寝たきりではあるが、あれ以来、10年間、大した病気もせず、床に伏せっている。
来年は80歳になる。こういう案配で、私は十三仏さんに、今では心から感謝している。



































卒論糞くらえ

2007年10月29日 | Weblog
彼は東大の医学に入学した。
ある日、解剖実習があったが、それを機会に自分にとって、医学部は手におえないとやめてしまった。
人間の生体を知るために医学は是非必要だということはわかるが、人体を切ったりはつったりすることは自分の性格に合わないと彼は悟ったらしい。
そこで彼は文学部のドイツ文学科に転部した。

そんなことは初めから分かっているはずだから、医学部に入ってくること自体が間違っているというのは、健全な常識の持ち主の言うことで、こういう論理は彼自身には通じない。

彼によると、己の判断以外は何でも「糞くらえ、」なのである
卒論の提出のときもそうだった。大学生活の集大成として、大学ではどこでも卒業年度になると、卒業論文を書かせて提出させる。
東大ももちろん卒業するためには、卒論の提出が必要である

提出期限が迫ってきても一向にその気の見られない彼のことを心配した友人たちは、本人以上に気をもんで卒業させるために、卒論を書かせなきゃいけないと、いろいろな方面からアドバイスを繰り返した。

そして、やっとその気になった彼は友人に頼んだ。
いわく「卒論クソくらえ」。
これをドイツ語に訳して表紙をつけ、名前を書いて教務に提出してくれと他人ごとみたいなことをいう。
友人たちはあきれながらも、恐る恐るそのとおりにした。

提出する相手は日本国中にその名の知れた高名なドイツ文学者の教授である。
教授はカチカチの学究である。恐らく、こんな前代未聞の卒論は見たことはないだろう。
高名な俺を馬鹿にしやがってと怒ったか、これはドイツ文学を冒涜するものであるとカンカンになったか、はてはこの学生は間違って入学してきた、ちょっと頭の弱い同情すべき学生だと憐憫の情を感じつつ、不合格と書いたかどうかは知らないが、とにかく結果は不合格であった。 当たり前の話だ。こうなることは目に見えていた。

全くもって、常識的な判定である。この不合格という結果には当然のことながら、面倒を見てきた友人たちも、本人も、それは当然のこととして受け止めた。従って、彼は留年するか中退かという選択をせまれることになったのである

そのうちに寮では彼の姿は見かけなくなった。心配した友人が実家に電話したら、偶然、彼が電話口に出て
「東京は嫌になったから。故郷に帰ってきて、今は私立の女子高校で、万葉集を教えている。俺はこれで結構楽しいから、もう東京に戻るつもりは無い。そちらの大学の方はよろしく頼む」といったという。

全くもって、あいた口がふさがらない奴だと友達は苦笑したが、何かよい名案があるわけでもなく、学籍はそのまま放っておく以外に手はなかった。それからどうなったのか。学友は全員卒業したので調べようがないし、彼とも連絡はとれないから、彼のことは、ようとしてとして分からない。

そんないい加減な彼と私は不思議に気があって、会話を交わすことが多かった。
ある日、学寮の共同洗濯場で下着をゴシゴシ、もみして洗濯している私に向かって彼は言った。
「おい、お前。洗濯の仕方を知らないのか。洗濯というのはこうするものだ。たらいに水を張り、それに上から洗剤を入れてよくかき混ぜて、洗濯物を入れ、その上から化学洗剤をパラパラとまいておけばそれでよいのだ。あとは洗剤が勝手に、垢を落としてくれるんだ。
お前みたいに昔のバーさんじゃあるまいし、ゴシゴシやるなんて最低だ。考えてみろ。何のために洗剤があるんだ。洗剤は水に溶けて汚れを分解するように作ってあるから。水には均一に解け垢は落ちるはず。だから手でもむ必要などさらさらない。お前は遅れてるぞ」
「へえ。そんなもんか。ところで、お前一度手本を見せてくれ。俺もそうやってみるから」と私は切り返した。

彼は先ほど口頭で説明したとおりに、水をあふれんばかりに、たらいに入れて、汗臭く酸味さえ放つ衣類の上から、砂でもマクようにさらさらと洗剤をふりかけて、小一時間ほどそのままにして、もみ洗いもしないで、物干し竿にぶら下げた。

夏の強い日差しの下で、竿に乾された下着やその他の衣類は、ほどなく乾いたが、よく見ると、白い粉のツブツブが、あちこちに付着している。それは彼が先ほど衣類にふりかけた洗剤であった。かき混ぜる事もなく、手もみするわけでもないから、彼の理論とは裏腹に溶解しないまま衣服に付着し、それが乾燥して白い粉となっただけのの話である。
汚れも酸味も、異臭もなくなったわけではない。彼の意識の中では、洗濯は進んでいるのだが。常識的には洗濯以前の状態と大して変わってはいない。

乾いた後では彼は白い粉をつけたまま、しゃあしゃあとして着ているではないか。
私は彼の常識とやらを疑った。しばらくして、それが無駄であることを知った。

彼は自分が創り上げた自己流の理論に実に忠実で、他者の理屈や常識は一切受け付けないのである。また信じないのである。

余りにもふにおちない彼の洗濯に私は念を押した。
「それでもう洗濯は終わったのかい」。
「これで完了十分だ。お前も俺のようにやれば、手間が省けていいよ。」
「それにしても洗剤が解けないまま白い粉になっているがそれでもいいのかい。」
「お前は物事を理論的に考えないから困る。理屈で考えれば、これで洗濯は完了じゃないか」。
私はあいた口がふさがらないで、あっけにとられていたが、ほどなく彼を理解するために視点を変えた。
自分なりに理論を構築しそれに、100%の信頼をおく自信が羨ましい限りだと私は思った。
もちろん、「こいつはちょっと頭が変じゃないか、常識を働かせれば、自己中心にもほどがある」というマイナーの判断もできる。しかし、この世の中心は自分だと言わんばかりに行動する彼が羨ましかった。私などはひとりで、いちいち考え出すことの煩わしさから逃れて、常にビートにトラックの上を走る事ばかり考えているので、彼の常識にかなわない新鮮さ?に余計に惹かれていたのかもしれない。

学窓を巣立って40年が巡ってくる。全てが平凡の波の中に進んでいった学生生活の中で、彼のことが今では、とくに印象深く、光彩を放ち懐かしい。

彼は中退か。除籍になったのか。それは今も不明である。
今でも故郷で女子高校生を相手に万葉集を解いて、教えているのだろうか。
もったいないことだ。あれほどの秀才が。まともに洗濯も出来ない理屈をこねて自説は正しいと考えるところが、世の中の歯車とかみ合っていないばかりか、狂っている。
しかし何がどうあろうと、自分の信念や理屈を絶対に曲げようとしないところは、見上げたものである。全く人それぞれだ。
常識人の私にはどう考えてみても、これ以外の結論は出ない。


未完成交響曲

2007年10月29日 | Weblog
私の恋が終わることのないがごとく、この曲が終わることなし。

1x2=2 2x2=4から、黒板に、4分の2拍子が生まれ、

質屋の娘が投げてよこした詩集の中にある「野バラ」が、算数の授業の真っ最中に黒板の上で、作曲されていく。

作曲は、作曲家の中に潜り込んだ神が、彼の魂をゆり動かして、なされるもので音楽理論や楽器によってなされるものではないということの証明であるみたいだ。

楽器主としてピアノは、音の確認のために、補助的に使われるものであって、ピアノが弾けなければ作曲できないと言うのは、主客転倒の話である。


私にも、教壇に立ち、黒板に字を書いている最中に、メロディーが頭の中で鳴り出して、慌てて、胸のポケットに忍ばせている。五線紙に、書きとめた経験がある。

神は、洋の東西を問わず、特定の人に、時間空間を越えて、メロディーをお与えになる。

私は神に祈りたい。

シューベルトやチャイコフスキーやフオスターに与えたもうた美しいメロディーを私にも与え構え。

透視能力

2007年10月29日 | Weblog
透視能力のある予言者と交われば、その予言者の背後にある神々への信仰を深めることを考えなければ、単に建物の興味を満たすことだけに終わり、神に一歩近づくことはできない。

神仏の信仰への入り口として、または、神仏への信仰を深めるきっかけとして、透視能力者を眺めるべきである。

縁・ えにし

2007年10月29日 | Weblog
どこで手に入れたのか、まったくわからないのに、クリーム色のこの紙に書かれた「奈良の大仏さん」という詞は東大寺長老・清水公照師の御作であるとすぐわかる。
字の形が先生そのものを表していいるからだ。

すばやく眼を走らせた。私の胸はあつくなり、たかなった。

詞の字数や形式からすると、これは曲がつくことを前提に作詞されたものである。

よーし。作曲してみよう。
どうせ、誰かが作曲してはいるだろうが、良い詞に、何人もの作曲家が、それぞれの趣の曲をつける例はいくらでもある。
 
厚かましくも私はこの詞を作曲して、テープに収め、東大寺の塔頭・宝厳院の主人、清水公照師を訪ねた。

 師は快く、付曲を許可してくださり、師の著書「泥ドロ仏」をくださった。そして、「今日は急ぐので、この次にサインしてあげよう」。という言葉を残して、車上の人となられた。

 届けたものの、前回のテープで、満足できない私は、早速の録音のやり直しをした。テープができあがったのが夜の7時。
「できました」。と電話したら、「12時まで起きているから、いらっしゃい。と師の声。
 
めったに会えない人に会えるのだから、と、女房をせきたてて、車に乗せ、西名阪国道をひとっ走り。
家を8時にでて、9時過ぎには、もう師の前に女房と二人でチョコンと座っていた。

 周りをぐるりと人々に、取り囲まれながら、師はたっぷり墨をつけた大きな筆を紙の上に滑らせて、心の中の思いを、思いのままに残されていく。

周りの人々と、にこやかに話をかわしながら、精神・ご自身の心を紙の上にしたためていかれる。
それを見ていると、その昔、聖徳太子が一時に10人の話を聞き分けたという伝説が真実のように思われた。
 
現に師は気安く言葉をかわしながら、一心不安に、異次元の墨跡作りに、精を出しておられるではないか。作品はみるみるうちに出来上がっていく。わずかに2,3時間の間に10幅はは下らないだろう。

絵がかけ、書ができ、随筆がかけ、陶芸でき、俳句や短歌はお手のもの。師の心は真っ赤に燃える創造のマグマ。
それが、絵となり、書になり、エッセイとなり、あどけない泥ドロ仏となって、床の間を飾る。

 そんな多才な先生と、私はふとしたことから、ご縁をいただいた。

「縁に従い、縁を追い、ふとしたご縁は、またしても、エニシを広げていく」。

実感実感。
                

バーニング・ボデイ

2007年10月29日 | Weblog
インド 、バラナシのガンジス川の河岸はヒンズー教の聖地で、全国から大勢の信者が沐浴にやってくる。

同時にヒンズー教徒は、この河岸で火葬にされ、骨灰はガンジス川の流れに流されて輪廻転生の輪から離脱できると信じているとのことである。
それはいったいどういうことか。
インドいきたいと思った根底には、こんな疑問が横たわっていた。
取材というよりは自分の記録として取っておきたかったのである。

この河岸で行われている火葬について恐いモノ見たさという好奇心もあって、ガイドブックをしっかり読んだ。

火葬の様子を写真に撮ったり、ビデオに収めたりすることは、厳禁と書いてある。
当然だ。今生の別れで嘆き悲しむ遺族の心情を思いやることもなく、興味や好奇心の目で見ることは残酷でさえある。
僕はガイドブックの記事に賛成した。


バラナシで偶然知り合ったインド人は小学校の校長先生で、ガンジス川の火葬や沐浴風景を見て、インド人の宗教観を理解してほしいと言いながら、そこを案内してくれるという。日本を出る時には、遺族の心情思いやることが大切だとの思いはあったが、インドのインテリが案内するという言葉に、僕は簡単に便乗した。浅ましいや奴だ。この俺は。後ろめたさを心に残して、ガイド氏の後を追うようにして、くっついて行った。

ごちゃごちゃしたところを通り抜けて、川下を指して進むと、観覧席のようになっているところへ出た。今から始まろうとしている火葬を、腰をおろして見物しようとしていると、ガイド氏は写真やビデオをとってもいいよという。

僕はビデオのスイッチを入れて取り始めた。そうしたら、間髪を入れず、両サイドから上半身裸の背のたかい男が二人駈け上ってきた。

それ見たことか。やっぱり駄目だろう。次の瞬間、何が起こるのか、胸がどきどきした。ガイド氏は両側の男に10ルピーずつ渡せといった。
僕はポケットから10ルピー紙幣を2枚取り出して、彼らに渡した。
男たちはおしだまったまま、パンツのポケットにねじこんで、下へ降りていった。

今、僕の前に横たわっている。この老人は人間としての体をなしてはいるが、魂の抜け殻で、単なる物体としか思われない。しかも、物理的距離はほんの3メーターも離れてはいないのに、彼と僕のその世界は次と地球上の別々の世界であるという思いがした。
黄色の布で体は覆われているが、頭の部分だけが覆いが取れ見えていた。彼はおじいさんだった。

ヒンズー教では、どんなお経を唱えるのかは知らないが僕は思わず、南無阿弥陀仏と口走った。

今、僕の目の前で火葬され、あと2時間もすれば、骨灰となる。この人の一生を、僕なりにたどってみた。
彼が生まれた時、両親をはじめ、近親者は男子出生の喜びにわき、彼は周りの誰からも祝福されたことだろう。やがて彼は成長し、結婚し、一家を構え、夫となり、父となって家族の面倒を見て老いを迎え、死に至ったのだろう。

火葬するには、それなりのお金がかかり、その財力がないと、ここでこうして骨灰にしてガンジスに流してもらえないとのことだから、ひょっとすると、彼は金もうけに一生を費やしたのかもしれない。

インドでは人の生き方の理想とされる林住期を持たず、おそらく生涯を家族と共に、過ごしてきたはず。そうして彼は今、近親者によってガンジスの水に流され、清められいわゆる解脱しようといているのである。

今、妻や子供たちが彼を取り囲み、最後の別れに悲しみの涙を流しているのだ。

お釈迦様の言うように、この世は四苦八苦の世界だから、死ぬことによって本当に輪廻転生の輪から抜け出して、常住極楽ならば、それもいいなと思った。


いよいよ作業は始まった。竹で作った担架に乗せられた死体を井桁に組んだ薪の上に移し、ガンジス川の聖水(このきたない濁り水と僕は思うのだが)を布の上からかけた後で、枯れた井草のような植物の薪の間に差し込み火をつけた。

ほどなくはく煙がもうもうと立ち上がり、ちょろちょろっと炎が紅色の舌をだすが、まだ薪に火は移っていない。
火夫が棒をマキの間に突っ込み、がさがさ掻き回してから、こののようなものをふりかけると、炎は勢いよく燃えあがった。こんなことを3、4回繰り返しているうちに、火はマキに移り、本格的に燃えだした。

彼を包んでいた黄と朱と金色の布も燃え失せて、黒々と焼けた体が目についた。
そして2時間後。彼は骨灰になって、ガンジス川に流された。
ああ。これで1巻の終りか。これで全てが終わったのか。僕は目を閉じて、ため息をついた。

薪を井桁にくんで、その上に死体を乗せて、着火して完全に骨灰となったら、すべてガンジス川へ戻すのを、僕は緊張して、体をこわばらせながら、一部始終を見た。
全てが流されたとき、僕はなぜか、ほっとした。

家族は三々五々引きあげたが、僕はそこに座ったまま、いま目の前で繰り広げられた光景をもう一度頭の中で反芻した。

釈迦はこの世における人間の姿を見て、生きるということは、苦であるというところから出発して、それゆえに生きることを、実のあるものにしようと教えた。
すなわち、この世における人間の現実を支配している原理を発見して、人々がその原理原則を認識することを出発点として、充実した命のあり方や生き方を説いたのである。
人は果たして輪廻転生するのか。解脱するというが、その世界があるのか。つまびらかでないにせよ、価値のある生き方やヒントを人類に与えてくれたのである。

そうか。僕の一生もこの通りなんだ。いずれあちら岸に渡らなくてはならない日が来る。そして神のみぞ知る、その日まで、僕はこちら岸にいる。
好むと好まざるにかかわらず、人間として生まれたからには、すべからく、こうなるんだ。そこには例外がない。いったん人として、この世に生まれ落ちると、みな平等にこうなるのだ。

男女間の性交渉に始まって、受胎、出産、成長、成熟、老衰という生命曲線を眺めるとき、いま僕が目の前にしている火葬は着地したその姿である。

この姿を起点にすると、今からでも遅くはない。赤々と燃えている自分の命をさらに輝かせるために真剣に生きよう。自分の意に添うようにして、命をもやそう。
いやもやさなければならないという気になって、僕は自分の命に対する責任感みたいなものを感じた。
生きよう精一杯。羽目を外してでも生きよう。とにかく生きなければ。

僕は心の中に引っかかっていたもやもやを、このわき上がってきた不思議な力によって吹き飛ばした。
そして新鮮な意欲に満ちた自分の心に気がついた。

マルコスと新平家物語

2007年10月28日 | Weblog
吉川英治の傑作「新平家物語」の終わりの方に、平家の落人が
九州山脈の山奥深い、椎葉の里に逃れて、そこで平和な生活を営んでいる場面が出てくる。
太陽の光や自然は、源氏や平家を何一つとして区別することなく、
ただ、一つの大きな力で、動物も植物も人間もみんな等しく、生かされている姿が、絶妙な筆致で描かれて、読むものを椎葉の里の住人かと、錯覚させてくれる。

私も、吉川英治先生のこの境地、万物と宇宙をも、飲み込むような大きな大きな愛によって生かされているという神仏の世界にも通じるような境地に憧れを持っている。

 フィリピンの大統領・マルコス氏は民衆の力によって失脚させられた。20年余りの間、フィリピンの大統領として権力をほしいままにし、真にフィリピン国民の生活に貢献するというよりは、自分の権力と地位の
保全と継続に汲々として、最後は民衆によって見放されてしまい、
権力の座を追われてしまったのである。

「奢れる者久からず 、只春の夜の夢の如し」を地で行った。

 その昔、今から800年ほど前に、平家は春の夜の夢のごとく消え去った場面が、マルコス失脚劇で、目の前に繰り広げられたような気がした。

 そして、これは観念による絵や写真ではなく、テレビ画面を通して実感を伴って、私に迫ってきた。
 800年の昔、京都を舞台に繰り広げられた平家一門の栄枯盛衰の模様は、ところを変えて、今フィリピンで、起っている。マルコス追放劇そのままだったんだろうか。
 テレビに大写しされたマルコス氏の表情には、栄枯盛衰の心の思いが如実に表れていた。
 人間誰しも権力や地位や金には激しい執着を持つものだが、それは深く考えると、人間の迷妄・心の迷い以外の何物でもないということになるのではないだろうか。
求めて与えられたところで、むなしい結果しかないという人間存在の業に思いをいたすとき、必然的に生ずる「栄枯盛衰」 「生者必滅」の仏教哲理が胸に染みとおる。
 
 科学技術進歩の発達によって、世の中のテンポが早まり、あわただしい現代の世相ではあるが、それに逆らって、各人が自分の人生を見つめ直す一つの手段として、このマルコス劇を眺めたとすれば、マルコス氏にとってのこの悲劇も、それなりの意味のあることだと私は納得できた。

中学2年生の殺人事件

2007年10月21日 | Weblog
結論から先にいうと、かって日本は、治安の良い国、犯罪の少ない国,国民道徳が守られている国
礼節の邦人とまで言われて、海外からも住みやすい国という点で、一目置かれていた。

ところが、現代日本の犯罪状況はどーか。犯罪は多発し、しかも凶悪化している。
加えて、外人までが、日本国民の犯罪に対するガートの脆弱さにつけ込んで、日本国内で犯罪を犯す。不良外人にとっては、仕事のしやすい、犯行を行う上で、過ごしやすい日本と言うのが、現状なのだ。

どうしてこういうことになったのか。またどうしてこんな国になったのか。
言葉でいえば、社会病理現象と、ひとくくりになって、言ってしまえるが、それでは、一般人には、なんのことやらさっぱりわからない。

原因が、多岐にわたり、複雑になっていることは認めても、そのひとつひとつを解決して、犯罪全体を防ぐというようなことは、理論上可能であっても、現実には不可能なことなのである。

だから、私は、学者とか、識者とか言われる人たちの言葉には、ほとんど注目しない。し鵜呑みにはしない。

原因や現象を別の言葉で、というよりは難しい、学術用語で説明したにすぎず、ほとんどが現実的には役にたたない、言葉上の提言にすぎない。

やはりこれは現場の専門家の経験律から割り出された、犯罪防止策を徹底してもらうのが、一番手っ取り早いと思う。

長崎では、中学生が、4歳の子供を20mの高さのビルから突き落として死亡させている。この事件では、加害者が、中学2年生12歳ということらしいが、殺人を犯しても、犯罪には、ならないので、矯正施設で教育を受けるという、事だけで済まされそうだ。

 加害者に対しては、この程度の措置をした。
これでは犯罪者救済になるだけで、本来罪も無く殺された被害者にとっては、まったく殺されるぞんである。

被害者、すなわち自分の意思に反して殺された被害者の救済はどうなっているのか。
どうしてこういうバランスのとれないことが、法律として決められているのであろうか。

 子どもに責任がないというならば、子供の行動に対して、未熟な子供に対して監督責任を持つ親が、それなりに制裁を受けるのは当然のことではないか。

森山法務大臣は、この件で、少年法を改正して、14歳から刑事罰の対象として少年法を採用。12歳に、引き下げるつもりは無いと言明した。その理由とし、3年前に引き下げたばかりだからという。

こんなことは理由にならないし、これにかわって何か有効な手立ての提案があるかと思えば何も無い。

こういう考えの人が治安が悪化する一方の現状にマッチできるのであろうか。

 治安の悪化に対してどのような対策を講じて、社会の安全を守るか、庶民の暮らしを守るかという観点から、現状を何とかしてほしいという庶民の願いがわからないのであろうか。

この国のなにが一体緩んだのだろうか。
不良外人が日本は犯罪を起こしやすい国だという。国も国民もガードがゆるいかららしい。つまり国も国民も不良外人になめてかかれるている、組しやすいところなんだ。

これは不良外人の犯罪者に限らず国内の犯罪者もそう考えている。つまり犯罪を起こすにはさして抵抗がないという感覚だ。果たしてこれでよいのだろうか。

法律の基本は犯罪を犯したのもは、犯した犯罪に見合う罰をうけるのが、バランスの取れた法律だと思う。

法律の名の下に、責任を免除して将来ある子供だから教育刑によって更生させるというのは、あまりにも加害者優先ではないか。

殺される理由が何もなかった子供の、人権は一体どうなるのだ。
被害者の無念さや惨状にどうして目をつぶろうとするのか、かるんじようとするのか。それが再犯の大きな原因になっているとすら思える。

そこには責任感や罪の意識が希薄になる一因になっているように思われて仕様が無い。たとえば逮捕されたら顔写真や手錠姿をどうどうと公開すべきである。
何が犯人の人権だ。犯人の人権尊重を言うのなら罪のない被害者の人権を犯罪者の十倍も保障してほしい。

少年教護施設を訪問して現実の話を聞く機会があったが、3,4割はまた罪を犯してここに舞い戻ってくるという話だ。

つまりこの世には社会に出すると、犯罪を犯さずには暮らせない性悪な人間も存在するのだ。彼らに対しては社会防衛の上からも人権を制限してもよいのではないか。

弁護側がよく使う言葉に犯罪者の人権という言葉があるが、これは基本を忘れたとんでもない考え方である。
加害者には徹底的に責任を取らせる。それは社会を、犯罪から守り治安のよい社会をつくる第一歩である。

本来だったら、こういうことは各自の道徳心に期待していいことなのだが、道徳心が希薄になった今では現実的な対応には役立たずである。

庶民一人一人が安穏に暮らすには、犯罪者を自分たちの社会から追放することだ。隔離することだ。

そこで僕からの提案。

自分の欲望のために人に危害を加えたものに対しては被害者以上の苦しみを与え、特に殺人においては自分の命で殺した命をあがなえ。つまり問答無用で死刑に処することだ。

アカデミズム

2007年10月21日 | Weblog
アカデミズムというと何かしら権威があって、その重みには無条件に従わなければならないような錯覚を持つが人が多い。

何も考えない連中はこれをうまく利用することだけを考えて、もの本質とか、あるべき姿などさについては、自分なりの考察を加えたりはしない。
そのくせ、アカデミズムを前面に押し出して出て、これをこけら落としに使い、その権威の前に大衆をひざまづかせようとする。

一方、大衆もこの言葉や考え方に弱く、両手をあげて、無条件に権威を認めて、ひれ伏してしまうようなところがある。

アカデミックな風を吹かせるする連中はそこへつけこむわけである
アカデミズムそのものが悪いわけではない。
それに対する人間のアプローチの仕方が悪いのである。このことはアカデミズムをかつぐ側もアカデミズムにひれ伏す側もはっきり知っておくべきことである。
アカデミズムをかついで飯を食っている連中が多く、辟易している昨今である。


奇蹟の生還

2007年10月19日 | Weblog
平成14年1月7日自宅で倒れたこの人は、午後3時20分ごろ救急車で同病院に搬送された、到着時はすでに心臓停止状態だった。

体温計で測定できないほど体温が低い状態だった。午後5時40分に再び心臓が停止約30分後に医師が死亡宣告した。

ところが約20分後に家族が女性が息をしていることに気付いた。その後意識も回復した。ご臨終宣告の 20分後に生き返った。

死亡宣告から約20分後に息を吹き返す極めてまれな出来事がある
患者に機能障害は残っておらず歩ける程度に回復し、近く退任する予定。とのこと。

霊柩車がもう手配し終わったその時、患者はこの世に生還したのだった。なんとも変な気持ちになる話である。

奇跡の生還をした人の、その後を追跡したわけではないから、現在はどうなっているのかは、知らないが、人類史上こういう現象は数こそ少ないが、起きていたことだろう。

ということになると、生きながらえながら、死に追いやられた人がいるはずだ。

これも人の運命というものであろうか。



立場。肩書き

2007年10月18日 | Weblog
人間に色をつけるのは、その人がいる立場である。立場にはすでに色つきがなされており、その色の人間として,人は判断を下す。

たとえば、僧は人に説教する立場の人だから,不道徳なことはしないと決めてかかっているが、現実はどうか。
お布施で生活ができない僧が窃盗罪で捕まったじゃないか。

警官が泥棒したり、万引きしたりしているではないか。

それは僧や警察官は不道徳反社会的行動をしないと、勝手にこちら側で決めてかかっているだけで、つまり信頼しているだけのことで、実際肩書きをはずせば、神と悪魔が同居する人間のことだから、本来あって当たり前の話である。

別に驚くには当たらない。

表に出ている色を見て中身まで,同一の色だと判断する方が完全に錯覚しているのである。  

西安市西北大学の寸劇事件

2007年10月18日 | Weblog
もうだいぶ前の話である。     

日本人留学生が卑猥な寸劇をして中国の学生の抗議を受ける事件が起こった。

卑猥な出し物があったにせよ、千人の抗議とはこちらがびっくりする。この国は一体どういう国なんだと頭を抱え込んでしまう。

学生たちは中国を侮辱したと抗議した。
軽率な面があったが、おそらく中国を侮辱するようなことは曲解で、それが本心でないことは日本人ならわかる。

しかし香港の新聞が卑猥な格好した留学生が「これが中国人だ」との札を下げていたと報じたものだから、騒ぎも大きくなった。

日本人がお世話になっている中国人に対して、「これが中国人だ」との札を下げて侮辱するか。そんなことはあり得ない話だし、ないはずだ。
第一少数の日本人で、そんなことをする勇気なんて有りはしない。

それは日本、中国、ラブのハートマークを背中に書き、日中友好をあらわそうとしたパフオーマンスの曲解だった。

留学生ら4人は「直接謝りたい」との意思表示をしたが大学は「誤って済む段階ではない」としてその機会を与えなかった。

腹を立てた学生は、留学生への暴力や抗議のデモ行進にまで発展したのは、国際間の微妙な理解の仕方の食い違いが、いつでも生じる危険性を露呈した。

話題は違うが、これに対して日本人として一事言わせてもらいたい。
福岡で一家4人が皆殺しにされて重石をつけられて、海に沈められた事件が起こったが、この犯人はいずれも金目当ての中国人留学生だった。

それでも日本では中国人留学生に対して、波風1つ立てていない。事の重大さは格段に違うのに。これは一体どういうことだ?

中国当局は犯人を捕まえ身柄を拘束しているというが、若しそうしないのなら、中国人は信用できないし、留学生は断固として断りたい。

日本の法律だと間違いなく死刑になる重大犯罪だ。もしこれを軽い刑で済ますならば、国際的に犯人の引渡し条約がないから抗議はしないが、中国人留学生はいろんな面で暗黙の報復を受けるだろう。

今日本で不良外人といえば中国人だと名指しされるくらい犯罪者が多い。これは一体どういうことか。
 
大局的な立場に立ってなどというのは、政治家の無責任なセリフであって、黙ってみている国民はその怒りを胸の中でくすぶらせるから、中国に対して決してよい感情はもたない。

東京都の治安を預かる知事が、名指しで悪の一掃を言うのは、都民や日本国民の感情を代弁しているのである。当たり前の話じゃないか。

若しこのまま犯罪者が放置されてしょっちゅうトラブルを起こすならば、日本国民として黙って見逃すことは出来ない。

こういう思いがあるからといって、今度の留学生の行為をかばうつもりは毛頭ない。それどころか、日本人として誤解を招く恥ずかしいことをしてくれたと怒鳴りつけたいくらいだ。

とかく国際理解は難しい。



鳩山発言 死刑制度について

2007年10月18日 | Weblog
元刑務官で作家の坂本氏が10月18日付けの朝日新聞朝刊オピニオン欄に彼の意見を開陳した。

詳細な説明は省くが、僕は 次の点が気になる。問題点の指摘だけでは解決はしない。
現行法を運用する最善の現実的提案がなされない限り、問題解決にはならないし、どんな議論もむなしいだけである。

そういう観点から氏の発言について私の考えを述べてみたい。

1、[
刑務官として、長年死刑囚を処遇し、執行に携わってきた立場から見ると、最終判断をするという大臣の職責を放棄するとんでもない発言だと思う。]
ということについて。

鳩山氏の発言は結果的には、大臣が己の主義主張、信念で判断をして職責を放棄して全うしないから、その結果が100人以上の死刑囚が未執行になって、法の空文化を招いている。この現実を指摘している。

そして大臣が決裁するのをためらい、個人的な信念や主義主張が法執行の妨げになっている問題について、その解決策の提案である.

定めがある限り、その通りに実施しないと法律という取り決めはないに等しい。

それを避けるために、大臣が「嫌がる決裁」の部分を個人の主義主張の部分を介在させないで、法の執行を厳正に行うという問題提起ではないか。
現行法を実施するためには現実的な提案だと思うが。これは検討に値する提案だ。

2、「命令がると、5日以内に死刑が執行される。本来は確定の日から6カ月以内に命令があることになっているが、実際は平均して7年5カがかかっており、現在も未執行の死刑囚が100人以上いる。
鳩山氏は「すべてを法務大臣に多いかぶせるということであれば法務大臣が苦しむ」とも発言したが、、、略 」

鳩山氏のこの発言は、現実が直面する問題点の指摘である。
大臣か苦しまなくても、法の執行がなされるための提案ではないのか。


「首に縄をかけ執行のボタンを押す職員の心情にも思いをはせてくれただろうか。」
この主張は心情的にはわからないではないが、これを斟酌して、法の執行をためらうならば、死刑制度は成立しない。
現行法がある限り、その厳正な執行をするのが当然だ。

それより何よりも、死刑囚は過去に自分の利益(それが金品の強奪であろうと、怨恨によるものであろうと)のために殺人を 犯した凶悪犯である。事件発生当時の被害者の無念さを思い起こしてほしい。
社会的に見てそれ相応の制裁を受けるのは当然である。被害者の苦しみや関係者の苦しみをもっと理解すべきだと思う。そしてまた
大多数の国民がこう思うから、現実には死刑制度が存在するのだ。

国際的に見て死刑廃止は世界や時代の流れであるとか、残虐な刑罰であるとか、冤罪の可能性を指摘して、この問題の議論を巻き起こそうというのなら、それは焦点がずれたピンボケの議論である。 そういう類の話は、別の次元のこととして、議論すべきである。
なぜならば鳩山提案とは直接的には、なんら関係がない話だからだ。

子は授かりもの

2007年10月16日 | Weblog
夜逃げをしているから、親父は隠れ家から、女房のところへ通ってくる以外、通常の夫婦生活はなかった。

女房は、新宿駅の近くで飲み屋をやっていて酒に酔って、アパートへ戻ってくると、夏の早い太陽は、東の空を、白々と明け初めていた。毎日がそんな生活の連続だった。

そんなある日、女房はいつものように、フカのようになって、熟睡していた。朝、目が覚めると、パンツのあたりがどうもおかしいとは思ったが、大して気にもとめなかった。

それから暫くしたら、おめでたの兆候が現れた。
 借金に追いまくられ、夜逃げしている身なのに、よりによってと、女房は身の不運を嘆いた。
 
思い当たるのは、ぐてん、ぐてんに酔って帰ったあの日のことである。それとて、親父が忍んできたという、はっきりした意識は無い。ただ、パンツのあたりが、いつもとちょっと違っている程度であった。
親父が、夜這いに来たのだろうか?。女房はあの夜のことを思い直してみた。心当たりがあるとすれば、それだけである。

 産もうか、産むまいかと迷ったら、答えはいつも決まって、堕ろすこと。ただ一つだった。しかしそのための金もなかったし、忙しさに、かまけて、もたもたしているうちに、堕ろすにも堕ろせないような状態にまで腹の子は成長した。
 
臨月になって、女の子が生まれた。女房はこの子を里子に出そうと決めていた。なぜなら、女房の生活状態からすると、親父は夜逃げしていて、ほんの時々しか通って来ない一家離散に近い状態だったし、経済的にも精神的にも、この子を育てる余裕も状況もなかったからである。
 
ところが、あれやこれや思い悩んでいるうちに、子供はかわいい盛りに成長した。

 今度は女房は、何があっても、この子を手放せないような気に、心変わりした。
やがてその子は100人に一人の倍率という難関をパスして、スチュワーデスに合格したのみならず、親思いで、いちばん親孝行ものだった。

女房はつくづく「こどもは授かりもの」であると思った。親父も女房も自らの意志で、この子を作ったわけでは、決してない。あの夜の親父の気まぐれから生まれた子が、他の兄弟姉妹から群を抜いて、夫婦にとっていちばんの親孝行者で、宝物になるなんて。いったい誰が想像し得たであろうか。

神様は時としていたずらをされることがあると、夫婦は真剣に考えた。また実感していた。

子供は夫婦よって作る。というものではなく、神様が夫婦に授けなさる、、、というのが人間の本当の姿かもしれない。

「子は授かりものである」。なるほど。昔の人はよく言ったものだ。

夫婦は今もそう確信している。

神経性下痢

2007年10月15日 | Weblog
神経過敏症の私は、仕事の上で溜まったストレスが原因で、神経性下痢をたびたび起こした。

どういうものか、それも習慣性を帯びていて、お腹がちくちく痛み出し、グットと腸内を抑え込むような痛さが走るのは、この満員電車の中である。

ところが乗ったが最後、身動きできないのが、朝夕ラッシュの通勤通学電車のお客である。
 列車のトイレが目の前にあろうが、なかろうが、手は大阪、足は東京の状況ではどうにもならない。

 ぐるぐると、腸内が鳴り出すと待ったなしである。
ビビッと下へ下へと攻めは広がり、かつ深刻になる。
電車が駅に着いて、トイレに飛び込むまでの勝負が始まる。

この時ばかりは私も、にわか信心を起こし、
「神様。なんとかトイレまで持たしてください。たのみます」と必死に祈る。このときばかりは日頃こねている、信じる信じないの理屈はどうでもいい。頭から吹っ飛び、素直に、しかも一心に「神様」と心の中で祈る。いや、助けを求める。

寄せては返す波のように時間が経つにつれて、痛みは波状的に増すばかり。
じっと唇を噛んで、こらえはするが、額は冷汗が一筋二筋と流れてくる。
死ぬような思いをすると言えば、オーバーな表現になるであろうか。

電車が、到着して、漏らさないように、そろりそろり歩いてトイレに行くと、順番待ちが3人ぐらい並んでいるのを見た時の恨めしいこと。
他所を探すが、ここで順番待ちをするか。あの時のいらいら。

 下腹からの圧力に打ち勝って、トイレに飛び込んだ時の嬉しい事。
一気にグッと力を入れると、ぱっと水花が白い陶器1杯に咲く。
あの時の気持ちよさ。
シクシク下腹が痛むが、助け船(トイレ)があるので、悠々たるものである。
。今の今まで神様に助けてくれと心の中で叫んだはずなのに、お礼も申さない。もうケロッと忘れている。身勝手なものだ。

苦しいときの神頼みというじゃないか。なるほど。なるほど。

それにしても、神様も人を救う商売だとはいえ、身勝手な奴を相手にしているものだ。良くぞ辛抱なさる。心中をお察しするに、たまらんだろうな。


「のどもと過ぎれば暑さ忘れる」ということわざを地でいっている。なんとも恩知らずなとは思うが。もう苦しい坂は通り過ぎた。

ある日、私は、この経験を友人に話した.。
彼はまだあるという。[満員電車の中]以外に
[運転している車が、渋滞に巻き込まれた時]
[授業中の生徒.講義している最中の教師」

3~40年間サラリーマンをやっていると、こんな経験は大抵のものがしているのじゃないかと思うが、皆さん。いかが?

[僕は今 何もいらない 紙以外」。実にこの通りだ。経験者語る。かな?