日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

思い出す人1

2019年07月30日 | Weblog
鑑真和上が揚州の大明寺に里帰りされたとき、東大寺の清水公照先生は

「菜の花や 目しいのひじり 里返り と詠まれた。

主賓の趙撲初先生は

「遍地菜花黄 盲目聖人帰故郷 春意萬年長」   と朗読された

友好・親善の夕は、5,7,5で華やいだ  乾杯

両先生とも黄泉の国の住人だが、

以上の文章を読むと両先生の交流がよくわかりほほえましくなる。

出直し友好

2019年07月28日 | Weblog
日韓友好関係が崩れかけている。怨1000年の歴史を持つ朝鮮民族とはこの際両国関係を

一旦ご破算にして少しの間冷却期間をおいて、お互いに友好的な雰囲気が生まれてきたら

そのときはその時で友好関係を結べば良い。

日本人の僕から見ると、今回の日韓関係を見るに、ずいぶん失礼なことをやらかしてくれた

日本人が本気で怒るのもむりはない。

しかしどんなに日本が正論を吐いても、怨1000年を持つ民族には、

日本の真意は伝わらない。いまの韓国の政権が続く限りこの状態が続き、

最悪断交までいくかもわからない。それはそれでよい。お互いに頭を冷やして未来志向の

関係を探れば良い。だから日本も腹の内をぶちまけて言いたいことは言い、

やりたいことは躊躇無くやる。それでいいのだ。

ただし今後は、怨1000年がかの民族の根底には横たわることだけはしっかり胸に刻んで

おかねばなるまい。

どこにも変な人が居る

2019年07月26日 | Weblog


一般に聖職といわれる部門にも常識を欠いた変な人間が居る。

教育者 弁護士 医者 国会議員、会社経営者、マスコミ

など世間をリードしてもいい立場にいる人の中に常識や良識から外れた言動をするものが居る

社会的立場がどうあれ、多くの人が期待している事に関しては、理解に苦しむ言動wする

人は職を辞してから、好きなようにやってもらいたい

枇杷の実が熟れる頃5-43

2019年07月25日 | Weblog
                枇杷の実が熟れる頃
梅雨入り
6月も中旬になると、毎日のように雨が降る。
雲は低くたれその雲に遮られて、太陽光線は地表には半分もとどかないのではないかからっと晴れた5月のさわやかな鯉のぼりの空とは大違いである。
来る日も来る日もしとしとかじとじとかで、こちらの気分までがはれやかにならない。
特に今年は雨や曇り空が続いて日照時間が短いので野菜がうまく育たないと農家がぼやいていた。
あじさいの花 は雨に濡れて美しく咲いている。

枇杷はこの時期に収穫期を迎える。卵形ほどの大きさで黄色に赤を混ぜたような色に、熟れた実は人間がとる前に、いろんな野鳥が着て、ついばんでいく。
果肉は皮をむくと、中に栗の実ほどもある大きな種が3つ4つあり、皮と種の間にある果肉が何ともいえず、おいしいものだ。
僕は自分が好きなので、枇杷をよく食べる。
この時期になりうっとしい天気になると決まって枇杷を思い出す。それには訳がある。

厳しくもかわいがってくれた、叔母が死んだのはこの時期、6月25日だった。

病院に入院していたが、抜け出して枇杷を買いに行って、病室の人と分け合って食べた。
叔母はこの世にこんなおいしいものがあるとは知らなかったと何回も繰り替えしながら、5つ、6つ食べたらしい。
だがこれが命取りになると言うことを知っていたのは多分医者や看護婦だけで本人はおそらく知らなかったのだろう。
病室の仲間の話では、枇杷が食べたいと看護婦には申し出ていたらしいが、それは体に良くないからと禁止されていたという。
気丈な叔母はよほど食べたかったんだろう、看護婦の目を盗んで、病室を抜け出し
自ら果物屋まで買いに行った。傘も差さずに、髪の毛をぬらし病室に戻ってきた姿を見て何と気丈なと同僚は驚いたそうだ。ということは、病状は相当に進んでいて、24時間ベッドに張り付いて、起きあがれない状態が続いていたからである。
よほど枇杷が食べたかったのだろう。それが死に至る食べ物だとは、知るよしもない。もしそれを知っていたら、きっと病院の目を盗んでまで、買いに行って食べると言うことはしなかったかもしれない。気丈な叔母のことだ。本人は自信があったのだろう。

叔母を亡くしてからいろいろ考えたが、結論は叔母のやった枇杷を食べる行為はもっともよい選択肢だったと思うようになった。

ブログを書くのも一苦労

2019年07月24日 | Weblog
ブログを書くのも一苦労になってきた。近頃は何をするにも、面倒くさいが先に立つ。

東京では今日交通実験が行われた。渋滞状況だとしきりに放送しているが、

大阪に住む僕には何の関係もない。同じ日本にいても人口の集中している都会と地方とでは

住む環境は違いすぎる。

便利という環境と不便だが都会のように混雑しない環境の2社択一は年代によっても違うが

人 物 世代によって決まってくるのではなかろうか。

今日が1年前だと騒ぐマスコミには背を向けている。

ポルノ映画5-44

2019年07月23日 | Weblog
            ポルノ映画
 

ポルノ映画専門の映画館に入った。見に行ったというよりは、冷房のよくきいたところで、暇つぶしをした、といった方がぴったりだ。こんなこと、生まれて初めてである。
 ポルノ映画というのは、どういう種類の物かよくわからないが、何とか想像はできる。男と女の関係を扇情的に、刺激的に、直接的に表現した安物の映画のことだろう。全く関心がないといったら嘘になるが、はじめからストーリーがわかるような気がして、のっけからばかばかしいという思いが先にたった。
 顔見知りに会わないように、あたりをきょろきょろ見渡して、こそこそっと足早に中に入った。場内は100席もあろうか、それでもパラパラ2、30人はいた。
 予想以上のあまりにも低級なストーリーにすぐ飽きた。映画の画面より入り口のポスターのほうが、よほど迫力がある。
 
 退屈した僕は、画面を見るより客の表情を見ている方が面白かった。
客席の年齢層は50歳から80歳くらいまでか。居眠りしているセールスマン風の人を、ちらほら見かけるが、きっとさぼっているんだろう。暇つぶしか、居眠りをして睡眠をとっているのだろう。そういへば、さっきから鼾をかいている人が、何人かいるが、彼らにとってここは、700円の休憩所なんだ。僕と同じように映画を見る為の映画館ではないのだ

 折角入場料をはらって入ったのだから、見なくちゃと、損得計算をして、再び画面に目をやったが、すぐ飽きが来た。何しろ60分の上映時間に3回も大あくびが出たのだ。
何故刺激を受けないのだろう。何故興奮がないのだろう。何故眠りかけている欲情をかき立てないのか、結構直接的な場面もあるのだが、何も感じない。
 まるで気が抜けた馬鹿みたいな話である。
 
 きょろきょろしていると、前列3列目の白髪の老人だけが、しっかり見ているのを発見した。彼は僕の注目を引いた。つえが左手にしっかりと握られている。右手は指が内側へ巻き込んでいる。きっと軽い脳梗塞でもおこしたのだろう。彼は右手と右足が不自由の身なんだろう。この人は今、病と戦っているのだ。いやこんな体で僕よりも、もっともっと枯れているはずなのに、こんな映画を見に来ているというのは、何か訳があるのだろうか。
 僕はその訳が知りたくなっていろいろ思案してみた。
しかし何の答えも見いだせなかった。そしてそんなことは、もうどうでもよかった。
 

 彼は今2つの敵と戦っているのだ。病の身ながら、攻め寄せてくる老いと、真剣に戦っているのである。こういう思いに、いたったとき、僕にはこの人の姿が美しく見えた。
 700円で僕は他人の人生の1断面を見せてもらった。それは若い男女の絡み合う姿よりは、余程僕の関心を引いた。
 また迫力があったし、生きることの1つの、生なましい場面を見せてもらって、考えさせられた。絡み合う姿と、人生のたそがれ時の人間の姿と、その対比は宇宙の陰陽の画面みたいだった。

人は彼のことを変人だという9-7

2019年07月22日 | Weblog
弱冠43歳でノーベル賞を受賞した田中さんはこんな事をいった。そしてそれこそ本当だと思う。
人は彼のことを変人だという。
彼は言う
常識にとらわれていると、身動きがとれない。常識という枠の中にはまってしまうと、枠のなかでしかものを考えることは出来ない。
僕は変人と言われようと自分の道を邁進する。自分なりの研究や実験法にあくまでこだわって仕事を続ける。
要するに常識を持って適当に周りにあわしていると、よい成果は得られないと言うことだ 。人がなんと言おうと、我が道を行く。それが自分の信念である。だから管理職になって人の上に立って組織を動かそうとは思わない。自分の好きなように研究できる立場の主任で十分だ。
実にうがった見方で、正直にものを言う人だ。その通りである。
常識の範囲のなかで生きてれば、確かに人の中にとけ込め大過なく過ごせるかも知れないが、その中に入ってしまうと自分のオリジナリテイを失ってしまう。独創性を出す前に、他の人間から大きな影響を受けて邪魔されるから「自分」を発揮できない。自分のオリジナリテイを大切にして追求しようと思えば、人の影響を受けないようにしなくては成らない。そこのところが変人呼ばわりされるところだが、変人と呼ばれるからこそ独創性が守られるのだ。
実に示唆にとんだ話だ。そして僕もそう思う 。
何かを作りだす人は自分の独創性を大切にして、そこにしがみつき追求発展するところから新しいものが生まれるのである。それは科学的な研究の場面においてのみならず、あらゆる分野例えば芸術の世界においても言えることである。

たとへばルーシーさんに僕はどういう態度で接しているだろうか。僕の分身である作品に常識というフイルターを掛けてはいないだろうか。 ぼくとしては常識で言うエーカッコはしたい。
いくら分身の作品だとは言え、むき出しの醜い面は極力避けている。そしてそれは当然だろう。嘘をついてカッコを付けるということはしないが、ある程度本当で、ある程度虚構でないと創作なんて出来ないことだ。さあ彼女が何処まで大人でいるか、その辺のことだろう。

何か宗教か

2019年07月20日 | Weblog

この世で苦しみまわっている人を救わないで何か宗教か 宗教家がこの精神を忘れずに、言動すれば、救われる人は多いはずである。

生活上やむなく都会で働かなければならない人に田舎にいるときと同様に宗教心を求めても無理である。
何の素養もない人に御宝号や御真言を唱えろと説得しても基礎がないだけに無理なことを求めることになる。
まず生きている人の悩みや苦しみを軽くする、相談相手になる事からはじめると良い。

人生のアドバイザーを求めるに、やはり修業を積んだ坊さんに頼るのか一番だとは思うが、新旧仏教教団にはその役割が果たせていない。

頼りにならないから人々は宗教から遠ざかる。こうしてお寺や教団が負のラスパイエルに陥っている。

宗教を往時のものにするためには、まず人の悩みや苦しみに寄り添って困った人を助けることから始めなければならないと思う。

宗教離れを言う前に、僧侶や教団が現代人が求めていることに答えながら宗教活動をしないとどんな宣伝をしても人は振り向かないだろう。

話が通じ合わない相手

2019年07月20日 | Weblog

話が通じ合わない相手

何を言っても話が通じ合わない相手と話し合うことなど、どうしてできるのだ?

会議は協議の場ではなくて、説明の場だと、言う事を双方が了承して始まった会議が食い違いを見せている。

韓国側は話し合いの場で了解したことと違う発表をする。

話し合いの場は彼らにとっては相互理解ではなくて、自分たちの言い分のデモンストレーションを行うことに利用している。

今の政権は一事が万事この調子である。

これを終焉させるためには、政権交代しかないだろう。

大統領が変わらない限り、話し合いは無理だろう。

未来志向なんて言葉の遊びに過ぎない。

こんな状態の韓国とは、未来志向なんてこちらがお断りだ。

できるだけかかわりを持たなくて、日本は既定のプログラムを粛々と実行していけばいい。
いちいち反応すると彼らに何らかの口実を与えることになる。

政権がいつまで、もつかそんなこと知っちあいない

今回の騒動で韓国人の国民性が日本中に知れ渡ったのではないか。

国民性の本音がわかった以上今後は付き合うとしても警戒心を解くことなく

できるだけ付き合いを避けることが、争いを産まない方法でお互いに心しておく必要がある。

グローバル時代といっても、付き合う必要がない国はいくつもある。

医者も大変だ

2019年07月18日 | Weblog
医者も大変だ

京都で放火事件があり20名が死亡したとのことである。

放火犯は41歳の男で体に大やけどをして病院に運ばれた。

運ばれてきた以上、20人を焼き殺した極悪人であろうと、やけどを負っているのだから、

運ばれた病院の医者は手当てをしなければならない  救命処置だ。

20人も殺すような極悪人の手当も手抜き無く、懸命に処置を施す医者の心境とはどんな者なのだろうか。

医者の使命感は相手の善悪を選ばずか。立派なものだ。

僕が医者だったら今の感覚では、放置して

まともな治療なんかするもんか。勝手に死ねよと突き放す。

情けは無用だ。

結果は泥沼化

2019年07月17日 | Weblog
結果は泥沼化

日本側の説明が伝わらない。
話し合いをしても結局無駄だろう。それなら話し合いをしないで黙々と日本の考えていることを実行せざるを得ない。
歴史の転換期かも
一度これを機に精算した上で立て直すのが現実かもしれない。

沖縄平和祈念像讃歌

2019年07月15日 | Weblog
摩文仁の丘にある 沖縄平和祈念堂の

沖縄平和祈念像讃歌 の詩です

作詞渡久地正信 有名な作曲家


諸人の願い 天地もなびく
今 皆が郷に 諍いを捨てん
見よ白雲の果て聖なる空に沖縄の風さやかに歌う

肩に貫通銃創を受けて死線をさまよった作曲家の実感のこもった平和希求の作詩
透明感、気品、気迫のこもった穏やかさ。

会議では異論出ず一発でこの作品に決まったそうです。

説明会と協議会

2019年07月14日 | Weblog
説明会と協議会

日本は今回の韓国との打ち合わせを説明会だと伝えた
このことは韓国が来る前から伝えてある。
だが韓国は協議だという
事の次元は完全にすれ違っている。
この話し合いはどこまで行っても一致点を見いだせない。
不毛の会議だ。何を目的にやってきたのだろう。

この会議からどんな意見が飛び出すかみものである。とおもいきゃ案の定
,会合の後に韓国側は
1,協議のための会議だった
2,輸出規制の撤廃を求めた
と発言した。日本の主張とはほぼ関係ない。話は完全に空転している
是は予想通りのことだった。こう言うだろう事は推測できた。
何を言ってもまともに受け取らずいちゃもんをつけるのが韓国である
無視する以外にどういう手立てがあるだろうか。

話の通じ無い相手に話を通じさせるなんて至難の業だ。


話しても無駄

2019年07月14日 | Weblog
話しても無駄
韓国のやり方は いつもこうだから日本とはかみ合わない。

日韓の事務レベル会合後の韓国当局者の発言が双方で合意したのに
1、公表範囲を超えていたり
2、違っていたりする
ので経産省は遺憾と伝えた
また韓国は
1、問題解決のための協議と呼ぶのがふさわしいとも言ってっている
2,輸出強化について日本側に撤回を求めたとも発言した

これを受けて経産省が急遽反論のための会見を開いた
協議だとする韓国側の発言について
協議ではなく事実関係の説明を行う会議だ
ということで会合を開く前にすでに韓国が合意していた。
是は会合を開く前に日本は伝えていた事だ

日本の言うことをまともに理解していない、そして嘘をつく。約束を破る
どうしてこんな韓国と話をするのか。

結果が読めるじゃないか、丁寧に無視する以外に手がない相手だ。

お経

2019年07月13日 | Weblog
         お経

お経は釈迦の教えである。彼がこの世のありとあらゆる体験をして、その後に、宇宙の真理を明らかにし人間の生き方について ノーハウを教えた。お経はそのエッセンスを凝集したテキストである。
あらゆる思索と体験をしてその後に、釈迦が、悟った人生の根本原理と生きがいのある、悔いのない人生を送るための考え方や,実践の仕方それを満載したものがお経である。

 われわれはこれを、誤解して陰気臭いもの、抹香臭いものと思っているが、それはお経の本質や、実態から離れ過ぎたものである。
お経が悪いのではなくお経を読む、現場が悪いのである。我が国ではお経は葬式や法事など死者を弔ったり、死者を忍んだりする時にかぎられて用いられる。
だからわれわれは、お経に対して偏見を持つのである。

人生はどういうものであるにしろ生き方は、個人にゆだねられている。生きがいのある人生か、つまらない人生か。それは、すべて個人にゆだねられ、個人が決めていくことになっている。ということは人生については、各人がおのおのの人生に対して責任を持たなければならないということである。より有意義な人生を送るためのノウハウ、や智慧が経文の中にたくさん盛り込まれている。
もともと、インドで生まれたものであるからインドの、言葉で、書かれておりそれが、玄奘によって、中国語に翻訳され ほとんどそのままの形で日本に、輸入され中国語で書かれたお経にぶっつかるから現代の日本人にとってはとても読みにくく、しかも難解なのである。
 歴史上の大天才が体験し、思索した物の集大成だからそれは決してやさしいものではないが、日本語でわかりやすく解説すればもっともっと、現代の日本人にも受け入れられるように思われる。

この世に生まれて、生きる目標がたくさんの富を得る事であり、社会的な地位を得ることでありというような世俗的な事ばかりに関心が奪われているような人にはお経は一見して無用に見えるが、それは全く逆のことで、そういう俗世の確かな物を得るためにも、お経は必要な物なのである。

しかしながら、僕はあらゆる人にとって人生読本だと思うにも関わらずこれが不思議なもので、極少数の人にしか縁のないテキストなのである。
考えてみると、これも縁なき衆生と、縁のある衆生とに分かれていて、縁なき衆生はとことん縁のないものなのであろうか。
しかし生き甲斐のある人生を送るための、すばらしいアイデア集であり、賢く生きるための知恵の宝庫であるものだと思うから僕はどなたにも読むようにお勧めしたい。
そのためには何の知識もない一般衆生が日常生活の中で困った時に問題解決の為の手引き書として、つまり漢字がが判らないときに漢和辞典を引くように、人生辞典としていつでも手元で活用できるような、日本語訳が不可欠である。出よ。お経の日本語翻訳者。